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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

「不破委員長の創価学会-公明党批判」について

1999/10/8 れんだいじ、40代、会社経営

 別に不破委員長に恨みつらみがあるわけではないのだが、どうしても一言したくなってしまう。久しぶりにテレビで彼の姿を見たが、好好爺然とした風貌を増しつつあるのを知った。優しそうな童顔をたたえており、その彼を叩くことは忍びないが、事が重要な問題であるだけに放ってはおけない。
 先日不破氏は、自自公路線批判の延長上で創価学会-公明党を下記のような論調で批判したが大いに問題ありとお見受けした。批判の大要は、「公明党という、創価学会を母体にした宗教政党が政権にくわわることには問題がある。公明党の母体は創価学会であり」、以下原文「率直にいうが、公明党の基盤となっている創価学会というのは、『王仏冥合(みょうごう)』『国立戒壇』とかいって、自分たちの宗教の国教化、いわば日本社会の精神的支配という野望をあらわにして、公然と目的にかかげた歴史をもつ宗教団体だ。公明党の創立自体が、その手段のための政界進出を最大の目的としていた。そのことが言論・出版妨害とあわせて批判されて、旗色をある程度変えたが、この根本が清算されているのかどうかについては、非常に深い疑惑がある。公明党の政権参加について、国民のあいだに非常に強い拒否反応があるのはそのためだ。それについて、政府は、言葉の上で『クリア(解決)している』といいながら、実際にはことの問題点をなんら解明しないまま、その政権参加を許した。これも、たいへんな問題点だと思う」と述べている。
 まず、この批判の御都合性について。創価学会も含めた宗教諸団体に対する認識のアナクロ化が問題である。アナクロ的御都合性とは、宗教をあらかじめ批判しやすい範疇に措定しておいて、創価学会がその範囲を逸脱しているからけしからんという言いまわしになっていることを指している。宗教結社がその信条に従って現実政治の改革を志向してはいけないのかという根本問題を不問にして、宗教は精神的なものを取り扱うものと勝手に範疇を囲った上で、創価学会が公明党を使って政治の世界に関与しようとしていることをあたかもいかがわしいことであることであるかに吹聴している。アナクロ的認識に従えば、宗教とは現実の諸問題を精神界の問題に還元させていく手法であり、そうであるが故に、マルクス主義はそうした宗教の阿片性を批判する。この関係にある限り常にマルクス主義は宗教に対する優位性を持つであろう。
 ところが、ある宗教結社が、マルクス主義の批判から悟ったかどうかは別にしてそういう宗教一般が持つ彼岸性論理を克服し、教義は此岸的に役立ってこそ本物という論理に立って、現実の諸問題に対して現世的な対応策でアプローチし始めた場合、このことを批判しうる根拠が我々にあるのだろうか。アナクロ的な宗教観からの逸脱ではあっても、彼らがそう意図すること自体は思想・信条・集会・結社の自由の範疇ではないだろうか。創価学会の場合この希有な例の一つの出色な結社である。自らの信ずる法華経教義こそ仏法の正統のものと認識した上でこれを現世利益と結びつけ、その手法として現世の社会的な諸改革を目指すに至った。その延長線上で公明党を生み出した。いわば公明党とは、創価学会という思想が生み出した物質化であろう。
 彼らは、究極自らの教義に基づく理想社会を具現化させようとしており、その際「王仏冥合(みょうごう)」・「国立戒壇」・「法華経第一義化」はそのエートスである。言論・出版妨害事件の経過で応法上政教分離化させられることになり、これらの教義も内向化させられることになったが、本来市民法の側からの過干渉ではなかったかと私は思っている。教義とその実践形態は本質的に見て連動化することが趨勢であり、無理矢理政教分離させられねばならないものでもなかろう。そういう論調こそおかしいのであって、「旗色をある程度変えたが、この根本が清算されているのかどうかについては、非常に深い疑惑がある」という論調は思想の物質化を否定する者の云いである。こうした論理は天に唾するものであり、後述するように追って我が身に帰ってくるであろう。
 「政教一致」は、思想・信条がその有効性を証左するための必然的帰結であり、単に思想だけの信条だけの自由のみが認められるという形式主義は本来の意味での自由ではなかろう。むしろ、創価学会の場合、他の諸宗教団体の多くが自民党の集票組織になっているのに対し、独自のイニシアチブで様々な困難を乗り越えて今日まで至っていることは賞賛ものではないだろうか。逆に、党から見て、創価学会-公明党の成長の軌跡から学ばねばならない多くのものを彼らは有していると認識すべきではないのか。
 「オウム」に対しても基本的には右同じ視点が必要であるといえよう。彼らがどのような教義を構築し実践しようともそれは自由である。問題は、彼らの市民法上の違法行為に対しては彼ら自身が当然に市民法的責任をとらなくてはならないことにある。部外者からすれば取らせなくてはならないことになる。この限りにおいて、場合によっては教義の制限も受けねばならず、構成員の自律自由性のチェックが為されねばならないこともあるであろう。とはいえ事前予防は困難とするのが市民法原理ではなかろうかと考えている。「オウム」の場合の問題は、自らが犯罪を仕掛けておいて冤罪・謀略呼ばわりをして免責を画策する卑劣さ姑息さにあった。教祖も教祖だが信者も信者であり、左翼もどきの論法を多用した。現在罪のなすくり合いしているさまは異様さを通り越してぶざまでさえある。こうした「オウム」に肩を持とうとした左翼系コメンテーターがいたが、ミソと糞を一緒にする単にお騒がせ好きな輩であることを自ずと露見させていたにすぎない。
 話を戻すが、創価学会-公明党は市民法の枠内で正々堂々と活動しているのであって、これを咎め立てする権限は誰も持ち合わせていない。過去の盗聴事件・替え玉事件等々もない訳ではないが、それは市民法上の違法行為として責を問われるべきである。創価学会-公明党がこれらの行為に対して反省をなす限りにおいては、党と創価学会-公明党との関係は運動的な競りあいのみが許されるのであり、得手勝手に措定された宗教観に対する不当な論拠で落とし込められるものではなかろう。創価学会-公明党は形の上では政教分 離しているとはいえほぼ一体であるとみなすことには異論はない。とはいえ、創価学会-公明党の場合、むしろ逆風をバネにして組織の機能的分担と統一に成功しつつあるのではなかろうか。いわば創価学会を理論部として公明党を政治部として分離させつつ相互に自主性と統一性を連動させようとしているように見える。この手法は、むしろ現代的政党政治のあり方として最も合理的であり、革新的でさえあるのではなかろうか。
 日本共産党に置き換えれば、マルクス主義教義会のようなものが新たに理論部として設置されたことを考えればよい。理論部は日頃より原義とその応用と見解について研鑽を重ね、現状分析と指針を党に提案する。党はその成果を受けて、現実の政治の中において創造的適用と対応を図る。現実政治を担うわけだから妥協もあるということになり、ある自主の幅を執行部と党員は持つ。しかしその対応の後始末は党内に持ち帰って討議する。党としての検証が行われ、理論部としてのマルクス主義教義会もまた検証を行ない、更に両者機関の摺り合わせを行なう。創価学会-公明党を理想的に美化した場合このような関係になる。いわば、機関は機関として独立しつつ有機的な関係づくりを創造しあう。創価学会-公明党はこのような組織関係論を生み出しつつありそれに成功しつつあるのではなかろうか。学ぶことはあっても批判されることはない。
 批判の仕方の反動性には多弁を要しない。不破氏の発言を以下の様に読み替えればよい。
 公明党→共産党
 創価学会→マルクス・レーニン主義研究会
 王仏冥合(みょうごう)→プロレタリアート独裁
 国立戒壇→民主集中制
 自分たちの宗教の国教化→暴力革命による権力奪取
 精神的支配→政治的支配
 宗教団体→政治団体
 言論・出版妨害→50年代の極左冒険主義
 いつの日か党が政権参加にたどり着こうとした日に手かせ足かせになる言辞を不破氏自ら吐いていることがわかるであろう。次のような文章になる。(書き換え部分は●で表示した)よく聞かされている反共批判の論理そのものが聞こえてくる。
 「率直にいうが、●共産党の基盤となっている●マルクス・レーニン主義研究会というのは、『●プロレタリアート独裁』『●民主集中制』とかいって、●暴力革命による権力奪取、いわば日本社会の●政治的支配という野望をあらわにして、公然と目的にかかげた歴史をもつ●政治団体だ。●共産党の創立自体が、その手段のための政界進出を最大の目的としていた。そのことが●50年代の極左冒険主義とあわせて批判されて、旗色をある程度変えたが、この根本が清算されているのかどうかについては、非常に深い疑惑がある。●共産党の政権参加について、国民のあいだに非常に強い拒否反応があるのはそのためだ。それについて、政府は、言葉の上で『クリア(解決)している』といいながら、実際にはことの問題点をなんら解明しないまま、その政権参加を許した。これも、たいへんな問題点だと思う」。