2月20日自衛隊本隊が派兵されるので緊急集会が大阪中ノ島であったので私は参加しました。6時に集会が始まるのに4時半に淀屋橋についてしまったが橋の上で数人の人がビラを撒いているのを手伝いました。五時過ぎになると帰宅するサラリーマンが北へ北へと歩きます。ビラを差し出しながら他の人を真似て「自衛隊のイラク派兵を阻止しましょう」とひっきりなしに呼びかけて通行人に渡そうとするのですが、ほとんど受け取ってもらえません。
時間になったので集会場の女神像の下に行きましたが、公安らしいのがたむろしている中を突っ切って入っていったのですが、参加者はわずかで現実はこうなのだと改めて見回しました。やがて太鼓とドラムにリズムに合わせながら小さな隊列は御堂筋デモに入りました。We want peace. No War. No more War。帰れ米軍 行かすな自衛隊 イエイ もうこれ以上イラクの人を殺すな イェイ。
シュプレヒコールにあわせながら私も声を限りに叫び続けました。松葉杖が手の平に食い込んで痛くなる。マフラーを手に巻いてこらえてみんなの中を歩きます。ギブアップしようにも、隊列が小さいのでしんどさをこらえて歩きました。歩き、叫びながら過去のいろいろな時代に参加したデモが走馬灯のように頭の中を廻るのでした。二十才のときは京都の円山公園から京都駅までのくだりの緩やかな坂道を「警察官職務執行法反対」の提灯デモに加わったがあの頃はジグザグでもでワッシィワッシィと叫びながら警官隊にぶつかっていったものだが、私はジグザグに入りかけると隊列から離れたものだった。60年安保では大阪駅辺りからデモ隊が出発し難波で解散するのだが先頭が難波で解散した同じ時にまだ大阪駅前にはデモに出発できない人々が蟻の大群のように待っていたものだった。御堂支持のビルの陰には機動隊がぎっしりと並んで号令一下デモ隊に襲い掛かろうと手下すねを引いていた。
日韓条約反対のときは私は国会まで行ったのだった。「この年になってまだやっているンだな俺は」
沿道で中年のサラリーマンが二人手を振ってくれた。渋滞する車のうちの1台がクラクションを鳴らし中から男が手を振って激励してくれている。信号のところでデモ隊が通過するのを大勢の若者やサラリーマンが待っているのだが、私たちを見ている人もあれば見ないようにしている人々もいて「みんな複雑な表情をしている」なんて観察している俺。人どおりの多いところでは精一杯声を張り上げ人々の注意を引こうと私たちはしていました。
梅田で最後のシュプレヒコールをやり、私は一人で大阪駅から電車に乗ったのですが駅の構内で見る人々は普通の顔をしており若い女の子は細い眉毛で目をぱちくりさせているので「押しても引いても何にも変らない夜だな」とおもったのでした。なんだか私は別の世界に生きているような寂しさを覚えまっすぐに帰るのが嫌で家にたどり着くまでに赤提灯に入って2杯飲んだのでした。熱い酒が五臓六腑に染み渡ります。「今に見ておれ、」一人つぶやくのです。
夜中に足が引きつって何度も目を覚ましました。
3月20日ですね。「イラク攻撃1周年世界統一行動」日比谷公園だね。なんとしても行きたいと思います。みんな、日比谷で会おうぜ!
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