今後も同質の事件が続発する恐れのある「イラク人質事件」は、現在の私たちにさまざまな面を見せてくれたように思います。まとまりませんが、いくつかの私見を。
1)情報戦の浅薄な広がり
最初の2・3日のメディアの人質事件報道は、明らかに今回の拉致犯罪被害者への同情と日本政府の態度への苛立ちという形で国民世論に影響を与えていました。しかし、被害者家族の当然の感情発露が対政府批判へとドライブしないように、政府や右派系メディアが一斉に「自己責任論」を強調すると同時に、さまざまな「情報」が(陰謀論的情報も含めて)駆けめぐり、流れは逆方向にぶれていきました。
現在、被害家族が解放された被害者の言動に神経を使い「ご迷惑をかけて申し訳ない」という日本的姿勢をまず前提としなければならなくなる圧倒的「空気」を国中に蔓延させることに帰結したようです。
その中で、気付くことは「プチ・ナショナリスト」による放言だけでなく、「一般国民」の実感レベルで「自己責任」論が浸透していることです。私は流れが変わる渦中で「政府広報」的放送局等に電話をかけて意見を述べましたが、受付係の方は「家族の意見だけを垂れ流すな」という電話がすごい、と言っていました。政府批判や自衛隊撤退を言う人でも多くの若い人が「自己責任」論をとりあえず肯定してるように感じましたし、ネットで流れる放言を真に受けた若者の発言を数多く聞きました。
この「自己責任」論を支持・受容する社会心理的要素には、さまざまレベルのものがあるでしょう。ひとつは「自衛隊撤退問題」という国家政策的次元と「人質救出」という普遍的人道的目的を短絡的に結合させることへの抵抗感や疑義という、至極尤もな感覚に基づくものがありました。しかし、その多くは国家政策次元の利害や判断と、市民レベルでの利害・判断を理性的に弁別する作業を放棄し、ナショナルなものに回収されていく危険性に無自覚なものだと思われます。また、2つめには、「日本人」というナショナルな共同体にとりあえず距離をおく感覚も一部にあるように思います。「なぜ日本人が誘拐されると大騒ぎするのか」ということを公言する人は少ないとは思いますが、ある人々にとっては<日本人であるから即、自分と同じ共同体に属する仲間>とは見なせない「他人」でしかないのです。これは、あまり年長の世代には感覚としてわからないものかもしれません。
ともかく、情報という点では、ファルージャでのジェノサイド的惨劇という、一連の事件の背景に関する情報が、その被害の実態、米軍・米政府の判断等も含めて、質的にも量的にもまったく不足しています。米国の政策を一定転換せざるをえなくなったイラクにおける、4月の<野蛮と抵抗>という文脈の中でこの人質事件を見なければ、「自衛隊撤退論」「自己責任論」という浅薄な日本国内の「左右」の政治勢力の縄張り争い的対立に過ぎなくなってしまうように思います。
2)対抗勢力の衰退と高圧的罵倒戦
小泉首相が「テロに屈しない」と言い、自衛隊を撤退しなかった判断に国民の多くが支持をしたのは、言うまでもなく<「自衛隊の人道支援」という国家政策を人質殺害の脅迫によって中止するべきではない>という判断であって、ジェノサイド的攻撃を行う占領軍の行動やイラク侵略戦争そのものを支持しているわけではありません。「左翼」「市民派」の人々の中にあった「人質救出のために(こそ)自衛隊を即時撤退すべき」だけを主張する短絡的な議論が支持されるはずもありません。問題なのは、「テロに屈しない」「人質救出のために全力をあげる」「アメリカのイラク侵略に反対する」「イラク自衛隊派遣に反対する」という諸命題を、それぞれの命題の次元に即して判断し、状況に即した「何をなすべきか」を提言する議論がほとんど見られなかったことです(私もそのような議論をできたわけではもちろんありません)。
このサイトにも拉致・誘拐そのものを「支持する」とまでとられかねない、トンデモ論も投稿されていますが、イラクの人々の抵抗闘争をその大義の点で支持することと、誘拐という「戦術」?を支持することとはまったく異なります。いや、そもそも、上記の諸命題をきちんと整理し、緊急事態の中で議論し、判断するという力が、現政府の対抗勢力には必要なのに、そうした姿勢の必要を言うこと自体が罵倒を浴びる状況が一部にあるように思われます。理性的な討論・探求・判断がない中で、あるのは高圧的な罵倒としての「批判」であり、市民感覚とずれた観念的な突出である点は、「左」も「右」も同じようです。
「マルクス・レーニン主義」だとか、前衛-大衆図式(その当板のカリカチュアが<「プロパガンダ」に洗脳された「ゆで蛙」>というプロパガンダですか?)等の反動的な言説にしがみついている人々が、滅びていくのはそれこそ「自己責任」で結構なことですが、市民的人権の侵害と公共社会の破壊に帰結する新自由主義的「右傾化」に対抗する民衆の力を発展させる必要を、今回のことで改めて痛感した次第です。