「我が国として(自衛隊を)撤退する理由はない」
(内閣官房長官の緊急記者会見)
イラクにおいて3人の日本人が「サラヤ・アル・ムジャヒディン(戦士旅団)」を名乗るグループに誘拐・拘束された。
報道によると、3人はそれぞれ、フリージャーナリストとしての取材、アメリカ軍の使用した劣化ウラン弾による被害調査、人道支援活動、のためイラク入りしていたという。
おそらくこの3人は、遠く離れた所から、他人事のようにイラク情勢を眺めていた、私も含めた圧倒的多数の人々などよりも、はるかに強く、深く、自らの行動が極めて危険なものであることを実感していたであろう。
したがって、この3人が武装グループに誘拐・拘束されたという点のみを見るならば、それは3人の「自業自得」だ、という見方も可能なのかもしれない。
しかし本稿の目的は「危険覚悟でイラク入りした3人が、その覚悟どおり危険に遭遇した」ことについての感想を述べることでもなければ、テロリストの「卑劣な行為」を非難する際の例文を示すことでもない。本稿では、3人が「自業自得」によって遭遇した危機、あるいはテロリストの「卑劣な行為」によってあらわとなった、“ある幻想の終わり”について確認していきたい。
さて、3人を誘拐した武装グループは、日本政府に対し、3日以内の自衛隊の撤退を要求した。さもなければ3人を「生きたまま焼き殺す」といって。
無論要求を呑んだところで3人が無事解放される保証などないわけだが、だとしても、「サラヤ・アル・ムジャヒディン」なるグループの実態はおろか、3人が誘拐・拘束されるまでの足取りすらつかめず、グループと接触することさえまったく不可能である、という状況下で、あくまでも3人の生命の危機を救うことを追及するならば、「自衛隊の撤退」(「3日以内」の撤退は部隊の規模からして不可能らしいので、実際には「3日以内」に撤退表明するしかできないだろうが)は、見込みのある選択肢としてはほとんど唯一といっていいものだったのではないだろうか?
自衛隊がそもそも「国民を守るためにある」というのであれば、それを指揮する日本政府が、この状況下で取りうる精一杯の行動とは、自衛隊のイラクからの撤退をおいてほかになかったのではないだろうか?
だが、これらの点が「我が国として(自衛隊を)撤退する理由」となることは、ついになかったのである。
ならば、「我が国として」自衛隊を撤退させない「理由」とは、一体どんなものだったのだろうか?
3人の日本「国民」を守ることを事実上放棄することによって、自衛隊ひいては日本政府は、一体「何を」守ろうとしたのであろうか? 小泉首相自身の発言として報じられているところによると、今回の事件は「国全体のイラクに対する安定、復興支援にどう取り組むかにかかわる問題だ。テロリストの卑劣な脅しに乗ってはいけない」とのことである。自国民にテロリストによる被害が及んだからといって、イラクの安定、復興支援を投げ出すわけにはいかない、という主張は、国というものを、さながら統一した一個の人格であるかのようにみなすのであれば、筋の通った、義侠心にあふれる態度であるようにも見える。この理論こそが、政府の公式見解と見てほぼ間違いないようである。
だが、そういえば、拘束された3人の中でも、特に高遠菜穂子氏は、以前にもイラク入りし路上生活を送る子供たちへの支援活動に尽力、事件後は、彼女の活動を知るイラク人によって、ビラやビデオなどを通じた3人の解放を求める活動も始まっているという。少なくとも高遠氏の活動を直接知る人々の間では、それだけの評価と支持を得ていたのであろう。
これらの点も考え合わせると、上の小泉首相の発言も、せいぜい、自衛隊を通じて国が行うイラクの復興支援活動(一説によれば、自衛隊の活動も、それに間近で接しているサマワの周辺住民数百人以外からは、アメリカ占領軍への加担としか見られていないようである)を継続するために、政府によらない人道支援活動(者)を犠牲にすることを容認しているに過ぎない。
では、非公式な「理由」として挙げられているものを拾ってゆくと、たとえば、外務省高官の話として報じられているところでは「小泉首相はイラクへの自衛隊派遣に政治生命をかけている」、よって自衛隊の撤退という選択肢は最初からなかったのだ、とのことである。 だとすると、このときたまたま政権担当者であった人物の、高々「政治生命」なるもののために、3人の日本「国民」の「本物の生命」が犠牲にされようとしている、ということであろうか!?
また、公明党幹部の「指摘」として報道されたところによると「ここで撤退したら、何で派遣したのかという話になる。国際的にも日本はその程度の国なのかと評価を下げる」のだそうである。
「何で派遣したのかという話になる」から、3人の日本「国民」をみすみす見殺しにするのも仕方がないというのだろうか?
「話になる」のを避けるためだけに!?
一体そこまでの犠牲を払ってまで避けなければならない「話」とは、どんなものすごい「話」なのであろうか?
日本の国際的評価が下がることを懸念するのは、なるほどもっともなことかもしれないが、だとしても、国際的評価などという「抽象的な」基準によって、「具体的な」肉体と生活を有する存在である3人の日本「国民」を、みすみす見殺しにしてしまうことが、果たしてそれほどまっとうなことなのであろうか!?
もちろん、政府・与党内にも、今回の政府の対応が3人の殺害という最悪の事態を招くことへの「懸念」はあるようだ。だが、私が接した報道の限りでは、その「懸念」たるや、政府、与党への責任追及の声が上がることへの「懸念」であり、参議院議員選挙敗北への「懸念」であり、スペインのように政権交代が起きるかもしれないという「懸念」なのである!!
一方、そのような「懸念」が的中した際に、最も政権「交代」できる位置に近いと思われる民主党はというと、スペインとは違い、撤退論を前面に出さない、というのが党の方針のようである。一部報道によると、何でも「民主党執行部は、この局面で「撤退」を口にすればテロに屈する形となり、政権担当能力を疑われると判断」したとのことである。あわせて「まず情報収集を急ぎ、撤退論議は事件が一段落してからでいい」(党幹部)との発言が紹介されていた。
だがしかし、この「党幹部」とやらは、一体どんな事態を想定して「事件が一段落」したものと見なそうというのであろうか?
まさかその「一段落」とやらには、3人が殺害された場合すら含まれているのであろうか!?
撤退論議抜きに「事件が一段落」とやらを迎えるまでに収集した情報は、一体何に使おうというのだろう?
夏の参議院議員選挙対策にでも使おうというのだろうか!?
この党は、「事件が一段落」することで3人がどんな目に遭おうとも、自らの「政権担当能力」をアピールすることを優先しようというのだろうか!!
自衛隊とは「我々国民を守るために在る」とする考えは、「我々国民」の側からの「一方的で」「甘ったれた」「むしのいい」幻想に過ぎなかった。
自衛隊が国民を守らない、とまでは言わない。
だがしかし、自衛隊が国民を守るのは、時の政権担当者の「政治生命」や、その時々の日本の「国際的評価」や、せいぜいが、その時々の政権によって「国全体の」事業と位置づけられた取り組みを、損なわない範囲においてのみなのである。
今回この「範囲」から外れてしまったのは、「自業自得」でイラクで誘拐・拘束された3人の日本「国民」であった。
では、この次にこの「範囲」から外れることになる日本「国民」とは、一体どんな日本「国民」であろうか?
今回3人の日本「国民」は、「テロリストの卑劣な脅しに屈しない」という声のもと、犠牲にされようとしている。
では、この次は一体どんな声のもと、「国民」が犠牲にされるのであろうか?
この期に及んでなお、自衛隊の存在とは、まず何よりも「我々国民を守るためにある」と主張することは、欺瞞であるばかりか自己欺瞞でさえある。
我々は一切の幻想を捨て去らねばならない。
これが、今回の事件において確認しておくべき点である。