論議に参加するかしないかは別にして『さざ波通信』を支持する人たちとそうでない人が存在し、後者の側からしきりに党内論議で済ますよう投稿されてくる。そういう人たちの心理が判らない。すでにかなりいろんな角度から是非の議論がされているのだから、それらを踏まえての積み上げ論議でなければ生産的ではない。今後よほどに納得させる意見でない限りご返事は失礼させて頂きます。
現執行部に至る戦後の党史について読書しています。きっかけは、インターネット上のHP「古文書研究会」の各資料に触れたことにあります。私が知らない諸事実が山のようにあり興味深く読まして頂きました。そこから気づいたことでどうしても意見発表しておきたくなったことについて以下投稿させて頂きます。
野坂参三氏は、党の歴史を語る生き字引のような方でした。92年に除名されましたが、彼の失脚はそれまでの他の除名者と同じレベルで受け止めていてはいけないのではないかという思いがしています。それこそ党外の者を巻き込んではいけない重大事実があり過ぎて、この場で明らかにすることは好ましくないかも知れないと思える諸事実が山積しています。しかし、党が「野坂問題」に対し何らかの真剣な討議をしているようには思えない。恐らくできないのだと思うけど、それは異常なことです。この異常性に気づかないままに、あるいはそこを不問にして「統一と団結」を言い続けることは大いなる不正ではないか、という思いがしています。「統一と団結」の条件が整備されていてこそその呼びかけが機能するのであり、その条件が充足されていないのに強制されるのは、資本家が労働者に遮二無二賃金据え置き労働強化を強制する姿と何ら変わりはないのではないでしょうか。
どういう点が問題かというと、数十年にわたる最高指導部者の一人が現役のまま突如として地位を剥奪されたということそのこと自体にあります。その理由が何と、かっての同志を秘密警察に売り渡していたということにあります。それも一人や二人ではない。この事実も、動かぬ証拠が党外の人から明らかにされて初めて党が対応したというお粗末さ。普通の感覚ではこれは責任問題です。野坂氏の場合、ソ連共産党のみならずアメリカ系機関との二股情報員であった可能性が言われております。真実は三股かも知れない。四股かもという薄気味悪ささえ覗かせています。こういう人と長年連れ添ったコンビの方にも疑惑が行くのが自然ですがここでは野坂氏に限定します。
私がこの投稿で言いたいことは次のことにあります。そういう野坂氏の政治理論が今日の共産党の理論に深く反映しているのではないかということです。要約すれば、今日の党の議会主義は野坂氏の政治理論に淵源を発しているのではないか、不破さんの「人民的議会主義」が党史上最初に現れたのが46年の野坂理論ではないのかという事について指摘しておきたいと思います。野坂氏の政治理論とは、簡単に要約致しますと次のような論理構成になっています。支配者側から共産革命の危機が心配されていた戦後直後の45年が暮れて46年になった頃であることを踏まえておけば空疎さが一層はっきり致します。「(我々は)平和的に且つ民主主義的方法によって、民主主義人民政府の樹立を目指すが」、「(その政府の権力は)人民の選挙による、一院制議会を主幹とするものであり」、「ブルジョア民主主義革命が完成されたのちは、平和的且つ民主主義的方法により、社会主義制度へ発展せしむることを期し」、「これが実現に当たっては、党は暴力を用いず、独裁を排し、平和的教育手段を以てこれを遂行せんと欲し」、「資本主義を直ちに廃止して、社会主義制度を実現することを主張する者ではない」という俗に「平和革命論コース」と言われるものでした。「人民的議会主義」が誤りであるかどうか軽々しくは断定できません。皮肉な話になりますが、下手に革命を起こさなかったから今日の日本の繁栄があるという視点に立てば、こういう理論で労働者の隊列を行儀良くしたから革命距離を今日の地点まで後退せしめえたのであり、そういう意味ではむしろ愛国者的な観点からの評価が生まれるようにも思います。
しかし、もし日本に革命政権が誕生していたならもっと良い日本が、国際的にも21世紀を先取りするような平和協調政策を推進する要の役割を果たしている姿も想像されるわけですから、ここでは革命闘争上どうあるべきであったかという視点で話を進めます。はっきりしていることは、「人民的議会主義」的な名目でその実議会運動一本槍にしてしまうと、このたびのような反動的な各種法案をあれよあれよというままに通させてしまうことになるという事実です。やはり、資本と労働の対立に対する労働側の武器は、争議権であり罷業権であるというストライキ運動を中心としたものであり大衆デモであるということに関しての認識をしておかないと愚かではないかと思います。(私は、経営者=資本家=階級的という認識はしていません。器量の差もあると考えさせられていますから。その事とは別に、支配者が大衆に耳を傾けるのは、彼らが困らせられた時だけだということを踏まえておきたいのです。道理を説いたぐらいでは別の道理を用意してくるでしょうから)
報道によりますと、自殺者が年間何と!3万人を越してなお増えつつあるという社会状況があります。債務破産者もまた、うなぎ登り傾向にあることが伝えられています。リストラの嵐もこれから本番を迎えるかもしれない厳しさが予想されています。一方で、公的資金が湯水の如く大企業救済に使われています。中小零細企業に対し
ては一部回されたとはいえ一層威猛々な融資姿勢が阻んでいます。担保と保証人主義が新規事業の道を閉ざしています。労働者は弱いところから切り捨てられつつあります。裕福層と貧困層の格差が広がりつつあり、貧困層は共働きでも食えない状況に遭遇しつつあります。このようなご時世に対して、労働側は何も対抗できていないように思います。テレビでは刑事物とか取り締まり側からばかりのドラマが洪水の如く流され続けています。こういうご時世に対して労働側から何か有効な戦いが組織されているのでしょうか。議会の議席の変動にうつつを抜かすのは、大衆の欲求のそらせ方としての支配者側の高踏戦術であるかも知れず、実際そういうふうにシーソーゲームで利用してきている側面があるのではないでしょうか。
今日の議会は、憲法との絡みで過去のどの時代よりも有効な身の回り改革を実現することは事実です。それはそれで取り組むべきでしょう。しかし、大きな政治課題に対しては無力なのではないかと、私は考えています。あらゆる角度から世のため人のため良いと思えることは「いろいろやってみなはれ」という精神と実際の運動が必要なのではないでしょうか。原水協の分裂も、ルーマニア問題も新日和見主義批判も、その他さまざまなことがわざわざ運動を沈静化させるためにしかやっていないように思われるといったら、言い過ぎになるでしょうか。