れんだいじさんの「敗北の文学」論はなかなかと読ませる力作だと思います。相当長いのに読むものを飽きさせることない筆力に敬服します。しかしながら、その結論には疑問なしとはしません。
れんだいじさんは、若き宮本顕治(わずか20歳!)が芥川を野蛮な情熱で批判しきらなければならないと論じたことをとらえて、「批評に温かさがなさ過ぎる」と述べた上で、次のように批判しています。
「仮に、このような論法を許してしまえば、半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパの頭上に半端なるがゆえにバールが打ち込まれ、無縁な者または体制側信奉者は無傷ですむことになる。そういう感性がオカシクはないか。近親憎悪的な論理であり、近しい人ほどチクチクいたぶられることになる」。
しかし、これは的外れな批判ではないでしょうか。若き宮本(歴史的人物とみなして敬省略します)が芥川を徹底して批判しきらなければならないとみなしたのは、まさに芥川が一つの巨大な山脈であり、歴史的人物だからです。いかに芥川が誠実で良心的であるとしても、その山にピッケルを打ち下ろして登りきらないかぎり、その先に進めないし、山の向こうにどのような光景が広がるのかがわからないからです。宮本があえて「野蛮な情熱」と言っているのは、そういう意味です。単なる客観的な人物評価なら、れんだいじさんがおっしゃるようなもので十分でしょう。しかし、革命的情熱を燃やし、新しい歴史を開かんと欲していた宮本にとって、そのような客観的評価が問題なのではなく、すぐれて問題は実践的であり、まさにその実践的課題に照らして、「野蛮な情熱を持って批判しきる」ことが必要だったわけです。そしてそれは単に宮本個人にとってだけでなく、時代的要請としてもそうだったわけです。
それに対して、「半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパ」の場合は、そのような乗り越えの対象ではなく、むしろ、ともに助け合って、山を登る仲間です。山登りに不案内で、まだ未熟な仲間を連れて山に登ろうとするときには、当然、同志的配慮が必要であり、間違っても頭の上にバールが打ち下ろされることはありません(一部の内ゲバセクトは別にして)。
しかも、ハタチの宮本が若い情熱にまかせて書いた文章のうちに、れんだいじさんは、その後の独裁者宮本の片鱗を見ようとしています。それはあまりにも不公平な話ではないでしょうか? われわれ自身が若いときに情熱にまかせて書いた左翼文章を思い出してごらんなさい。今から見れば明らかに行きすぎた表現や、打撃的すぎる批判、あまりにも楽観的な未来像、あまりにも単純な確信が見出せることでしょう。そのような個々の表現をとりあげて、あたかも、その人の将来の軌跡がそのような若い時の文章のうちにすべて萌芽として含まれているかのように言いなすのは、生産的とは思えません。
未来の独裁者スターリンの片鱗を青年だったときのスターリンの文章に見出そうとする試みが、歴史学者や思想家によって今日でもしばしば行なわれていますが、それは、歴史的環境やその後の本人の大きな内的変化を無視した、まったく一面的な方法論です。
しかも、20歳の時の宮本の文章(改めて読んでみて、宮本のすぐれた文学的力量に大きな感銘を受けた)と比べるなら、われわれが20歳のときに書いた左翼アジビラ文章など、およそ比較にならないぐらい機械的で、紋切り調で、浅薄なのではないですか?
むろん、若い時の文章が、将来のその人の行動とまったく無関係と言いたいわけではありません。たしかに、若き宮本の文章には、彼の終生の特徴となっているいくつかの要素が見られます。それは、過度の歴史法則主義であり、過度な理知主義的傾向です。しかし、その程度の機械的な歴史認識は、当時にあってはごく普通であり、特殊宮本的とまで言えるかどうか疑問であり、またそのような認識を持っているから、後に独裁者的にふるまったということにもなりません。
むしろ宮本の問題は、初期のころに芥川に対して示した柔軟な理解(単純な断罪ではなく、その歴史的意義を十分に認めた上で、その限界を指摘するという論理立て)に代わって、いつしか、より機械的で単純化された階級的基準を振り下ろす傾向がしだいに強くなったとみるべきだと思います。
なお、当時の宮本のマルクス主義理解を、「当時公式的であったスターリン流のマルクス主義的理解でしかなかった」と断定するのも、不正確です。1929~31年ごろの宮本、すなわちまだ入党していないころの宮本はけっしてスターリン主義者ではありませんでした。もちろん、そのころすでに隆盛を極めていたスターリン主義的な機械的唯物論把握の影響が皆無とは言いませんが、「でしかなかった」というのは、まったく不正確です。
実際、1931年3月に書かれた「同伴者作家」という批評では、トロツキーが高く評価されています。1931年といえば、すでにトロツキー=反革命という公式が成立し、トロツキーも国外追放され、およそスターリン主義者でトロツキーに肯定的に言及することなど絶対にありえなかった時代です。にもかかわらず、若き宮本は、トロツキーの同伴者作家論を肯定的に紹介し、「同伴者の特徴に対する彼の分析の基本的妥当性」(『宮本顕治文芸評論選集』第1巻、128頁)とまで評価しています。
このような肯定的なトロツキー評価ができたのは、おそらく、宮本の先生にあたる片上伸の影響でしょう(宮本は同じころ「過渡時代の道標――片上伸論」を書いている)。片上はトロツキーを非常に高く評価し、そのプロレタリア文学否定論には批判的であったものの、トロツキーの柔軟で感性豊かな文芸批評の方法を高く評価していました。スターリン主義者にはけっして見られないこのような資質を、宮本は先生から確実に受け継いでいます。
しかし、このようなトロツキー評価は、入党後にはまったく見られなくなります。そして、文芸評論においても非常に機械的で、断罪主義的な傾向に陥るのも、入党後です。実際、宮本自身が「あとがき」の中で、「『唯物弁証法的創作方法』論以後の作品論などは、機械論が目立って、自分で読んでも苦痛である」(同前、577頁)と言っています。
むしろ、私は、れんだいじさんの断定口調の宮本評価にこそ、入党後の宮本の文芸批評に見られるような「機械論」と「リゴリズム」を感じます。おそらく宮本顕治に対する一種の憎悪(こう言えば、れんだいじさんは言下に否定するかもしれませんが)によって目が曇らされ、宮本顕治という偉大な歴史的人物(あえてそう言いましょう)に対する評価が過度に否定的なものになっているのではないかと思いました。私は少なくとも、田中角栄よりは宮本顕治の方を偉大とみなします。