>しかし、憲法9条の思想が世界的に一般化しておらず、軍隊と戦争が存在する現段階では、戦争による殺人をいかにして減らしていくのかが実践的課題として問われるべきでしょう。先制攻撃の禁止、非戦闘員の殺害の禁止、降伏した軍隊や捕虜の虐殺の禁止等々のルール化により「人間を殺してはならない」の人道的価値観が戦争と軍隊にも貫かれるべきなのです。それは「軍人にだけ手を汚させる」というのではなくて、「人間を殺してはならない」を軍隊と戦争の廃絶にまで段階的に至るための、理性的努力の一つなのです。
「人間を殺してはならない」の実現は、なにより戦争そのものを無くす努力を優先しようとの発想に基礎付けされるものでしょう。その実践的課題として先制攻撃の禁止は重要ですが、非戦闘員の殺害や捕虜の虐殺の禁止等々のルール化は、戦争そのものを無くそうとの努力とは異質な課題です。非戦闘員の殺害だけを禁止しようとの発想が、どうして「人間を殺してはならない」という人道的価値観を戦争と軍隊にも貫くことになるのか? むしろ私には、未熟な民主主義が生んだ20世紀「先進資本主義国」の歪んだ「人道主義」に思え、その観点から「軍人にだけ手を汚させ、自らの責任についてはそれを引き受けることを拒む『一般民衆』の退廃」と表現したのです。先進資本主義国の「一般民衆」に都合の良い戦争のルールを決めても、戦争は無くなりません。
くり返しますが、一部の国・地域を略奪・搾取によって19世紀的状況に押し込めておきならが、自らは21世紀を謳歌している身で、歪んだ「20世紀の教訓」を絶対化して、略奪・搾取される側の冒す「犯罪」をバッサリと斬りつける、そうした発想がヒューマニズムであると説く思想を私は受け入れることができません。また、democratさんの言う「理性的努力」も、単に、自分の棲む世界に都合の良い「理性」に過ぎないように思えます。それを遠慮のかけらもなく言い放つことができるのは、やはりくり返しになりますが、自らが強者の犯罪(略奪・搾取)の恩恵に与っているとの自覚の希薄さに由来するとしか思えません。
>例えば、軽急便爆破犯人は規制緩和の「ルールなき資本主義」の法制度で守られた企業に「やられ放題であった」ともいえるし、宅間の身勝手な不満の対象も現行法制度の下では決して解消されることはないでしょう。殺人者の立場に限りなく近づけば、「復讐するは我にあり」で誰も非難できなくなってしまいます。
私の言う「法の元の平等」は、誰であれ同じ犯罪を犯せば同じように裁かれる(罰せられる)状況をさしています。先制攻撃という形で侵略戦争を開始し、「誤爆」と称して一般市民を大量殺戮した米国と、やられ放題のイラクとの間にある根元的な不平等を日本国内にある法のすき間をついた不平等と同列に扱う発想に絶句してしまいました。
>ブッシュ政権の戦争責任者が将来、戦犯として裁かれないとは限らないでしょう。現に、米国内でさえイラク戦争批判は強まっているし、国際法廷を求める運動は根強く行われています。一般市民に対するテロはこうした理性的な責任追及を困難にし、加害者に居直らせる根拠を与えるだけです。
私は、米英のイラク侵略直前から、ブッシュ、ブレアを国際法廷へ告発する運動に接し、これへ共感し、ただちに実名署名を公表し、このさざ波「一般投稿欄」でも2度にわたり運動への連帯を呼びかけてきました。「法の元の平等」を国際的にも実現しない限り、「人道主義」の観点からであっても、あらゆるテロに対する批判精神の機軸を自らの中に恢復できないと考えたからです。そして、その努力が実る見通しが立たない限りテロを非難する資格はないと考える(個人的な)立場を明かしてきました。それは、「一般市民に対するテロ」が、そもそも何故頻発することになったのか、その真の原因を造ったのは誰なのか、悲惨なテロも戦争も無い世界はいかに創造されるのかを、自分なりに理性的に考えた結果であり、今もこの考えにいささかの揺るぎもありません。一般市民に対するテロを理由に加害者に居直らせる、その根拠を与えているのは、他でもない、テロを非難して終わっている皆さんの主張そのものです。もっともっと理性的になって下さいと言う他ありません。
>たとえば、広島市民が日本軍のアジアでの残虐行為を非難せずに原爆の悲惨さのみを訴えるなら、その訴えのヒューマニズムとしての一貫性が疑われます。ヒューマニズムとは人種、国籍等を問わずただ人間であることのみで尊厳性を要求するものだからです。
同様に、一般市民へのテロを非難しない人が米軍の残虐行為を非難するのは、やはりヒューマニズムの観点では筋が通らず、説得力を欠くことになります。まさに、「どっちもどっち」というわけです。
もともと、この部分の議論がなぜ起こったのかを思い出しましょう。私が本多勝一さんからの大江健三郎さんへの批判について触れたことに対して、democratさんの10/1の投稿では「広島・長崎の原爆投下に対する大江批判についても、ヒューマニズムの観点と運動の観点を混同したものだといえます」と応じられ、「加害者の視点は、その主張をどうやって多くの人に理解してもらい、運動を広げるかという、運動の観点からのものです」と結論付けられています。
一方、上記引用の文章では、「ヒューマニズムとしての一貫性」という観点から「加害者の視点」が必要だとされています。同じ事を本多さんが主張したら「運動の観点」になってしまうという論理が理解できません。
しかし、ここで私は、democratさんの言う「運動の観点」と「ヒューマニズムの観点」とを対置させて議論したいのではありません。私が、例えば広島の原爆資料館の展示に表現されている核廃絶と真の平和実現をめざす思想を「被爆者自身の長年の苦闘の末に築かれた現在の到達点」と感じるのは、被爆者自身が、原爆の惨禍の発端となった根本原因をあやまたず指摘し、決して「けんか両成敗」に陥っていないからです。もちろん、米国へ向けていろいろな観点から非難する声、謝罪を要求する声も含まれています。しかし、非難の声はむしろ、無謀な戦争を開始し、アジア諸国民に多大な惨禍を及ぼし、負け戦を長引かせ、結果「広島・長崎」へ至る根本原因を造った「大日本帝国」軍部へ向けられ、被害補償の要求もまた、現在の日本国政府へこそ強く向けられているのです。
9.11に対置するなら、ニューヨーク市民が根本原因の認識の基、その被害の補償と謝罪を本国政府へ向けて要求するようなものでしょう。もちろん「広島・長崎」と9.11とでは情況が同じではありませんから、そうすべきと主張しているのではありません。なにより、かっての「大日本帝国」と異なり、現在の米国には「民主主義」があります。その上で私は、何をなすべきかを主張してきたつもりです。
>ちなみに、本多勝一のけんか両成敗論批判は、もともとベトナム戦争について言われたものですが、侵略とそれに対するゲリラ的反撃という戦闘行為に限ったものであって、一般市民へのテロは射程外です。
本多さんの「けんか両成敗論批判」の核心は、原因と結果を同列に置かず、原因をこそ撃つべきであるとの発想にあります。そうしなければ、問題はいつまでも解決しないからです。結果が悲惨であることを歓迎する人は居ません。長壁さんの「ほんとうは私は彼等に紙とペンをさしあげたい」という願いは、私自身のものでもあります。一般市民へのテロという結果はあまりに悲惨ですが、それでも私達は、原因と結果を同列に置いてはいけないのであって、結果の責任を負うべきは、原因を作った側にあるという当たり前の視点を堅持するなら、紙とペンをさしあげられる情況にない事を悔やみつつ、原因を取り除く努力をこそ優先して追求しなければなりません。その事は、9/18の川上慎一さんの投稿に見事に表現され尽くしていると思うので、これ以上くり返しません。
これに対して、悪しき政治主義であるとか、イデオロギーを人命に優先させる発想であるとかの批判がくり返されています。しかし、例え「ヒューマニズム」と言えども、全ての主張は、(不可避的に)現実世界の情況の中で実践的に政治的意味を発揮する「イデオロギー」の要素となるのです。その中身を議論している時に、上記のような批判はレッテル貼りと同質の無意味なものでしかありません。