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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その2「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(前半)

1999/10/19 れんだいじ、40代、会社経営

 「敗北の文学」は、その自殺が大きく騒がれた当代の大御所的文芸作家芥川龍之介の作品及び作家論であると同時に氏の入党決意宣言ともいう意味が添えられていた。29年(昭和4年)4月の頃宮本氏20歳の春の力作であった。これが当時『中央公論』と並んで最も権威ある総合雑誌と目されていた『改造』の懸賞論文で一等当選となるという栄誉を受けることになり注目を浴びた。この時の次点が小林秀雄の「様々なる意匠」であったというのは有名な話である。宮本氏はこの名声をもって当時のプロレタリア文学運動の隊列に加わっていくことになり、『戦旗』に働き場所を見つけた。31年5月入党。相前後してプロレタリア作家同盟に加入した。32年の春より地下活動に入った。
 私が「敗北の文学」に注目する理由は、あまり指摘されていないが、このような経歴を見せていく宮本氏の面目と宮本式原型が良きにせよ悪しきにせよここに躍如としていることにあり、「『敗北』の文学」で見せた氏の文芸理論ないしはマルクス主義に対する思想的態度がはるか今日の宮本式党路線にしたがう日本共産党の現況に色濃く投影されているように思うからである。ここでは、芥川文学に対する宮本氏の作品論は省き、その作家論について検討することにする。ただし、作家論に限ってみた場合でさえこれを順序立てて書いていくと相当長くなるので結論的な要約のみメッセージすることにする。
 その前に芥川氏の人物像をごく簡単にスケッチしておくと次のようにいえると思う。芥川氏は、早くより文筆で身を立てることを志し、一高-東大という当時のエリートコース中のそのまたエリート的な文系俊才として既にこの頃から頭角を現していくことになった。24才の時に著した大正5年の初期作品「鼻」が夏目漱石氏に激賞を受け、その文才が高く評価されることになった。次作「芋粥」もまた名を高からしめた。以後数々の短編・中編作品を著していくことになり、気がつけばいつしか文壇第一人者の地位に辿り着いていた。氏はこうして順風満帆の作家活動に分け入っていくことになったが、文芸上の立場は孤高であった。当時の主流であった自然主義文学でもなく、私小説風でもなく、かといって白樺派的ヒューマニズムとも一線を画していた。よく古典を題材にしながら当世の痛烈な社会時評を得意にして一種奇才を放っていた。表現は的確かつ清新な比喩と機知に富んだ警句をスパイスとし、かつ洗練された文章かつ繊細かつ凝った文体で他を圧倒した。
 まず、宮本氏のヨイショから入ることにする。以上のような特徴を持つ芥川文学は今日のプロ作家間においても玄人受けする日本文学史上孤高の地位を占めているが、この文学を宮本氏もまた高く評価したことは氏の炯眼であると素直に評価したい。文学潮流の背景に社会的情勢の意識への反映を見ようとするマルクス主義的分析からすれば、やや教条的になるが当時の文壇史を次のようにレリーフすることが可能である。意識的かどうかは別にして支配イデオロギーに照応する国粋主義・浪漫主義的傾向(1)、これに一定の距離を保とうとした自然主義.私小説・憂鬱主義・懐疑主義的傾向(2)、これに無縁であろうとした文人主義・嘲笑主義的傾向(3)、若干抵抗しようとした人道主義・ニヒリズム的傾向(4)、最後に支配イデオロギーと闘おうとしたプロレタリア文学運動(5)というように。大雑把に見てこのように文壇潮流を分けることができる。この場合、芥川氏はどこに位置していたのであろうか。通常芥川文学は「芸術至上主義文学」とか云われどちらかといえば(3)のジャンルで括られることが多い。これに対して、宮本氏は、とりわけ後期の芥川氏に(5)的傾向を見ようとした。もっともプレ・プロレタリア文学的においてではあるが。実はこの着想が的確であり、私も同感である。ところが、当時の芥川氏を囲む知人・友人たちでさえそのような芥川観を持つ人はいなかった。芥川氏の自殺に接してさえ当時の文芸家はどう解いたかというと、創作の行き詰まり説、健康不安神経症説、女難説、人生倦怠説、世事の多事多端に伴う厭世説等々の理由により真因が定まらなかった。
 ところが、宮本氏は、「敗北の文学」において、社会主義者になろうとしてなりきれなかった氏のプチブル半端性の苦悶に着目し、これを見事に切開して見せた。私は、「『敗北』の文学」が『改造』一等当選の栄誉を得た背景には、宮本氏のこの観点の意外性と説得性が認められたことにあったと思っている。芥川氏をプレと形容しようとも社会主義思想の持主としてみなすことには異論が多いかもしれない。それはそういう風に見ない芥川論ばかしが流布されているからである。芥川文学の場合前期と後期において大きく作風が異なるので、どの時期の芥川を観るかにより見解が異なるのも致し方ない面はある。作品的には初期の頃から文壇の第一人者への地歩を固めていった中期のものに前途洋々・意欲満々の傑作品があるのは確かである。しかし、芥川文学はある種テーマ性・思想性の高い文学であり、その内在的発展という弁証法的行程から観る場合、前期の芥川文学に散りばめられていた諸々の淵源が集結していったのが後期の芥川文学であり、むしろこの後期の芥川文学の方にこそいっそう真価が滲んでいると考える方が自然であろう。かく後期の芥川文学を評価する必要があると思われる。そういう眼で見れば後期の芥川氏は限りなく社会主義者たらんと努力した形跡があり着目されるに値する、と言えば驚かれるであろうか。このように彼が評価されることが少ないが、そのことの方が問題である。今日にもつながる当時の作家及び批評家が凡俗であったことを証左しているように思われる。
 これを長たらしく証明しても仕方ないので端的に彼にまつわるエピソードで例証する。寄せ集めれば様々なデータが揃うと思うが一端を述べてみる。芥川氏は 社会科学について相当勉強した風がある。今東光が或る本屋で芥川とばったり会ったとき小脇にマルクスの英訳書か何かを何冊も抱えていたと伝えられている。芥川が一高仲間の無二の親友恒藤恭(すでにこの頃京大教授であったと思われる)と旧交を温めようとして京都へ行ったときも、祇園の茶屋でエンゲルスのことを話題にし合ったと伝えられている。 中野重治が書いた感想などでも、晩年の芥川龍之介がプロレタリア芸術への好意的理解を持とうとしていたことが伝えられている。芥川は通常理解されている以上に勃興しつつあったプロレタリア文学に理解を寄せており、その延長上で当時の党員活動家にせがまれる都度財政支援していたことも伝えられている。ハウスキーパーならぬ財務キーパー(これをスポンサーというのではなくてどういうのだったかな。思い出せない)の有力な人士であった。
 では、芥川氏のプレ社会主義者としての移行過程はどのようなものであったのであろうか。このことについて少し触れたい。一高時代早くも、「人生は、1行のボオドレエルにも如かない」とうそぶいた芥川氏の精神風景には、すでにこの頃より鋭い社会批判の視点が内在していた。当時の社会風潮とは、日本帝国主義が西欧列強の仲間入りを遂げその傾向をますます雄雄しくしようとしていた時代であり、軍人がしだいに社会の全面に台頭し始めた頃であった。社会全般が天皇制イデオロギーで染め上げられつつ、軍部勢力と独占資本が結託し、国内外に渡っての強権的支配をほしいままにしようとする気運が押し寄せていた時代であった。芥川氏が文芸を志した背景には、こうした時代環境にあって、「中流下層階級の貧困」を認識しつつ、時代の流れに棹さそうとする反骨精神があった。体制内エリートとして同化していくことを良しとせざる自負に立脚しようとする精神があった。このセンテンスでこそ氏の諧謔的・警句的なスタンスがより見えてくる。当時の社会風潮に対する文芸的な抗議が込められていたからこそ構図が大事にされ、一字一句が痛烈であった。
 初期の芥川文学は、金欲・権勢欲・名誉欲に執着しようとしている世上のブルジョア精神と、他方プロレタリアの「生きるために生きる人間のあさましさ」あるいはまた「公衆は醜聞を愛するものである」という大衆心理に対する侮蔑精神を持ち、そのどちらの精神をも俗物根性と否定した。そして文芸的な高踏的な文人墨客趣味生活こそ価値あるとする人生観を確立しようとした。こうして芥川文学の初期のこの頃はとりわけ痛烈な社会批判精神を内在化しつつ、人の心の中にあるヒューマニズム的なるものとエゴ的なるものという背反的なものを相克的に露見させることを楽しんだ。ただし、芥川氏の非凡さは、これを単にニヒリズムに解消させたようとしていたのではなく、主に体制イデオロギーの中にある虚構を暴露しようとしていたことにあった。
 こうして文壇の奇才としての評価を増しつつ作家活動にいそしんだ芥川氏は、気がつけば当代の第一人者としての地位へ登り詰めていた。ところが、皮肉というべきか、功なり名を遂げた芥川氏が絶頂期に達した頃は、わが国にプロレタリア文学が勃興しつつ押し寄せてきた時代であった。この時氏がどう対応したのかが興味深い。彼を取り囲む文壇仲間のほとんどの者がこうした時代の流れと没交渉で創作にいそしんでいた中で、氏は、プロレタリア文学について少々異なる姿勢を、結論から言えば「理解」したのである。ここが氏の凡百の作家とは違うところであった。芥川氏の眼から見て当時のプロレタリア文学は文章表現的には稚拙であったであろうが、柔らかなまなざしを持ったのである。
 ただし、彼はプロレタリア文学に出会うことにより苦悩を深めることになった。後期の芥川文学はここから始まる。芥川氏のこれまでの半生は権力的であることを忌避しつつ世の風潮に半身に構えて対峙してきた。その氏からみて、庶民大衆の生き様の中にある助け合い志向の共働性の意義を見いだそうとするプロレタリア文学はまばゆいものでしかなかった。かって自身が俗物としてあるいはまた下賤として退けてきた世界であり、そうした庶民の心根の中に光を見いだしこれを受け入れるとなれば、営々と築き上げてきた自身の思想的スタンスを大変換せねばならないこととなったのである。「否定の否定」をせねばならぬ勇気を鼓舞せねばならないことになったということである。その経過は苦しい行程となった。芥川氏はこれに挑んだ。しかし挫折した。というより作風的に大衆の息づかいを書くことができなかったのである。その理由として、作風の転換をなすには彼の名声を高めているところの繊細かつ凝縮された技巧派的文体がかえって邪魔になったということが考えられる。あるいはもっと凡俗に彼があまりにも大御所になりすぎていたからであったかもしれない。この頃から「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」と書きつづるようになった。それは芥川氏のプロレタリア文学家に転身できないジレンマの表現であったように思われる。
 こうして初期の作品から負わされた名声の十字架を背負いながら彼の後半生の作品は綴られていくことになる。自分の人生は「書物からの人生」でしかなかったという意識のとらわれとの自己格闘が作品化されていくことになった。時にキリスト的な殉教精神を、時に社会主義的な思想を賛美しつつ多少の距離を持つ自身をさらけ出していくことになった。この苦悶・苦闘のウェイトがどれだけ占めていたのかははっきりしないが、やがて彼は精神的な美意識に拘りつつ命を絶っていくことになった。27年(昭和2年)7月24日、芥川は自殺した。享年36才であった。惜しまれる死であった。