吉野さん、早速ご返信ありがとうございます。その主張要旨も明解に伝わっております。一緒にしないでよと言われるかとも思いますが、私のずっと以前の宮本氏に対する評価は吉野さんの意識と同じようなものであったように思います。私の場合、ただ「バール」のところの言いまわしが妙に気になっていました。あれから党周辺を離れてほぼ30年近く経過させてみて、あらためて当時の意識との対話をしているというのが実際です。あの頃覚えた疑問が回りまわって現在の宮本論の立場になっています。すべての間違いは宮本氏の党中央簒奪から始まっているという視点です。もっとも、他の誰が良かったのかというと特別にそう思える人もおりませんので、宮本氏を最大に善意に解釈した場合、こういう党運動の難しさをこそ知るべきかということになるかとも思われますが。
ところで、「過渡時代の道標」の中で評論された片上伸氏は宮本氏に書簡を送り、その中で宮本氏の才能に対して次のような暗喩をしているようです。親しいがゆえに忌憚のない意見であったと思われます。
「それは余りに君の自尊心がナーバスになり過ぎているといってもいい」、「こっちの方が本気で鎧を脱ぐのにせせら笑うようなら相手は友人でも何でもない」、「一度も汚れ傷つけられざるプライドより、汚れ、傷ついてもなおかつめげないプライドの方を取る」、「君の手紙を見る度に、君がいつでも全力的に羽ばたつ姿を想像する。それが君を、君の仲間から引き離してさびしくもしていると同時に、君を強くしている。最初から僕の君に感じたのは、このTragicalなはだざわりだ」。(「鎧」と「プライド」のところは、本人の自戒なのか宮本氏のことを云ってるのかどうかははっきりしませんが、私には宮本氏も含めた言いまわしのように思える)。
なかなか宮本氏に対する洞察が言い得て妙な的確さではないかと思ったりしています。
ところで、ついでに小林秀雄の「様々な意匠」を読みました。今まで高校の教科書での一節でしか知らなかったのですが、このたび何となく読んでみて驚いた。何と当時のプロレタリア文学運動内部の文芸論だったのですね。知りませんでした。僕は、こちらの方も優れた出来映えのように思っていますが、それより何よりちょうど宮本氏との対極に位置した文芸論になっており、そうした関係に立つ二つの論文が「改造」で一等、二等を分け合ったというのは歴史の皮肉ですねぇ。参考までに次のような一節があります。
「私には文芸評論家が様々な思想の制度をもって武装していることをとやかくいう権利はない。ただ鎧というものは安全では有ろうが、随分重たいものだろうと思うばかりだ」、「マルクス主義文学、――恐らく今日の批評壇に最も活躍するこの意匠の構造は、それが政策論的意匠であるが為に、他の様々な芸術論的意匠に較べて、一番単純なものに見える」、「私は、ブルジョワ文学理論のいかなるものかも、又プロレタリア文学理論のいかなるものかも知らない。かような怪物の面貌を明らかにする様な能力は人間に欠けていても一向差し支えないものと信じている」、「私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。
むしろ、私は、こっちの方の洞察こそ保守的時代迎合的な臭いさえ消せば、文芸論的には鋭いように思えたりしています。
最後に。訂正です。先の投稿で「あらゆる文学的潮流の必然的転換期に、保守的な迷妄と、世紀末的な頽廃に抗して、真に新しきものを見失うことなく、文学の正統的河床を掘り続けてきた氏の姿は、日本近代文学史のユニークな存在である」(過渡時代の道標)という批評は、宮本氏の片上伸氏に対してなされたものでした。宮本氏の芥川論はここまでは認めていません。まなざしが温か過ぎると思っていました。自分で書いておいてそう感じるのも変ですが。失礼いたしました。取り急ぎレスさせていただきました。