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「イラク戦争」討論欄

テロ批判は手段か目的か-川上氏へ

2003/11/9 democrat、40代、弁護士

 マルクスやレーニンのテーゼですべてを説明しようとするのは、いい加減にやめた方がよい。

 テロ容認思想は、あえてマルクス主義の言葉で否定するまでもなく、ヒューマニズム(人道主義、人間の尊厳)に反するといえばたりる。そして、より重要なことは、マルクス主義はヒューマニズムをより徹底し、自由と民主主義を基本的価値として承認するものであると確認することである。

 川上氏の議論の中で気になるのは、テロ批判がたんなる「手段」・「方法」の問題にとどまり、ヒューマニズムを基本的価値とする視点が弱いように感じる点である。

>「マルクス主義においては、テロリズムを社会変革の主要な方法として位置づけることはない」というのが私の理解です。幾人かの政治家を暗殺するとか、市民を無差別に襲うことで恐怖心を抱かせ、このことによって社会変革が実現できるなどとする思想は少なくとも現代のまともな左翼、社会主義の中には存在しないと言ってよいと思います。
>さまざまな政治的な出来事を階級関係に還元してものごとを理解するのがマルクス 主義の基本的な方法です。9.11事件にしても、イラク国連事務所事件にしても、パレスチナでの自爆攻撃にしても、これらを共産主義者の立場から批判するとすれば、階級的視点に立って「アメリカの民衆やイスラエルの民衆そのものは真の敵ではない」 ということが根拠になるはずであり、私に言わせれば、批判されるべきは「敵・味方 思想」ではなく、逆に、イラクやパレスチナの闘いにおけるその思想「敵・味方思想」 の未成熟さであります。

 川上氏にあえて問う。テロリズムが「主要な方法」でなく「社会変革」に少しでも役立つのならばテロは容認されるのか? あるいは、「階級的視点」から見て「真の敵」ならばテロは許されるのか?
 私は、こうした場合でもテロはやはりヒューマニズムに反する行為として否定されるべきだと思う。これは、「弱者・被抑圧者・侵略されるものの側に立つ」ということとは全く別の問題である。

 誤解のないように付け加えるが、私は侵略軍に対する防衛戦争やゲリラ的戦闘行為までテロだと言って否定するつもりはない。これらは「正当防衛」の概念で理解されるべきものだ。「正当防衛」とは、「急迫不正の侵害状況の下における攻撃者に対する防衛行為」という、危急時のやむを得ない行為に限定される概念であって、一般民衆に対する無差別テロを容認する余地はもちろんない。

 「さまざまな政治的な出来事を階級関係に還元してものごとを理解する」という「階級的視点」に立った思考方法についても、決して万能のものではあるまい。「労働者階級の利益にすべてを従属させる」というレーニンのテーゼは、結局、民主主義や自由を一つの手段に貶めてしまい、「階級的利益」に合致する範囲でしかそれらを承認しようとしなかった。こうした「階級的視点」に立った思考が、政治的暴力の容認に容易に結びつき、スターリンの粛正や文化大革命の暴力という最悪の過ちをもたらしたことは否定できまい。

 別の言い方をすれば、暴力と非民主的手段によって確立された権力はその維持のためにまた暴力と非民主的手段を用いることになる、とも言える。これもまた歴史の教訓であって、その例外を私は知らない。

 したがって、我々は、ヒューマニズムとそれに基づく政治原理である自由と民主主義は「階級的利益」に従属する「手段」なのではなくて、それ自体が達成すべき「目的」であり、「階級的視点」を越えた基本的価値だと承認すべきである。
 いうまでもなく、日本共産党の「自由と民主主義の宣言」はそのマニフェストであり、したがって、日本共産党は共産主義者の党であるとともに、それ以前にヒューマニストの党だと私は理解している。

 だから、ここでテロ擁護の論陣を張っている方は本来党員の資格のない方であると思うし、たとえ「弱者・被抑圧者・侵略されるものの側に立つ」と主張していても、ヒューマニズムを揶揄し嘲笑するような人とは決して共に闘うことはできない。このような人たちと協力すれば結局は良識ある人々の支持を失うだけだし、万が一協力して「社会変革」を成し遂げることができたとしても、その社会がヒューマニズムを実現し、自由と民主主義を基本的価値として尊重する保証は全くないからである。
 「古くさい反共宣伝」として片づけるにはあまりに重い多数の実例を、我々は見てきたはずだ。