まず最初に、このサイトの性格について確認させていただきます。このサイトは現役の日本共産党員によって運営されていますが、あくまでも自主的なものであり、党中央委員会の許可を得ているわけではありません。というのは、私たちは党中央の立場に対して批判的な意見を持っており、その意見を公開することで党内討論の材料を提供したいと考えてこのサイトを開設したからです。したがって、ここで公表されている意見は、共産党の公式の見解とは異なります。
また、私たちは、何らかの組織的な分派として存在しているわけではなく、一部の党員有志の集まりにすぎません。『さざ波通信』各号に公表されている論文・インタビューは、編集部のメンバー全員が目を通し、意見を述べた上で公表されていますが、必ずしも全員一致の意見ではありません。どの論文・インタビューにもイニシャルが明記されているように、あくまでもそのイニシャルの人の個人的意見です。大きく意見が食い違っているわけではありませんが、必ずしも一致しているわけでもありません。
ぶーさんが提起している日本の防衛の問題に関しては、インタビュー相手であるH・T氏の個人的意見です。しかも、よく読んでもらえればわかるように、党内討論のテーマとして問題提起をするという形になっています。その点をまずふまえておきたいと思います。
次に、具体的な問題の中身に入りたいと思います。まず、日本共産党の公式の立場について、ぶーさんは誤解されている面があると思います。共産党は、一貫して日本の自衛に賛成の立場です。もちろん、「自衛」といっても、現在の支配体制のもとでの「自衛」なのか、日本社会に大きな変革が起こり、独占資本とアメリカ帝国主義による支配が打破された後の「自衛」なのか、という根本的な区別が必要になります。日本が現在の支配体制下にあるかぎり、問題になるのは、日本が侵略される心配ではなく、日本が侵略の側に立つ心配の方です。日本の自衛隊も安保も、日本を防衛するためではなく、アメリカの世界戦略にのっとって、帝国主義的な国際秩序を維持するために存在しています。
したがって問題は、現在の支配体制が打破され、新しい日本が建設されたときに、その進歩的政権を打倒するためにアメリカ帝国主義などからの侵略的な行為があった場合にどのように対処すべきか、ということです。日本共産党は、かつては、社会党の「非武装・中立」論を非現実的として退け、自衛隊を解散したうえで憲法を改正し、革命的軍隊ないし民主的軍隊を創設するという立場でした。その後、憲法9条に対する国民的支持の強さに影響されて、しだいにそのような古典的立場が強調されないようになり、第20回党大会の決定ではついに、「憲法9条を将来にわたって擁護する」という立場が打ち出されました。しかしその場合も、自衛の立場は放棄されておらず、憲法9条と両立する手段(警察的手段など)での日本の自衛という立場でした。
それが今回、不破委員長の新著の中で、自衛のための軍事力は違憲にあらずというまったく新しい立場が打ち出されました。これは、党内での正式の議論も決定も経ていないものなので、本来は、党委員長として発言すべきことではありません。私たちはこれは大会決定違反だと考えています。また、憲法解釈としてもまったくでたらめです。従来の立場は、自衛のためであれ何であれ軍事力は違憲であり、したがって革命日本を民主的軍隊で防衛するためには、憲法の改正が必要であると主張していました。しかし、今回の立場の斬新さは、常備軍でなければ違憲ではないという新解釈のもと、臨時の戦力による自衛は違憲ではないという形で、憲法9条と軍事的自衛論とを和解させたことです。ですから、今回の不破新見解においても、軍隊ないし恒常的戦力による自衛論は承認されておりません。
以上が、共産党の政策の変遷です。したがって、ぶーさんが、今回評価されている「自衛戦争肯定論」は、党内での正式の決定を経たものではありませんから、厳密に言えば、共産党の正式の政策ではなく、不破委員長の個人的意見にすぎません。共産党の正式の立場は、あくまでも第20回大会決定と21回大会決定に示された「憲法9条の枠内での自衛」論です。
さて、次に、ぶーさんが具体的に指摘されている「侵略の脅威」なるものについてですが、ぶーさんの発想は非常に危険であると思います。北朝鮮は何をするかわからない国なので、軍事的な対応をするべきだというのは、まさに軍拡競争の論理です。日本が北朝鮮向けの軍事的装備を強化すれば、北朝鮮はそれを逆に脅威と考えて、いっそう軍事能力の向上に努めるでしょう。過去、そのような軍拡競争の論理が戦争の回避につながったことはなく、それはいつでも戦争の脅威そのものを増大させて、最終的に戦争に行き着きました。日本国憲法の前文と9条は、そのような歴史の教訓をふまえたものです。
自衛にしか役立たない軍事力というものは存在しません。迎撃ミサイルはいつでも攻撃ミサイルに転化できます。恐怖の均衡にもとづく軍事的自衛の論理に立つかぎり、結局は、日本の安全も保障されないでしょう。憲法9条は、そのような軍事的自衛権を根源的に否定して、平和的生存権をそれに対置しました。これは非現実的な理想論ではなく、何百回と繰り返されてきた過去の過ちをふまえたすぐれて現実的な立場です。
たとえば、アメリカでは銃の所持が認められています。それは、もちろん、公式的には自衛のための銃所持であって、殺人や強盗のための銃所持ではありません。武装というものがそんなに自衛に役立つなら、アメリカは世界で最も安全な国だということになるでしょう。しかし、アメリカは世界で最も危険な国であり、毎年、4万人もの人が銃で死んでいます。銃の所持が認められていない日本では、銃による死者は100人未満です。いつ誰が自分を襲ってくるかもしれないのに、無防備でいるなんて非現実的だ、という「現実的な」主張と、そうやってみんなが銃を持つから逆に襲ったり襲われたりする危険性が増えるのだという「理想論」の、どちらが現実的で、説得力のある議論であるか、考えていただきたいと思います。
しかしそれでもやっぱり万が一外国の軍隊が侵略してきたらどうするのか、と多くの人々は問い返します。このような問題の立て方は恣意的であり、抽象的です。具体的に日本の現状を見るなら、日本が安保体制下にあり、その自衛隊は、自衛とはまったく無縁な無謀な侵略的行動を繰り返してきたアメリカの戦略に組みこまれていることがわかるはずです。ぶーさんは、ユーゴ空爆を見ていたらアメリカも脅威だとおっしゃっています。もしそうだとするなら、そのようなアメリカの戦略に組みこまれている日本の自衛隊が、どうして日本と世界の平和に寄与すると考えられるのでしょうか?
ユーゴ空爆の現実が示しているのは、少々の軍事力では、アメリカの圧倒的な軍事力の前にはまったく無力であるという現実です。しかし、アメリカほどの巨大な軍事力と互角に渡り合える軍事力を持つことは、それこそ周辺諸国に恐るべき脅威を与えることになり、文字通り戦争を挑発することになるでしょう。
しかしながら、日本が安保体制を脱し、自衛隊を解散し、現在の支配体制を打破した後に、そのような革命政権を転覆するために、外部からの侵略的行動があった場合にどうするのか、という問題が残ります。日本共産党より左に位置する左翼党派はすべて基本的に、古典的マルクス主義の立場に立って、革命的軍隊(あるいは民兵)による革命的自衛権を唱えています。実は私もかつてはそういう立場でしたし、現在でもその主張には一定の正当性があると考えています。また、編集部内にもそういう意見が根強くあります。したがって、先のインタビューでは、問題提起という形がとられたのです。革命政権にあっても憲法9条を具体的に生かす道を模索しよう、それを将来の選択肢として具体的に考察の対象にしようという提起です。
実は、共産党が第20回党大会で、将来にわたって憲法9条を擁護するという立場を提起したとき、この問題をめぐってほとんど党内討論はなされませんでした。何となく決まったような形をとりました。このような立場が大会決定に反映されたのは、党員の憲法学者が80年代以降、9条護憲の姿勢を強め、それが進歩派知識人の間でコンセンサスになっていたこと、そして社会党が従来の「非武装・中立」の立場を投げ捨てていったことと関係していると思います。しかしいずれにせよ、十分に踏み込んだ討論がなされないまま、将来にわたる9条護憲が決定されました。そのため、今回、不破委員長がああいう新見解を出しても、それに対する党内の反応が著しく弱いのでしょう。世論の何となくの雰囲気を察知して、自衛のための軍事力を認めるほうが選挙に有利になるという発想が党幹部の中にあったために、ああいうなし崩し的新見解が出たのではないかと私は思っています。
私個人は今では、革命政権下でも憲法9条を具体的に生かす道を模索するという展望の方により大きな魅力を感じています。過去の歴史を見ても、革命政権下にあっても、その軍隊がしばしば人民弾圧に用いられ、また対外侵略に用いられてきました。もちろん、ベトナム解放戦争のように、武装したベトナム人民がアメリカ帝国主義の侵略を打ち破るという積極的な歴史も存在します。ですから、先のインタビューでも、すべての革命政権においても憲法9条でやるべきだという機械的立場をとっておりません。
しかしながら、「軍事力による平和」という論理を突き崩していく先駆者としての役割を担える国があるとしたら、それはやはり憲法9条の平和主義的規範が実際に戦後50年も存在し、それを守る運動が大衆的広がりを持っている日本をおいて他にはないでしょう。
誰もが銃を持っているアメリカで、銃をなくすことができるとすれば、みんなが銃を持つのをやめた時点で私も銃を持たないようにすると言うのではなく、私はあえて銃を持たない選択肢をする、と言ってそれを実践する勇気ある人々が増えていくしかありません。
どの国も軍隊を持っている現在の世界の中で、そのような勇気ある実践をすることができるのは、革命日本だけでしょう。もちろんそのような実践は、国内世論のみならず、国際世論の強い支持を受けていなければできるものではありません。したがって、革命日本が軍事力を持たずに国際世論の力によって革命を防衛するという立場は、新しい国際主義の発露になりうると思います。まさに憲法前文は、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの平和と安全を保持しよう決意した」とあります。この決意を実行できるのは、革命後の日本だけでしょう。
しかし、最終的に侵略の脅威がなくなるのは、世界全体で、とりわけアメリカで革命が起こったときでしょうから、革命政権下でも憲法9条を具体的に生かす道を模索するという発想は、日本革命の存亡を世界革命の展望に結びつけることにもなると思います。
これは、まったく未知の領域に属するまったく新しい試みです。だからこそ、先のインタビューは積極的な討論を呼びかけているのです。
「軍事力によらない平和」を非現実的な理想論と考えるのか、「軍事力による平和」を非現実的な現実追随主義と考えるのか、このことをめぐって大いに議論を交わす必要があると私は考えます。