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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

「宮本顕治論の緊急性」について序章

1999/10/11 れんだいじ、40代、会社経営

 「高校時代から大学時代にかけて、私はソ連の共産党史に関する様々な本を読んだ。それらの本は全て内容が全く違っていた。スターリン版の党史では、トロッキーやジノービエフやカーメノフといった有名な革命の指導者たちについて、一言も言及していなかった。フルシチョフの時代には、こういう歴史的な人物が再登場したが、今度はスターリンに関することはほとんど何も知ることができなくなり、スターリンは正史からほとんど抹殺されてしまった。やがてブレジネフが権力の座に着くと、新しい歴史の教科書はフルシチョフについてほとんど何も触れなくなった。したがって、とても信じられないと思われるかも知れないが、ソ連の若い世代の人々はソ連の社会主義制度が誕生してから比較的短い間の歴史についてさえ、知ることを禁じられているのである。」(「KGBの見た日本」レフチェンコ回想録180P)

 これは上記の書で私が一番注目した一節である。ソ連のことだからと思って済ますわけにはいかないのではないかというのが私の主張となる。先の投稿文でも少し触れたが、すでにわが日本共産党においても、徳田書記長時代の記述がずたずたにされている。手柄話のようなところでは宮本氏が出てくるという具合に恣意的な構成になっている。仮に近未来に党の現執行部の腐敗が暴かれる時代がやってきたら、当然の事ながら今の党史は大きく編集し直されることになるであろう。こんなことになるのはなぜなんだろう、こうなるともはや共産主義者の病気の一種と考えた方がよいのかもしれない。恐らく、「真理の如意棒」を持っているという認識の仕方と唯々諾々主義が原因なのではなかろうか。
 私に言わせればこういうことになる。ある客観事象を捉える場合、各自共通の認識のしかたがありえそうでありえないと考えた方がよいのではなかろうか。大雑把な共通認識は出来ても微にいりさいにいろうとすれば違いが生じてしまう、と考える方がよいのではないのか。同じ局面にあっても、人にはそれぞれ急進気質と穏和気質があって、本当に革命を起こす気があるのならどちらも有用であって排除してはならないのではないのか。お互いがマナーを確立して大義に殉ずるべきではないのか。悪意の場合には別の論が必要かも知れないが。
 例えば、同じ景色を見ても、歩いてみた時のそれと自動車に乗って見たばあいのそれとトラックの場合と川岸のボートに乗って見た場合とでは、それぞれ景色が幾分ずつ変わる。むしろ、この差が大事ではないのだろうか。プロレタリアートの視点といったって、同じ視角からみんなが皆見れるというものでもないだろう(ちなみに、プロレタリアートの厳密な定義が私にはわからない。生産手段の話と社会の所得階層の話と公民間の話と子どもはどうなるのか等々がごっちゃになって分からなくなっています。同じ事はブルジョワジーの定義についても云えます。どなたか説明していただけたらありがたい)。ましてや、マルクス主義が対象にする社会の変革という場合の社会は弁証法的変化の中にあるものであって、汲めども尽きぬようなある固定化した「真理の井戸」ではないのだし――。
 したがって、党史にせよ事実は事実で列挙すればよいのであって、有利不利な情報仕訳により取捨選択しない方がよいのではないのかということになる。つまり、その時々の事実の記録こそが後世の者に対する信義なのではなかろうか。時の指導部は見解とか方針の確立をなしえる権限を付託されているということであって、その理論の弁証性によって党員をぐいぐい引っ張っていくのが望ましく、納得しない者を納得させようとして統制化していくのは単に執行部のエゴなのではないのかということになる。話にせよ、行いにせよ、絶対的――うんぬんという如意棒が振り回され出したら警戒した方がよい。左翼陣営にありがちなそういう偏狭さが一般大衆を遠ざける原因になっているのではないだろうか。
 庶民が仕事を終えてビールを飲みながらプロ野球を観戦する。のほほんと見てると思ったら大間違い。選手と監督の動き、選手間の連携と個性化、投手と捕手の呼吸、打者の論理、投手の論理、監督の采配・選手操縦術、監督によるその違い、球団の体質と比較等々にわたって、あたかも自己の仕事になぞらえて興味深く味わっているのではなかろうか。こうして得た智恵で諸事についても応用的に考える。ここにプロ野球観戦の効用がある。むろん草野球で自ら実践すればなおよく見えるかも。仕事の段取りから人間関係づくりにも役立っているに相違ない。仮に、党の動きとか組織論について考えてみた場合にも参考になる。その結果は、「党員の皆様ご苦労さん、頑張ってください。私は遠くから見守らせていただきましょう。何か窮屈そうで世界が少し違うようです。失礼致しやす。」ということになっているんではないかしら。選挙における最近の党支持投票の増加は、世間の風がそれほど厳しく党のイメージに対する期待が大きいということであって、党の個別の政策に支持が寄せられているのとは違う気がします、と言ったら党員を不機嫌にさせてしまいますか。
 最後にもう一つ。ソ連共産党20回大会でフルシチョフの「スターリン批判」演説を聞いた直後にトリアッチが指摘した一節。「全ての悪を、スターリンの個人的欠陥として告発することだけに事実上終わっているから、(批判が)個人崇拝という枠内に留まっているのである。以前は、あらゆる正しさは一人の男の超人的な才能に負っていた。そして今は、あらゆる誤りはその同じ男の、他に類を見ない恐るべき欠陥のせいなのである。どちらの場合をとっても、マルクス主義の本来の判断の基準からはずれているではないか。」