訳あってしばらく「さざ波」から遠ざかっていました。一月ほど前に久しぶりに覗いて、昨年の10/19に未来派さんから私への丁寧な返書が投稿されているのに気が付きました。私としては、過去の投稿で言い尽くしたので、私論へのいくつかの誤解をただすことも敢えてしませんでしたが、昨日(3/29)ちょっとした動機を得ましたので、その「誤解」の一つにコメントを。
>テロを非難する者はアメリカの戦争に加担するものだと決め付けるようなプロパガンダでは自ら運動の幅を狭めて、憎悪の連鎖にはまり込むものではないでしょうか。
昨夜NHKのテレビ番組で、パレスチナ「過激派」の自爆テロによって長男を19才で亡くしたイスラエル市民である父親のルポを(一部分だけ)見ました。次男もまた、兄と親友をテロで亡くした絶望から同じく19の歳に遺書を遺して自殺してしまった。二人の息子を亡くした父親は、その後どう生きようと決意したのか。彼は「テロ犠牲者の遺族の会」を拠り所に、テロのない社会の創出のために憎悪の連鎖を断ち切ることを呼びかける運動に身を捧げることになる。「遺族の会」は、パレスチナの「テロ遺族」にも連帯を呼びかけます。イスラエル市民を標的に実行されたパレスチナ「過激派」の自爆テロも、イスラエルの「軍事行動」も、共にテロであり、その犠牲者は等しく追悼されなければならず、同じ悲劇をくり返してはならないとの想いが結晶した運動です。
テロの犠牲者の立場でありながら、彼らのアピールは、決して「テロを非難する」ではなく、あくまで「憎悪の連鎖を断ち切ろう」に尽きるものです。軍事的に圧倒的強者の側であるイスラエルの、その市民の運動としていろいろな限界のあることは避けられませんが、同じく圧倒的強者と行動を共にしながら、テロの応酬という点ではその直接的な「当事国」にはなっていない日本国の一市民としてテロとどう向き合えば良いのか、そのことを私は考えます。一市民が、「憎悪の連鎖を断ち切ろう」と呼びかけることと「テロを非難する」とアピールすること、表面上はほんの些細な言葉の問題に過ぎないのだけれども、両者の落差の大きさを想います。
「憎悪の連鎖を断ち切ろう」と呼びかけるなら、(目的を達するために)この言葉に続けて言うべき一市民としての行動目標を明かさなければなりません。上に述べたようなイスラエル、パレスチナ双方の「テロ遺族」の共同した運動体を組織するのもその一つでしょう。同様に「テロを非難する」とアピールするなら、この言葉に続けて言うべき一市民としての行動目標を明かさなければなりません。そうでなければ、そのアピールは単なるアリバイ造り、例えば、自身がヒューマニストであることをアピールしたいがためだけのものに過ぎず、ヒューマニズムの実現とは無縁であると言われても仕方ないからです。とりあえず「テロ非難」のデモでも組織したら良いのでしょうか? その次は? 「落差」の実体はその局面で表出します。このことは既に私の03/9/3の投稿他に書いています。
テロを無くすためにはどうしたら良いでしょうか? 「テロ非難」の世論を盛り上げることで、ほんの少しでもテロが少なくなると、本気でお考えでしょうか? かって「一般投稿欄」で ecologosさんは、「最終的に憎悪と絶望によって駆動されるパレスチナ側のテロは、まさに避けがたい物理法則のようなものです」(03/10/10)と書かれました。私も同様に考えます。したがって、一市民として「テロ非難」の合唱には加わらず、「憎悪の連鎖を断ち切ろう」との呼びかけには賛同しますが、むしろ憎悪と絶望の依ってきたる根本的な原因である強者の横暴を一歩でも後退させる努力を最優先しなければならないと考えるものです。「強者の横暴を後退させる努力」は、必然的に、イスラエルとパレスチナの「テロ遺族の共同した運動体」に期待してはならない性質の政治目標を提起します。そうした努力は、例えば私達日本国の一市民のような立場の者に託された課題なのではないでしょうか。一方で当面のヒューマニズムの実現は、上に述べたような当事国市民同志の、立場を越えた連帯に、その萌芽を見守る他ないと思いますが、いかがでしょう。