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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

「いくら何でもひどすぎる」

1999/8/29 れんだいじ、40代、会社経営

 党のHPに「宗教をどう考える?」が掲載されている。読んでみて、「これは、いくら何でもひどすぎる」と思った。どういうセンテンスで使われているのか不明のままマルクス・エンゲルスの宗教観のひとくさりが述べられた後で、「宗教を看板にした集団や教団指導者の違法行為には、法的対処とともに厳しい社会的批判で望むことは当然ですが、一般信者と家族には、社会病理克服のカウンセリングも必要です」と締めくくられています。これではあんまりではないか、と思うのは私だけかなぁ。ちょっと文章を分析してみよう。
 この文章を出来るだけ単純に主語と述語でまとめると次のようになる。「違法行為には、法的対処とともに厳しい社会的批判で臨む」と「信者と家族には、カウンセリングも必要」ということになる。私がこの『さざ波通信』で常々主張している「党の『お上』的発想」がここにものの見事に表現されている。違うんではないのかなぁ。これは、「お上」が人民大衆の統治術に使う言葉であって、こういう物言いに抵抗してきたのが左翼精神なのではないのかなぁ。「違法行為」とは何なのか、「法的対処」の手続きはどうなのか、「社会的批判」といったってどういう角度からの批判なのか、その批判は誰が担うのかということについて、常々問題にしながら権力と闘ってきたのが左翼の歴史ではないのかなぁ。「平」さんという方が担当したらしいけど、その考え方は警察の発想と寸分違わないんだけど大丈夫ですかぁ。近年久しぶりに驚いたことの一つだなぁ。
 ことのついでにもっと驚ろいちゃぇ。「信者と家族にカウンセリングも必要」ってどういうことですかぁ? これでは心の病を患っているみたいではないですか。「家族」にも必要とはえらい念が入ってますねぇ。僕は、そういう優しさが嫌いです。それと、この考え方は「アカ狩り」に使った言葉ですよねぇ。家族を巻き込むなんてとこみると、云うことを聞かなかったら「村八分」にも通じそう。おお恐っ。
 最後に。こんな「宗教」に対するとらえ方で宗教者との統一戦線組もうとしたって、それは無理というもの。怒りますわなぁ。私が、返歌して差し上げましょう。「革命を看板にした集団や政党指導者の違法行為には、法的対処とともに厳しい社会的批判で臨むことは当然ですが、一般党員と家族には、社会病理克服の立場でのカウンセリングも必要です」。恐れ入りました、ハイ。