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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

「うーン、論理が違う」

1999/9/3 れんだいじ、40代、会社経営

 議員さん、早速ご返信ありがとうございます。投稿に対して反応があるということはうれしいです。傾向的に無視されるきらいがあります私には冥利に尽きます。とはいえ、内容的にもう少し掘り下げておきたいこともありまして再投稿いたします。
 私が問題にしているのは、平さんの「論理」構造に対してです。結論が合えば良いという風には思えないからです。「オウム」に対してであれ、新左翼に対してであれ、50年代初頭の党の極左路線に対してであれ、「違法行為に対する法的処罰と社会的批判」と「組織員と家族に対する治療」という発想そのものが、左翼精神とは縁もゆかりもない治安的なそれであると認識すべきではないでしょうか。歴史的に見て、この「論理」で大衆運動が抑圧されてきていると考えられませんか。「オウム」に対しては有効であるとしてこの「論理」を認めていくことは、この「論理」がしだいに如意棒と化して他の社会的諸勢力にも適用されていく危険を感じています。
 戦前の甘粕事件・亀戸事件に始まり、治安維持法成立後の共産党・労農党・左派系労働組合の弾圧を経て、遂には社会民主主義者・自由主義者・宗教者へと広がり、挙国一致体制へと完結していった歴史の背景には、「違法行為に対する法的処罰と社会的批判」が「非国民行為に対する法的処罰と社会的批判」にスライドしていった「論理」のお化けがあったように思います。こういう「論理」に慣れると容易に転化しやすいということです。
 われわれが「オウム」を批判するとすれば、「左翼」を騙った似非ぶりを糾弾し抜くことであって、「違法行為に対する法的処罰」は「お上」に任せれば良いと考えています。蛇足ですが、いわゆる「オウム事件」には得体の知れない諸事実が隠されているようです。それはともかく、「社会的批判」を「お上」的手法に拠らず、自前の批判でやっていくことが必要と考えています。自前の批判とは、彼らの運動論・組織論・社会観総体に対して「左」から解析していくことを意味しています。「左」とは、人民大衆の利益に合致した観点という意味です。この角度から見えてくるものは、「オウム」の君主制度であり、親分-子分の組織論であり、陰謀的又は反人民的な無差別「戦争」論であり、財産収奪的な経営論等々です。この観点は、当局といっしょになって「違法行為に対する法的処罰と社会的批判」を求めていくこととは別個の地平にあります。
 ちなみに、最近の「オウム」排斥運動の動向には、「左」から注視しておくべき必要を感じています。「オウム」を擁護する観点は私にはありませんが、没階級的な住民パワーに対しては一定の距離を持ちながら関わる必要があると考えるからです。
 話が横滑りしてしまいました。私が問題にしたいのは、党の上層部の社会観がいつのまにか当局のそれとよく似たものになっていやしないかという危惧についてです。いつからどうしてこんなことになったのか解明しようと思っていますが、今少し時間と能力が必要です。けれども、おかしいことはおかしいと表明しておかなければ、おぼつかない足どりではあったものの党の戦前以来の輝かしい不屈の戦いの歴史に対して申し訳なく思うからです。個人的な意見ですが、わが国において労働者階級の階級的利益に立ってその心がわかる指導者により党の運動が組織されたことは未だ一度もないように思えたりしています。