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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その3.いわゆる「査問事件」をどう読むか(序論)

1999/10/25 れんだいじ、40代、会社経営

 今まで『日本共産党の65年』を戦後のくだりから読み進めてきた。もっとも、60年代を経過したところで、その記述のあまりな馬鹿らしさが嫌になって読み止めてしまっている。このたびは「査問事件」に言及しようとする必要から関連する戦前の章を、特に宮本氏への記述を中心に読んでみた。
 感想は、ここでもよくもマァこんな記述ができるもんだとあきれさせられている。恐らく党員の大方はこの記述通りだと了解しているのだろうから、そういう観点の党員の意識と私の以下の分析が噛み合うことはまず不可能としたもんだろう。しかし、私は書かねばならない。疑問を押さえる訳にいかないから。突き動かす衝動の奥にあるものは何かはわからない。一つの理由は、こんな記述では虐殺された党員が可哀想だと思うことにある。なぜなら、宮本氏が生き残ったのは俺は根性がきつかったからと読めるような「党史」中の次のような記述が許せないからである。
 その(1)「---その後も拷問は続けられたが、私が一切口をきかないので、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせないという持久拷問に移った」。
 その(2)「そのころ、面会に来た母親が私の顔を見て『お前も変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問ではれあがって、昔の面影とすっかり変わっていたからだった」(以上、74頁)。
 その(3)「宮本顕治は、警察から予審を経て公判開始までの七年近くを完全黙秘でたたかい抜き、公判でも原則的にたたかった」。
 その(4)「袴田は、非転向ではあったが、密室での審理に応じ、かれのスパイの査問状況などにかんする不正確な供述は当局に利用された」。
 その(5)「宮本は、1940年4月から公判廷にたったが獄中で発病し、公判が中断していたが、その後、単独で、戦時下の法廷闘争をつづけた。宮本は、あらゆる困難に屈せず、事実にもとづいて天皇制警察の卑劣な謀略を暴露し、党のスパイ.挑発者との闘争の正当性を立証しただけでなく、日本共産党の存在とその活動が、日本国民の利益と社会、人類の進歩にたった正義の事業であることを、全面的に解明した」(以上、85頁)。
 こうした記述を見て、信じやすい者は、宮本天晴れと思うであろう。そういう人の脳天気さに万歳だ。私は、とてもでないが提灯記事と見る。とりあえず少しだけコメントしてみよう。
 その(1)の『長期戦でいくか』について。この当時「特高」の取り調べは苛烈を極めていた筈である。党中央委員ともなれば、上田茂樹、岩田義道を見ても判るようにほぼ即日虐殺されている。小林多喜二しかり。直前の野呂委員長も病弱の体に拘わらずひどい取り調べがもとで命を落としている。その他無名の数多くの党員も同様な目に遭わされていた時期である。そういう時期に逮捕されたにも関わらず宮本氏が虐殺を免れた根拠として、「こいつには何を言っても駄目だ」とあきらめさせる強さがあったからというのであれば、虐殺された人はどうなる。強さがなかったというのか。殴打するうちに供述するであろう弱さが見えたから殴打し続けられ、その結果虐殺に至らしめされたとでも言うのか。私はそういう嘘が嫌なのだ。何も宮本氏の虐殺を望んでいるのではない。『長期戦でいくか』を望まなくて言っているのではない。持久拷問化に向かったいきさつと氏のその後の健在を説明するに足りる言い訳としてはオカシイ理屈であるということが指摘したいのだ。
 その(2)の「母親が私の顔を見て『お前も変わったのう』とつぶやいた」その理由が顔の腫れ具合にあったというのもオカシイ。こういう場合、母親は涙を流し可哀想にとは思っても、自分のせいでない原因で膨らんだほおを見て「変わった」とは普通言わない。皆さんはそうは思われないですか。私には宮本氏も又拷問を受けたという状況を言い繕わんが為の下手な証拠挙げとしか思えない。実際、この母親証言の裏はとれているのだろうか、疑問に思う。他の党員の場合後遺症も含めて房仲間の裏づけが取れる場合が多いのに比して、宮本氏に対する拷問状況または拷問後の被害状況についての供述とその裏取りが妙に少ない。私が知らないだけかも知れないのであれば教えて欲しい。出来るだけ多い方がよい。一応可能な限り全部知っておきたいという関心がある。
 その(3)の「完全黙秘でたたかい抜いた」ということについて。何も宮本氏を落とし込めようとして言いたいのではないが、当時虐殺の目に遭わずして完全黙秘を貫くことが本当にできたのか、私は疑っている。完全黙秘で貫くことを皆願った。ほとんどの者が貫く前に虐殺され、または同然の身にされたのではないのか。警察調書、予審調書がないということには三つの理由が考えられる。一つは本当にない。この場合、黙秘権の認められていない時のことであり極めて分の悪い戦いとなる。「特高」が激情することは目に見えている。それを完全黙秘で応じ持久戦に持ち込んだという「タフガイ宮本神話」が私は信じられない。他にそのような者がいるのかいないのか、いるとすればどういう種類の者であったのかに興味が持たれる。調書がないという意味では「熱海事件」をリードした「超大物スパイMこと松村」以外に私は知らない。警察調書がない別な理由としては、そもそも不要とされたか未だに隠されているかどちらかの理由しか考えられない。そう考えるのが自然ではないのか。
 その(4)の袴田が供述したことを咎めていることについて。袴田氏の場合、独特の個性があっていわば得意然として予審調書・公判陳述に応じている。その是非はともかく、今日当時の党活動の貴重な一級資料になっていることは歴史の皮肉と言える。宮本氏の場合、警察調書を取らせなかったというのであればまだしも理解しうる。しかし、予審調書で有れば、少なくとも「査問事件」に対する供述であれば、宮本氏が後に明らかにしている論拠に拠れば、むしろ具体的状況事実について明らかにすることは必要であったのではないのか。「査問事件」は刑事事件として問われようとしていた向きもあり、宮本氏の言うように小畑死亡の原因が「急性ショック死」であるというのであれば冤罪的に免責される可能性もあるのだから、誰彼に罪を被せるというのではなく具体的状況を明らかにすることに何の非があるのだろう。「急性ショック死」を覆い隠すのに革命的精神を発揮せねばならない意味と必要があったのか、疑問としたい。党の機密事項の秘匿に黙秘を貫くことは賞賛されるであろうが、ことは刑事事件的な対応が要求されているのであり、完全黙秘の必然性が見えてこない。袴田の場合、確かに自身の立場を考慮しつつ状況的事実を得々と語っているが、党の対スパイ対応としての「査問側の正義」の経過を明らかにしているのであって、果たしてそれ程非難されることであろうか。調書を取らせなかったことを最も善意に拡大解釈してみた場合、「リンチ事件」はあくまで党内問題であり、党内的に総括されることが望ましいという建前に拘ったということであろうが、私は、そういう観点からにせよ鬼神のごとく完全黙秘を貫きえたという宮本氏の言い分をこそ畏怖するものがある。それならそれで戦後自由な身になった時点で、この事件に対して党内的な解明へと向かえば良いではないか。漏れ伝わってくることは、「リンチ事件」解明に関する検閲的態度に終始する氏の姿ではないか。
 その(5)宮本氏が「あらゆる困難に屈せず」戦い抜いたという表現について。大人げない言葉尻の指摘かも知れないが、では聞こう。虐殺されたり獄死させられた党員は困難に屈した末の獄中死であったというのか。ためにする提灯記事にしても同志愛のない表現のような気がするのは私だけだろうか。
 こんなことばかり書いて党員の皆さんのご機嫌を損ねてしまうことは許して貰いたい。視点が変わればかくも見方が異なることになるということだ。私の論の是非はそのうち歴史が明らかにするだろう。一つの見方として参考にしていただけたら良い。この方面に関して言及しようとすれば私は100頁だって書くことができる。しかし、宮本氏を落とし込めようとするのが本意ではない。こういう胡散臭いところの多すぎる宮本氏に依拠した党史とか現在の党の活動方針の見直しに役立ちたいというところに本音がある。野坂氏の場合も同様である。今日では野坂氏が根っからのスパイであったことが明らかにされているのであるから、党史での彼に関連した記述は全面的に書き改められねばならないであろう。しかし、彼にまつわる記述を書き改めるとしたらどう書き改めればよいのだろう。読んでみて更正不可能な記述になっているように私には思われる。現執行部サイドの党史論作成過程に彼がそれほど利害一致的に関与しているということであり、それほど深く提灯記事されているということだ。是非ご一読なされてご判別されるようお願い申しあげる。
 原稿はまだ書き上げていないが、上述のような観点から以下宮本顕治論を継続していくつもりである。興味のある者は読み進められればよいし、目に毒だと思う方は控えた方が良いかもしれない。あらかじめお断り申し上げておく。
 「査問事件」に関する論議は「JCPウオッチ」でも継続的になされているが、私は、「査問事件」の全体像を浮き彫りにする方向で論議を提供しようと思う。全体としての粗筋が判明せぬまま「急性ショック死」の部分的詮議をしても水掛け論に終わってしまうような気がするから。やはり、誰かが全体像をまとめなければいけないと思う。そこから部分と全体にわたる論議を積み上げる方が生産的ではないかと思う。以下、そういう視点も含めてこの事件のドラマを再現させて見ようと思う。参考文献は、『リンチ共産党事件の思いで』(平野謙、三一書房)、『リンチ事件とスパイ問題』(竹村一、三一書房)、『日本共産党の研究』(立花隆.講談社文庫)他を参照した。不思議なことに、松本清張氏の昭和史発掘シリーズの中にこの事件の著作が見あたらない。
 私は、本投稿で、あたかも見てきたかのようなドラマを私論的に綴りたいと思う。なぜなら、この事件をめぐって関係者の供実が一定しておらぬため、甲乙丙丁論に右顧左眄すれば永遠の堂々めぐりに逢着せざるをえないからである。その結果事件そのものがうやむやにされてしまうことが一番変な結果であると思う。われわれはこの世の出来事のほとんどに対して直接見聞することはできない。かといって、直接見聞きしていないから判断できないとしたら、この世のほとんどが闇の中の出来事となる。人はその器量に応じて万事闇に灯りをともすべく乏しい資料とカンを頼りに判断しつつ進まざるを得ない。例えその判断が後に修正されることになろうとも、その時は真剣に全体重をかけてなしたものであればそれがその人の人となりというものであろう。先の参考文献における立花氏、平野氏、栗原氏の各論究があるが今一つ釈然としない。むしろ、本筋から外そうとするかのような論理誘導が気になっている。そういう問題意識を持って査問事件の全貌を私流に解くことにする。手に触れることができる範囲の当時の関係者の警察調書、訊問調書、公判陳述、戦後になっての回想録等々を、眼光紙背に徹しつつ解読してみたい。以下、「査問事件」の発生前の状況と事件そのものの経過とその後の経過という三部構成で再整理して見たい。時間と能力が私に備わるように祈るばかりだ。