はじめまして。今回の自己責任に端的に見られた首相の無責任な言説が、民主 主義の根幹を揺るがす問題ではないかと危惧し、愚見を述べさせて頂きます。
20日午後の本会議で、質疑の中で福田康夫官房長官は、被害者の自己責任を問う 声が出ていることに関し「いかなる状況でも海外にいる邦人の保護に努力するのは政 府の責務だ」との考えを強調し、小泉純一郎首相が高遠菜穂子さんら三人解放の際に 「自覚を持ってもらいたい」と発言したことについて、「退避勧告が出ているイラク に渡航して拘束された結果、内外に多くの迷惑を掛けたことを個人として認識してほ しいという趣旨だ」と説明した。
もし、福田長官の言い分を受け入れたとしても、これを政府の考えというより、法 律に定められたことだ。行政府は法律の精神に基づいて政策を実施することを求めら れている。小泉首相は、まず、誤解のないように、法律上「いかなる状況でも海外に いる邦人の保護に努力するのは政府の責務」であることを説明してから、自己の意見 を主張すべきであったのに、その部分を曖昧にしたがために、国民を騒がせ、本来、 人質の方への批判、中傷があれば、それを諌める立場にある人間が、それを掻立てる ようなことをしてしまい、<内外に多くの迷惑を掛けた>。その責任については、一 言もなく、もともと法律で定められている事柄を、政府の考えとして提示するのは、 どこか詐欺っぽくないか?
しかし、実際には、福田長官の主張は成り立たない。首相本人の発言だけをとると、
やや曖昧な部分もあり、上のような釈明も成り立つ隙間はあるが、中川大臣の発言な
どを考慮すると、政府全体としては、こんな意味で使っていなかったのは明らかだ。
内閣の一員の発言である以上、当然政府の定義を反映していると考えざるを得ない。
そこでは、「いかなる状況でも海外にいる邦人の保護に努力するのは政府の責務だ」
と言うことは忘れられ、違法な主張がなされていた。それに対して、内外の風当たり
が強くなったので、違法な主張を引っ込め、法律にそった立場を政府の考えとして提
示したのであろう。
この変化を喜んでいる向きもあるようだし、実際この問題に限れば違法な主張が引っ
込められて喜ばしいが、小泉首相/福田長官の話術は言論によって構成される民主主
義にとって非常に危険な問題をふくんでいる。
他にも色々あるだろうが、参拝の際に内閣総理大臣という肩書きを記したにもかか わらず、その意味を曖昧にし、違憲判決のあとに私人として参拝したと発言したのと 同じパターンでのトリックを使ってきたことになると思われる。ある問題に関して曖 昧な部分を残して議論させた挙げ句、都合が悪くなったら、当初の議論と全く反対の 定義をしてくるのは、小泉首相と福田長官のコンビの常套手段である。一つの問題に ついて、あまりに無造作に、状況に応じて全く矛盾した主張するので、誰もがあっけ に取られている内に、話が先へ進んでしまい、その矛盾について議論できないでいる。
無論、公人として靖国神社に参拝しようとしたり、自己責任の名のもと政府が邦人 を見捨てたりしようというのも問題だが、それはそれで、それなりの政治的な議論に なる。しかし、それは民主主義のルールに従った議論なのだ。一方、言葉の多義性を 利用した、このような詐欺まがいのトリックが横行すると言論自体が破壊される。問 題は一つ一つの主張の内容でなく、自己の言動に対する政治家としての責任である。 これほどまでに、言動の矛盾は民主主義における政治家としてのもっとも基本的な資 格の問題として扱われるべきであろう。一つの問題についてその場の状況で 全く矛 盾する言動がまさに、全体主義に特徴的な言説形式であるとハナ アレントが見抜い ていることを付け加えたい。まさにこのような言説が横行することは、民主主義の危 機なのだ。
問題は民主政治の根本に関わる問題なのだから、党の違いを超えて、自民党の中で も、民主主義の根幹をまもる為に戦える人がいるのではないだろうか。それぞれの具 体的政策の違いを超えて、民主主義に責任を取り戻す為に、超党派で首相就任以来の 小泉氏の無責任な言動を追求して頂きたい。
以上です。