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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

「宮本顕治論」その1.宮本氏の党史的地位の重要性について

1999/10/15 れんだいじ、40代、会社経営

 現在の党の在り方について疑問を覚え、そのよってきたるところにメスを入れようとすれば、どうしても第8回党大会から解きほぐさないと解明できない。先の党創立記念講話で、いみじくも不破委員長が「日本共産党の今の路線というのは、いろんな呼び方をされていても、実は、38年前に第8回党大会で決めた綱領の路線そのものなんです」と言っているように、この大会で満場一致された綱領路線のカメレオン化が今日の党の姿であるからにほかならない。ところで、第8回党大会に照準を合わせようとすれば、どうしてもこの大会で採択された綱領の起草者であり、かつこの大会でナンバー1の地位を獲得した宮本顕治氏に注目せざるをえないことになる。私の宮本氏に対する関心はここから始まっている。
 ところが、この宮本顕治氏自身に関する情報が極めて少ない。著作はそれなりに出されているものの党外の者に影響を与える程にはなっていない。当人または出版社が控え目なのか、単に人気を呼ばないだけなのかよくわからない。他方、宮本氏を論じたウオッチ本もまた極めて少ない。どこの国でも党指導者ともなれば、レーニン・スターリン・毛沢東は言うに及ばず誰彼となく賛批両論で論評されている状況を思えば珍しい現象ではなかろうか。宮本氏が自身をカリスマ化させることを好まなかったという「正の面」もあるのではあろうが、不自然な思いが禁じえない。そういう乏しい情報の中からまして時間も能力も足りない私が「宮本顕治論」を試みることにはなおさら困難が強いられる。とはいえ、現在の党を指導する不破-志位執行部の是非を問おうとすればどうしても元締めである宮本論に帰着することになり、ここから扉を開かねば党の再生方向も見えてこないような気がするゆえに立ち向かわざるをえない。
 折に触れて党内批判が漏れてくることがあるが、党内純化が完成した66年の第10回党大会以降においてはそれらのいずれもが宮本氏に対する忠誠を証した上での信任争いの風があり、私の視点とは違うという思いしか湧かなかった。十年ほど前であっただろうか、書店で確か諏訪グループ(?)による党内批判の冊子を見かけたことがある。東大細胞内の指導権争いで志位氏との内部抗争で敗れた恨みつらみの部分が目を引いた。今日私が『さざ波通信』と関わりながら党についてあれこれ発言していることを思えばパラパラとめくっただけで済ましたことがあたら惜しいことをしてしまったように思える。手元に冊子があれば党内民主主義のあり方等々をめぐっての何らかの貴重な資料になっていた可能性があったように思える。
 私はまるで知らなかったが、伊里一智という方が党大会か何かの会場で宮本氏退陣を要望する批判ビラを撒いたことがあったらしい。ビラの内容の粗筋でも知りたいが、こういうものは伏せられるのが現在の党執行部の習癖であるからしかたない。推測であるが、宮本氏の権力的な介入が党活動上大きな桎梏になっているということを指摘していたのではないかと思われる。この場合、宮本氏の活動履歴を一応肯定的に評価した上でこれ以上の介入には害があるとしているのか、そもそも宮本氏の活動履歴を肯定しないのかという二つの見方が考えられる。恐らく伊里一智氏は前者であり、私は後者の立場にある。
 新日和見主義批判の問題もあった。これは一方的に査問され始末書を取られただけのことだから意識的に党批判活動をした前二者の例とは異なる。ただし、党内に及ぼした波紋の大きさという意味では執行部批判の流れに入れても差しつかえないと思われる。本筋とは関係ないが私の目の前で起こった事件であっただけに感慨深いものがある。言えることは、党の新日和見主義批判論文なるものは、批判しやすいように得手勝手に措定された新日和見主義者たちが前提にされており、とてもまともなものではない。リクエストがあれば、私論を提供することが出来ます。
 これらのことに触れる理由は、今日の党内のあれこれの腐敗現象に対して執行部の総入れ替えに向かわない限り解決しないのではないかと思うからである。不倫とか万引きとか横領とかの類の不祥事はどこの世界でもあることだから、いくらそんなことを聞かされてもこのこと自体をもって党の評価を下げようとは思わない。問題は 、そういう腐敗現象の奥底に現在の党綱領路線の間違いが起因になっている面があるのではないかと憶測しうることにある。国家の従属規定の変チクリンから始まる「二つの敵論」の馬鹿馬鹿しさが影響しているのではないかと思われることにある。どう考えても講和条約とその後の一連の過程で日本は国家的に独立したのであり、それを従属規定で押し切った現綱領路線は一見アメリカ帝国主義と闘う姿勢を強調したものではあるが、客観性から離れた情緒的な認識でしかない。その後の日本独占資本のフリーハンドな資本蓄積に貢献したドグマでしかなかったのではないか。国家再建のためにはここまでは良かった面もある。ただし、日本独占資本の海外進出が国際資本との厳しい競争の中で行なわれている今却って弱点になっているようにも思う。なぜなら国内で労資が揉まれた経験を持たぬまま浪花節的な労務管理を押しつけていくことになる訳だから、海外現地 での雇用軋轢を至る所に発生させてしまう。既に中国市場で次第に米系資本が優勢になりつつあることはその証左であろう。
 話を戻して、現在の党の運動理論は、国家の従属規定から始まってここからあらゆる事象の認識にボタンの掛け違いを招いているのではないか。執行部もまた、この間違いを覆い隠そうとしていたずらに統制的手法で党内整列を余儀なくされているのではないか。以来50年近くなろうとしており、反対派掃討の結果何の不安もなく本質をむきだしにする局面に至っている。今日的状況としては右翼的暴走の観があるが、もはや場当たり主義で理論らしきものさえない。旧社会党路線よりも右よりの旧民社党的路線に進みつつあるのではないか、と思われる。
 こうした方向に進みつつある不破-志位体制批判をしようと思えば、宮本体制そのものから解析しなければ解けないのではないのかというのが私の視点である。というわけで、この観点から当人にまつわる公的な面について研究してみようと思う。ただし、『さざ波通信』誌上は宮本氏にトータルにアプローチする場ではないので、最小限宮本氏を論ずる場合に避けては通れない重要事項についてのみ接近してみたい。その1番目の課題が、「敗北の文学」に見られる氏の特殊感性に対する分析になる。以降順次項目が立つがとりあえずここから入ってみようと思う。既に長文になっておりますので、以下は次回に投稿したいと思っています。