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「イラク戦争」討論欄

イラク人質事件雑感・まとめ(4月27日)

2004/04/27 社会主義者 40代 派遣アルバイター

 私は、イラク人質事件の昨今の「人質へのバッシング」には、やっぱり納得がいきません。たとえ、3人(乃至5人)の人質当事者の準備・心構えやその後の家族の対応に、幾許かの「稚拙さ」「未熟さ」があったとしても、昨今の「自己責任」追及論には断じて組する事は出来ません。何故か?

(1)「加害者の犯罪行為」には沈黙し「被害者の過失」ばかり言い立てている。
 自衛隊撤退を求めるか、駐留継続を求めるか、人には意見表明をする自由があります。たとえ「政治利用」と言われようとも、それを表明する事自体は犯罪でも何でもない。しかしその結果、家族にはいろんな嫌がらせが加えられました。
 人質家族に加えられた無言電話や脅迫・恫喝の数々、プライバシーの暴露、等々。
 これらは明白な「刑事犯罪」です。断じて、当事者のあれこれの「落ち度」を口実にして許されるものではない。政府・商業マスコミ一体となって加害者の犯罪行為を免罪し、ことさら被害者の落ち度ばかり言い立てる昨今の風潮は、どう考えても異常です。

(2)「人質バッシング」は権力の露払い、その行く末は異論排除・言論弾圧。
 「自己責任」論者の主観がどうあれ、この種の「自己責任」追及論の行き着く先は、「商業メディアの自己規制」「独立系メディア・NGOの抹殺」でしょう。政府のやる事、軍隊のやる事には一切「異論を挟むな」「邪魔をするな」という事になる。「大本営発表」しか許容しないというのなら、もうそれは民主主義の自殺行為です。

(3)「自己責任」のダブル・スタンダード。
 「自己責任」を云々するなら、アメリカが「自己責任」で一方的にやり始めた国際法違反の戦争が、そもそも間違いでしょう。何故、日本が、憲法や法律を歪めてまで、中東にまで出かけていってアメリカの不始末の尻拭いしなければならないのか。最後までアメリカの「自己責任」でやれば良い。「国家責任と自己責任は別物」というのなら、「国家責任」も、「自己責任」とは別途にキチンと追求されるべき。「国家責任」(国家の自己責任)には頬かむりして個人の「自己責任」だけを追求するのは、明らかにダブル・スタンダードでしょう。
 或いは、ひょっとして、日本のイラク戦争加担は「国益に合致する」、故に日本国家は「国家責任」を果たした、と仰るのでしょうか。もしそうなら、「反テロ戦争」を口実にして、他国への侵略や人民弾圧と引き換えに追求される様な「国益」など、国民にとってどれだけの価値があるのでしょう。

(4)イラクの現在の事態は、全てNGOが今まで指摘してきた事の証明でしかない。
 独裁者打倒に名を借りた一方的な侵略・占領が、民主化とは程遠い「別の独裁者の誕生」「イラクのベトナム・アフガン化」でしかなかった事は、CPA当局のシーア派への言論弾圧やファルージャでの虐殺、今回のイラクの事態に悪乗りしたイスラエルのパレスチナ指導者暗殺で、はっきりしました。自衛隊が、憲法や専守防衛の枠を踏み越えてアメリカの占領統治に加担すればするほど、イラク人民の憎悪を一身に浴びる事にしかならない事も、既に国会での参考人質疑の中で指摘されていました。
 その中で強行した自衛隊派兵です。何故、既に活動していたNGOの活動が、後から無理やり派遣されて来た軍隊の為に、規制されなければならないような事態になってしまったのか?この点の追及を抜きにして安易に現状追認に流し込もうとするような風潮には、断じて組する事は出来ません。

(追記)

 私は、NGO活動の発展の為にも、またイラク反戦運動がウヨク的時代迎合の潮流に抗する力量を備えていく為にも、今回の人質当事者・家族側の「事前の備え・心構え」や「事後の対応」が、「果たして求められる力量にふさわしいものであったかどうか」については、今後改めて検討される必要があると思っています。但しそれはあくまでも、当事者・家族が落着きを取り戻し自己内省できる環境が整ってから、「人質バッシング」とは一線を画した立場で、それにふさわしい時と場所で、ですが。