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「イラク戦争」討論欄

パレスチナ問題における無差別テロを考える

2004/4/4 勘太郎、50代、教師

 パレスチナ問題について本サイトでも多くの方が発言しておられます。貴重なご意見もあると思うのですが、ご意見の前提となる事実認識で疑問を感じることが多いのは残念です。
 私がもっともそれを感じる点は、イスラエルにせよパレスチナにせよけっして意見が一枚岩ではなく、さまざまな集団、さまざまな層に分かれているのに、目立つ層のみがイスラエルないしパレスチナを代表する層と思われているのではないかということです。
 イスラエルの中で根強く占領反対運動を続けるウリ・アブネリ氏やデビッド・グロスマン氏などの人びとがいることはよく知られています(グループは分かれているようですが)。
 また先に天邪鬼様にご返事させていただいた「パレスチナ問題の12冊」(1・2冊を見間違えたという老眼落ちの産物)に記した長野智子さんのレポートには、9・11の評価をめぐってパレスチナ人民同志の衝突が記されています(こういうことは「親パレスチナ」のニュースでは紹介されないようです)。
 また今回殺されたヤシン氏のハマスだけがパレスチナを代表するわけではありません。PLO、PFLP、イスラム聖戦、ISMといったさまざまなグループにわかれています。
 ここでISM(インターナショナル・ソリダリティー・ムーブメント、国際連帯行動)はイスラエル平和勢力をもふくむ国際連帯の力でパレスチナ問題を解決しようとするグループです。
 2003年3月16日のガザで、パレスチナ人民の住んでいる家屋を破壊しようとするブルドーザーの前に立ちはだかった若いアメリカ人女性レイチェル・コリーさんが、そのブルドーザーにひき殺されました。レイチェル・コリーさんはイスラエルの蛮行に対する国際民主主義の象徴として、人類全体における人間の尊厳の象徴として、現在世界中の数多くのウェブサイトであまりにも短かったその生を称えられています(人は年数によって生きるのではなく、その行為によって生きるのであると)。コリーさんはISMの参加者でした。
 故エドワード・サイード氏もISMを全面的に支持されていました。私も(本サイトへの投稿のどこかで書いたと思うのですが)この人たちの路線にこそ唯一の人間的解決の方向があると思っています。
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 私はヤシン氏の死を(帝国主義に起因する膨大な数の不合理な死の一つとして)悼むものですが、(前から書いているとおり)ヤシン氏の路線つまり無差別テロの路線を支持しません。
 ヤシン氏がどのような考えの持ち主であったかは例えば『週刊金曜日』の最新号に載っている土井敏邦さんのインタビュー(2002年8月に行われた)からわかります。
 ヤシン氏はそこで無差別テロの絶対的正しさを主張し、1967年のイスラエル占領地(西岸地区・ガザ地区・東エルサレム)にパレスチナ国家を樹立するという構想を、①残りの土地に対する権利も放棄しない、②シオニストの「国家」(イスラエルのこと)を認めない、という条件で、つまりパレスチナ人民の闘争の一段階として認めると言っています。
 そしてヤシン氏はイスラエルが「神の意志によりこの三〇年で崩壊しはじめると見ています」とされています。
 露骨に言えばイスラエル人民を皆殺しにするか、パレスチナ国外に追い出してふたたび流浪の民にするということでしょう。そしてそれは「神の意志」によって実現されるというのです。
 私は拙稿「ちりつもジェノサイド」において、シャロンが最終的にはパレスチナ人の土地をすべて奪うつもりであり、そのために「ちりつもジェノサイド」を続行中であるという意見(サイード氏の主張に同調したもの)を紹介させてもらいました。シャロンのそれも非現実敵妄想というべきものですが、ヤシン氏の「構想」も残念ながらそれに類したものと思わざるをえません。
 私にはこういう路線を支持することはとてもできません。
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 繰り返し述べることになりますが、パレスチナ問題の本質は帝国主義の中東支配の矛盾の露頭にあります。侵略した側・させた側(はじめイギリス後にはアメリカ)に主要な責任があるの当たり前のことです。
 パレスチナ側にも問題があること(遺憾ながら正しい)を根拠に、パレスチナ問題でイスラエルとパレスチナの道義性を同格視しようとする方はしばしば見られます。残念ながら私は、そういう方の動機、そうでなければ知力、あるいは動機と知力の双方に、疑問をいだかざるをえません。
 しかし私は(何度でも繰り返しますが)無差別テロを倫理的に認めるわけにはいきません。またそれが政治的にもまったく肯定的な意味を持っていないと思わざるをえません。
 無差別テロの否定的な政治的意味なら、大きなものが二つすぐあげられます。
 第一に、それは味方にすべき人びと、国際世論を敵にまわし、パレスチナを弾圧する側に絶好の口実を与えます。(私はシャロンの意図的挑発にパレスチナ人民が無防備に乗っているように見えます。)
 第二に、それはイスラエルの犯罪を糾弾するパレスチナの倫理的優位を自ら放棄することを意味します。
 ナチスドイツのホロコーストを無視した欧米諸国に、自分たちの行為をとやかく言う資格はないはずだと、イスラエルはその建国における虐殺(デイル・ヤーシーン村などの)や百万以上のパレスチナ人民を外にたたき出したことに対し、欧米の世論を沈黙させました。(こういう「倫理的キャンペーン」は実は絶大な歴史の動力となります。)
 パレスチナはイスラエルに対し「ナチに迫害されたイスラエルがパレスチナに対し同じことをしている」と世界に、イスラエルに、またアメリカにキャンペーンする権利を、イスラエルの一般市民を殺すことにより自ら放棄していることになるのです。
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 これも前にも書いたことですが、パレスチナに比べればまだまだ安穏な日本で、パレスチナのことを言葉のみで(偉そうに)語ることに人間的な恥ずかしさを私が感じていないわけではありません。
 しかしイスラム原理主義者による東京での無差別テロがかなりの可能性で考えられ、また国際世論の一環としての日本世論がパレスチナ問題で少しでも正しい(パレスチナ人民の権利と尊厳を護り、かつ将来のイスラエル人民のジェノサイドに至らないような)解決に寄与しなければならないとき、日本の反戦勢力もこの問題に対し定見を持つ必要があると考えます。
 そしてその定見は事実と原則をふまえながらも、過度に単純化した二元論(敵か味方か、勝ちか負けか、善か悪か、だけの)を克服し、人間的な解決を目指すものでなくてはならないとも思うのです。