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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

社会党凋落をどう読むべきか

1999/6/21 れんだいじ、40代、会社経営

 社会党凋落は真夏の夜の夢の椿事であった。社会党系譜の諸党は今では骨董的でしかなく、これを論ずる現実的な価値はない。とはいえ、運動論的に見てその没落の原因を尋ね、「他山の石」としての教訓を得ておくことは大事であると思われる。そういう観点から以下、私なりのスケッチをお伝えして批評を待ちたいと思います。
 社会党崩落の第一幕は、皮肉なことに89年7月の参議院選挙での大躍進から始まる。戦後は自社二大政党による「55年体制」がシフトされ、この間しだいに公明党と共産党の進出が見られるようになってくるという変動はあるものの、世界的な政治潮流にあっては珍しく安定的な政党政治の枠組みとして機能してきた。しかし、80年代に入ってさすがに長期化の腐敗が噴出し始め、あわせて社会党の長期低落傾向が目立ち始めた。このような中で社会党は土井たかこという史上初の女性党首を据えることで劣勢挽回を図ろうとしていた。ちょうどこの時消費税が浮上し、その導入の是非を最大争点とする選挙が争われることになった。この選挙を社会党は「山を動かそう」というキャッチフレーズーのもとに果敢に戦い、これが見事奏功し、参議院での与野党逆転を招くほどの大戦果を得た。
 運動論的に見た場合、この経過は次のようにいえたのではないか。労働者大衆は、単に消費税反対で社会党を支持したのではなく、久しぶりに見せる「山を動かそう」という土井党首の戦いの呼びかけに共感を寄せたのではないのか。すでに大衆は永田町の裏取引政治に飽き飽きさせられており、「何も変わらない」絶望と政治不信に沈殿していた状況下に彼女の呼びかけは新鮮であり、その言葉に信を置いたのではないか。私は、そういう願いが託された結果の社会党の大躍進であったように思料している。なお、名キャッチフレーズが戦いに有効な道具となることが証左された点も記憶に値する。
 さて、いただくものはいただいた後、社会党がどう動いたか。これが次の舞台となる。第二幕は、細川連立政権の誕生をピークにして推移する。この当時自民党は派閥政治の長患いで満身創痍になっており、求心力と制御能力を失った由々しき事態を迎えていた。そのような背景の中から92年になって細川党首の「日本新党」、武村党首の「新党さきがけ」、羽田党首の「新生党」が生まれた。これらの党はいずれもかっての自民党議員を主力としつつ野党勢力をも巻き込んでいたことに特徴があり、その意義は名前の通りそれぞれに新政治勢力の結集を目指していたことにあった。これらの潮流はいずれも「55年体制」に対する造反であり、とりわけ自民党議員にとっては政権与党からの離脱であったという点で評価されるべきであろう。いずれの新党結集者にとっても政治的な賭けであり、捨て身の出奔的な政治行動であったであろう。今日の地点から総括すれば、まさにこの時期こそ「55年体制」に終わりを告げる鬨の声であったということになる。
 なお、これら新党の特徴として旧田中派の動きが注目される。各新党執行部はいずれも旧田中派の面々が占めており、自民党もまた政権中枢を旧田中派が担っていたことを勘案すれば、旧田中派は二分三分しながらなおかつそれぞれが党内の主流派を形成するという旺盛な生命力を見せているということになる。余談ではあるがこの傾向は今日も変わらない。さらに余談ではあるが、良し悪し抜きにしてこの政局に呼応した共産党議員は一人もいない。
 さて、この政界再編成の渦潮に社会党が交合して、93年8月細川連立政権が誕生するという政局の新展開が創り出された。社会党委員長土井たかこが衆議院議長におさまるなど、社会党が絶頂期の階段を登り始めた瞬間であった。この結果を自民党サイドから見れば、自民党は結党以来初めて政権から下野させられるという最大の政治的危機に直面したということになる。まさに「55年体制」の崩壊の瞬間であった。これが細川政権登場の政治史的意義である。
 ところで、これ以降社会党がどう動いたか。ここが本稿のテーマである(ここに至るまでの経過として最小限以上のことが踏まえられておかないと意味をなさないので紙数を費やした。この投稿は長くなりそうだなぁ)。社会党はこうして政権与党の立場にたつことになった。与党とは政権維持を責任とし使命とするが、果たして社会党はどう動いたか。何と!、この社会党は与党政治を担う能力と気概に欠けていたということよりも、それ以前の問題を露呈する。骨の髄まで野党根性に汚染されており、政権維持のために汗を掻くよりも政権与党の地位をいつ投げ出しても良いかのような日和見に終始し続けたのである。こうして細川連立政権は呉越同舟政治の波間に漂うことになった。
 ここから我々は何を学ぶべきか。社会党は政権に近づけば近づくほど幼稚な行動を取るということがわかった。考えてみれば万年野党として自民党政策のケチ付けとおこぼれに終始してきた政党であり、与党的責任は能力不相応な苦痛以外の何物でもなかったというわけである。わかりやすく言えば、世上にもよく見受けられるええ格好しいの楽チン主義者がお似合いだったということである。かくして、94年5月社会党は連立政権から離脱した。こうした経過を通じてやはり自民党でなくては駄目だという国民的気分が醸成されていくことになる。こうして久しぶりに浮上した社会党支持の大票田の多くは再び政治不信として政党離れに向かうことになった。一部は自民党に一部は共産党に流れていったと推測される。
 なお、この時共産党がどう反応したかも考察されるに値する。「よりましな政府」を今ごろ言うのであれば、何より細川連立政権こそ「よりましな政府」の一里塚ではなかったのか。それとも何か、共産党自身が与党の一部に組み込まれない限り「よりましな政府」にはならないという意味なのか。反共シフト連合であったという評価は問題である。自民党のそれよりもどうなのかが問われねばならない。何より自民党を野党化せしめている連立政権である点で最大の功績持ちの政権ではなかったのか。「よりましな政府」を本気で願うならこの政権は一歩譲って「よりましな」ものを引き出すことが可能な双葉の芽を持つ連合政権ではなかったのか。確かに共産党に お呼びはかからなかったにせよ、この連合政権を第二自民党呼ばわりしてその意義を減殺させたことは犯罪的でもあり、党利党略が過ぎてはいないか。結果的に、不破執行部はこの連合政権を見殺しにするというよりは倒閣に精を出すところとなった。こうして細川政権は右と左から挟撃されることになった。この問題を究明することはかなり意味深である。日本左翼の一般的常識でもあるが、共産党は過去大衆闘争の昂揚期を迎えるとここ一番のところから運動鎮静化に乗り出すという知られた史実があり、苦い経験を持つものも少なくない。この度の細川連立政権に対して取った態度もまたそのようなものとして記憶されるべきではなかろうか。
 この経過を見れば、日本共産党の「よりましな政府」構想も推して正体が知れることになる。不破執行部もまた社会党がそうであったように批判政党として存在したがっているのであり、本気で自民党政治との決別は望んではいないのではないか。チェックマンとアドバイザーとオンブズマンとコメンテーターとして棲息しようとしているのであって、この域から出ようとする試みに対しては左から敵対する癖があるのではないか。労働者大衆はこのことを阿吽の呼吸で知りつつあり、深い溜息に沈潜しているのではないか。そうは思わないという方にあらかじめ課題を与えておこう。社会党が与党経験時に見せた安直な態度を共産党ならそうはならないという根拠を示してみた見たまえ。現に党内の状況はどうなんだ。新時代を切り開けるだけの気概と能力と責任を引き受けようとする体を張る作風が存在するのか考えても見よ。現に党内に無いものが政権に入ったら急に生まれるというような奇跡信仰は良くない。政権を取るということは新たな政策を生むということに意義がある。新しい政策は、敵対政党との命がけの闘争を覚悟することなしにはできない。その経過は鬼ごっこでもかくれんぼでもチャンバラでもない。大衆的な真剣白刃の綱渡りである。
 さて、前語りが長くなったが、第三幕はあっと驚く為五郎的事態の勃発から始まる。その6月村山自社政権が登場した。何のことはない、すったもんだの挙句の「55年体制」復活の姿でもあった。その歴史的意義は、自民党の政権与党復帰にある。下野させられた自民党にとって政権復帰は執念であった。時が長引けば長引くほど不利になることを知っている彼らは、この執念を如何にして結実させたか。先の社会党の細川連立政権離脱時において既にシナリオができていたということになろうが、ええ格好を社会党に譲り実を自民党が取るという苦肉の離れ業を演じ、社会党がその仕掛けにまんまと乗った。つまり、村山政権誕生とは、自民党の与党復帰の権謀術数戦の勝利の瞬間であり、社会党の正体が露になったツーショットシーンでもあった。労働者大衆から見れば、政界の複雑怪奇さというよりは社会党の馬鹿さ加減にびっくりこいたというべきであろう。
 この経過に対する政治通の興味は次のことにある。自民党の最大危機を誰が助け起こしたのか? 何のことはない社会党左派系であった。万事窮地のときこそ正体が露になる。なるほどそうか。戦後の「55年体制」の正体というのは単に自社の協調的対立だったのではなく、自民党と社会党左派が結託した裏取引政治であったのか! そういう姿があぶりだされたというわけだ。馬鹿を見たのは社会党右派の連中。これまで、社会党左派のマルクス主義的イデオロギー体質と一線を画し自民党と是々非々の協調路線を模索していた右派こそが本来その指定席券を手にする資格があったと云えよう。事実はさにあらず。その右派がとんびの油揚げ取りにあわされたというへんちくりん。
 労働者大衆にとってこれらのことがまずもっての失望であったが、次の失望を招くまでにそう時間もかからなかった。社会党は、安保防衛・治安等々矢継ぎ早に政策綱領の変更に乗りだし、財政政策等においてもなし崩し的に自民党政策に歩み寄っていくことになる。もとをただせば社会党大躍進と政局浮上は消費税導入阻止を掲げて果敢に戦ったところから始まる。あろうことか今や消費税の安定化と税率アップの道さえ開こうとする協調体制を見せ始める。この時点で大衆は怒ることさえやめた。向けることさえ厭うあの白々とした視線を漂わせることになった。(これを解きほぐすのはややこしいゾ)
 第四幕は、同年暮れの11月「新進党」の結成により幕が開く。その意味するところは、社会党裏切りの政界余波であり、もはや帰る波止場を持てない者同士の大同団結であったように思料される。表面的には細川・海部・羽田等、総理経験者複数を擁する本格的な影響力を持つ新党として結党されたが、自社連合には及ばない。にわか仕立ての寄り合い所帯であり、いずれ破綻の予兆を感じさせる新党でしかなかった。社会党の取りこみに失敗した失意を漂わせる中での船出であり、落日の陽射し以上のものではなかった。マスコミもまたこの新進党攻撃に一枚噛むことになる。その由来は別途考察されるに値するが、マスコミは田中角栄及びその系流に即応性のアレルギーを植え付けられており、この時も幹事長小沢一郎に集中砲火を浴びせる。こうして小沢は今に至るも「悪の権化」というピエロ役を背負わされることになる。余談となるが、いったい金権政治というものの起源に田中角栄を措定するという論拠は馬鹿馬鹿し過ぎはしないか。彼が金権能力により長けていたことは事実としても、金権的であるということは戦後の政治・経済・選挙構造の総体としての仕組みから派生する現象であり、少なくとも個人を元凶視する論理はナンセンスではないか。とりわけマルキストにあっては、単に政敵を倒せば良いというのではなく、政敵を倒す論理そのものもマルクス主義的であらねばならないのではないのか。
 さて、以降現在までに至る経過が第五幕である。新時代のシナリオにはいくつかの選択肢があるのであろう、離合集散が繰り返されている。今後どう展開していくにせよ、自由党、民主党の動きも目が離せなくなった。公明党の動きは常に不気味でさえある。この党は今後共産党と正面からぶつかりあうことになることを知っている。皆さん大丈夫かなぁ。さて、最後に社会党の総括をしておこう。労働者大衆は一連の劇場で演じた社会党役者の姿を見終えた感がある。舞台のかぶりつきから一度去った大衆を呼び寄せることはもはや困難であろう。