こうした折の50年初頭に「スターリン論評」が発表され、野坂理論の下に活動する執行部が手厳しく批判されました。その受け入れをめぐって党内は恐慌状況に陥りまっぷたつに割れることになりました。徳田執行部は、「スターリン論評」に反発しつつ結局これを受け入れ、「所感」で訂正すると同時に執行部の常として「統一と団結」を呼びかけました。この「統一と団結」に従わなかったのが「スターリン論評」即時受け入れを主張する国際派であり、宮本・志賀・神山・春日(庄)等々を頭目とする各グループから構成されていました。この国際派の中にあって、宮本グループは最大グループであると同時に最も徹底して徳田執行部(所感派)と対立しました。50・6・6レッドパージ指令が出され、党中央委員全員他が非公然活動を余儀なくされることになりました。徳田・野坂・伊藤ら党中央幹部は中国に潜行し「北京機関」なる国外司令部を設け、国内は志田.椎野を指導部とする「臨時中央指導部」により指導させるという対応策を編み出しました。ここでも気になることは野坂氏の遊泳術であり、徳田氏の甘さです。
現在の党史は、この措置をめぐって、反中央派の宮本・志賀中央委員を交えた会議なしに勝手に決定したので徳田執行部が分派化したとみなしていますが、問題ありでしょう。この時期徳田執行部は、宮本グループを公然と内部攪乱者・公安スパイグループとみなしており、時局厳さを増す中この観点から意図的に宮本グループを排除したのであって、この排除行動を分派的行動というには無理がある。どだい執行部党中央の方から分派する理由がない。当然のことながら徳田執行部はこの時点で多数派であり、あくまで党中央意識のもとに宮本グループを排除したというそれだけのことである。この行動・措置の是非を争うことはできるが、執行部の分派化とはみなせない。無理やりそう規定するのは形式主義以外のなにものでもない。勝てば官軍、負ければ賊軍的党史の歪曲の好例であろう。
この経過の中で、徳田執行部は、野坂理論との決別をきして新綱領を模索していく過程でしだいに中国共産党の影響を濃くすることになり、その革命経験を機械的に適用し、「51年綱領」でいわゆる極左路線により日本革命を指針させていくことになりました。国際派は一歩も引かず分派の動きを強めていくことになりました。時は朝鮮戦争の真っ最中であり、日本の独立をめぐっての講和条約問題の渦中のことでした。つまり、戦後日本社会が最もドラスチックな転換が行なわれている時、党は不幸にも分裂をきたし内部抗争に血眼になっていたという党史があるわけです。
こうした状況に対し、スターリンが介入し、中国共産党も介入し、徳田系と宮本その他系のどちらの言い分が正しく、日本人民の闘争利益にかなっているのかを検討した結果、徳田執行部のもとに団結せよと裁定することとなりました。この裁定の効果は著しく、こうして党の大同団結が為され、国際派その他の分派組織は解散させられることになりました。国際的事大主義はこの時代の党また党員の不文律として存在していたわけであり、国際的共産主義運動のあるべき姿をめぐって理論的解明が待たれる宿題として今日にも残されているようにも思われます。この間最後の最後まで執行部の「統一と団結」の呼びかけに頑強に非和解的に抵抗したのが宮本グループでした。
ところが、皮肉にも党の団結が回復した頃には、国際情勢が変化したこともあって執行部の極左路線は混迷を深めていく状況になりました。これが53年頃の状況です。そうこうするうち3月スターリンが死去し、10月徳田書記長も客死しました。徳田書記長死去により後ろ盾を失った伊藤律は、党内諸グループのさまざまな思惑の依頼により中国共産党の手で幽閉されることになりました(この経過にタッチしたのが野坂氏であり、袴田以下何人かの中央委員が幽閉先まで訪ねて、釈放と引き替えに自己批判を求めております。現執行部系列はこの経過を熟知しながら伊藤氏を放置し続けてきた史実があり、日中共産党の決裂により伊藤律が解放され帰国してくるまで明らかにされませんでした。この問題は未だ決着が付けられていません。執行部の権力闘争のどぎつい構図をここに見て取ることができます)。
このような新しい状況の中で54年頃より党の合同が画策され始め、志田-椎野は、宮本グループとの和解以外に党の再建がなしえないという事情に鑑みて宮本氏のもとを辞を低く訪ねることを余儀なくされました。地下水脈で万端整った結果、55年初頭になって、志田-椎野を代表とする臨時中央指導部は「自己批判声明」を発し、極左路線の破綻を認め、新路線を模索することになりました。こうして宮本グループの株が相対的に上がることになり、主流派登壇の道筋が用意されることになりました。
「6全協」とは、このような状況の中での徳田系と宮本系その他のグループとの歴史的な和解の大会となり、同時に新路線を模索する大会となったわけです。この時の中央委員の構成は2対1の割合で旧執行部徳田系の委員が多数残存しました。注意すべきは、常任幹部会が創設され野坂氏が第一書記になり宮本氏がナンバー2の立場に立ったことです。野坂氏の遊泳術の見事さがここにも見て取れます。こうしてスパイとして立ち働く野坂氏と宮本氏の連携により以降の党史の歩みがなされていくのであり、ここに私が疑惑を抱くのも無理からざるものがあります。
この野坂-宮本ラインの下で、第7回党大会、第8回党大会が準備されていくことになり、新たに形成された党新中央への恭順を押しつけていくことになりました。第7回党大会で野坂-宮本執行部の基盤が整備され、2年後の開催という申し合わせの時期を1年繰り延べて党内の地盤堅めをした結果、第8回党大会はイエスマン以外の徳田派中央委員の完全追放に成功することになりました。ちなみに全員一致決議はこの大会から恒例化することになりました。この時点で宮本グループが党内の実権の掌握することに成功し、宮本単独体制が確立されました。これが党史であり、以降宮本式路線が定式化され今日に至っています。
この間党新中央は、まず徳田派の追放から、続いて春日(庄)ら構造改革派を、全学連反党派を、志賀らソ連派を、最後に中共派と文化人および学者グループの反党員を放逐してしまいました。不破委員長はこの経過を自慢しているわけです。私は、それほど自信があるならこの間の党史を俎上に乗せてきちんと総括して見よと言いたいわけです。仮に現執行部に軍配が挙げられる経過あるのであれば、いっそうのこと史実としてきちんとこれを伝え、新入党員はこれらの党史を学んで、先輩の苦労の次のステップへ自覚的に貢献していくのが
自然であり、この部分を遮断させられている現状をオカシイと言っているわけです。
以上の経過を単に指導部の指導権争いとして見るだけでなく、綱領路線の争いとして踏まえておくことが必要ですが、すでに長文化していますのでひとまず指先を休めます。「資本主義の枠内の民主的改革という考えは、今世界で大きな評判になっていて、日本共産党というのは素晴らしい方針を持っているそうだと、外国のかなりの人が関心を持ち、私たちに質問してきます」、「既に歴史の答えで、決着はつきました」などと言えるようなものではないことだけは明言しておこうと思います。