第1次世界大戦勃発時、社会主義者たちはA帝国主義とB帝国主義との戦争に対し
て、「A帝国主義につくのかB帝国主義につくのか(どちらがよりましなのか、ある
いはどちらがやむにやまれぬ「抵抗」の手段として戦うしかないのか)」という陥穽
に自らはまりこみました。どちらの帝国主義も民衆にとっては闘い抜く敵であったに
もかかわらず。(但し、「マルクス・レーニン主義者」という全体主義者が最終的に
はさらにこの民衆の戦いを簒奪したという気の遠くなる悲劇がさらに控えていたので
すが)
さて、21世紀の今も、あいかわらずの「主義者」たちは、AテロリズムとBテロ
リズムとの<戦争>に際して、同じように「どちらがつくのか(どちらがよりましな
のか、あるいはどちらがやむにやまれぬ「抵抗」の手段として戦うしかないのか)」
というおしゃべりにをちりばめるてしか語れず、敵に奉仕しているという始末。(し
かもそれが陥穽であることがはるかにわかりやすい現実を前にして。「一度目は悲劇
として二度目は喜劇として」を体現して)
A・Bには「北朝鮮国家」「アメリカ国家」「イスラム「原理」主義」「イスラエ
ル国家」「サダム・フェダイン」「アルカイダ」等々の言葉が具体的に入ることは言
うまでもありません。そして、イラクやスペインや日本の街頭で人々が口にする当た
り前の民衆理性に基づく言葉を、「主義者」たちは理解できないばかりか、蔑視し悪
罵を投げつけ(せいぜい、それはマスメディアに扇動されたものと見下し、または、
素朴で権力者や拝外主義者に利用されかねないものと貶め)、その結果、民衆からま
すます見放されていき、今こそ求められる「主義」の徹底的自己批判と自己剔抉から
逃避し、歴史の藻くずとして消え去る道を選んでいることに気がつかないという情け
ない仕儀。