史上マルクス主義は最も先鋭的・徹底的な反体制運動として誕生し展開されてきたことに異論はないと思います。この理論の凄さは、それまでの民衆側からなされた抵抗運動のことごとくが鎮圧されたり懐柔されたのに対して、その原因を突きつめて勝ち戦にするための方途を具体的に呈示したことに認められると思います。その方途は、勝ち戦の究極として支配権力の奪取まで志向させていました。時の為政者が震えあがったことは無理もありません。階級分化して以来、個別的な要求闘争の類は枚挙にいとまがないぐらい例はあるものの(マルクスと同時代的なわが国の江戸時代の百姓一揆においてもその域をでておりません)、組織的かつ理論的かつ武装的に、権力奪取の道筋までも視野に入れた反体制運動理論としてはマルクス主義を嚆矢としており、以降もありません。最近起こったオーム真理教はこの点で少し考えさせられるところがあります。しかし、比べるのももったいないお粗末さではあります。もとへ。マルクス主義の理論は、ありきたりの利権エゴ的な運動として推移するのではなく、革命後の社会の総員が納得いくようなあるべき姿としての現実的な仕組みまでコミットしていたことでも評価されます。
しかし、あれから百有余年変われば変わるものです。恐らく初期の頃は当局が煮ても焼いても食えない筋金入りの活動家集団を核として、広域ネットワークが水を得た鯉の如くに燎原に広がっていったものと思われます。ところがどうなんでしょうか、今では類まれなる温和従順イエスマンの党員活動家しか世渡りできない党がつくられてしまったというこの現実。どうしてこうなったのか、いろいろ原因があるでしょうが、家でたとえれば土台の根元にシロアリが食いつき骨粗しょう症にしているようなもので、お化粧を仕替えたぐらいでは対応できそうにないと思われますがいかがでしょうか。宮本-不破体制に原因があるのか、彼らも一生懸命櫓をこいだけれどもこうなってしまったのか、マルクス主義そのものに隠れた瑕疵があるのか、日本共産党を批判して生まれた諸党派も小さなセクトで留まっていることを考えると余程むずかしいのでしょうが、そのあたりを捉え返さねばならない時期がきているように思います。
昨今、政党政治の枠内とはいえ共産党も連立政権与党入りの可能性が言われつつあります。野党として留まる批判政党として存在理由があるのか、何が何でも政権入りに向かうのか、これも論議をしっかりしないといけません。にも関わらずそういう声が聞こえてこない。鶴の一声は他の政党に任しておいて共産党の場合は喧喧諤諤して欲しいんだけど。その結果党が二つに割れても仕方ないぐらいの気合が欲しいんだけど。こういうのをまじめさというのではないかなぁ。どちらにしても、政権奪取の革命理論からはほど遠いところの論議だし、所詮チェックマンかアドバイザーとして機能したいように思えるし、後生大事にせねばならない党の姿であるようには思わないけど(また叱られるかなぁ)。
ソ連邦の崩壊にしても本当は大論議すべきであって、いろんな角度から検討してみる必要があるように思われます。後進国革命のサガだとかスターリン主義の末路だとかの教訓化はどうも頂けない。もっともっといろんな観点がいるように思えます。そこの論議もさることながら、われわれの本当の関心は革命に成功したけど国家建設に失敗した理由のほうにあります。中国をはじめ残余している共産党が四苦八苦しているところでもあり、市場経済の自然性というか生命力にもっと注目せねばならないというのが大事な教訓のように思うんだけど。資本主義的な労務管理や能力活用よりも、もっと素晴らしく合理的かつ人道的なそれらの引き出し方と利益分配の妙案を創造することが課題として突きつけられているんではないのでしょうか。いずれにせよ新社会の青写真を呈示する責務が課せられているように思われます。議論がそういう方向に向かうのをまじめさというのではないかなぁ。
ところで、日本革命の展望はというと、「七十年代の遅くない時期の民主連合政府構想」アドバルーンは一体どうなっているのか、その始末もしないで「よりましな政権づくり」とは、言うほうも言うほうで聞くほうも聞くほうだなぁ。私の疑問おかしいですか。それにしても「よりましな」という意味では細川内閣時にはどうしたのかなぁ。せっかく殿様が元気出してたのに。なんか見殺しという感じが今でもするんだけど。考えだしたら本音が判らなくなる。何やかやで、まさか今度は知らぬ仏の安全をきして二十一世紀の遅くない時期までに少しはましな政権作りを!とか言うのではないでしょうねぇ。
れんだいじさんより、文字化け部分の訂正文が送信されてきましたので、指示通り訂正しておきました。れんだいじさんのユニークな投稿は編集部一同いつも楽しみにしています。今後ともご遠慮なく投稿お願いします(編集部)