まず、「査問事件」に至る直前の党史の流れから見ていくことにする。当時体制側「特高」は、共産党員を徹底的に捕捉殲滅せんと躍起になっていた。なんとなれば、交戦中の大東亜戦争遂行上、共産党員の存在は敵方内通の懼れある不純分子という認識に拠っていたからであると思われる。これは戦争というものが持つ宿命である。正面の敵は判りやすいが、後方あるいは内部の敵にも気配りせねばならず、内通者は判りにくい分一層ナーバスにならざるを得ないということになるからである。大戦中のアメリカにおける日系米人の隔離政策が今日明らかにされているが、同様の観点による強権発動であったものと思われる。こうして、「特高」は、当時の日本共産党の図体そのものは大したものではなかったものの、放置しておけばいつうねりとなって牙を向いてくるか分からない不穏分子的な存在としてみなし、つまり共産主義者をコミンテルンの指示に従う敵方内通のスパイの範疇で捉え警戒を強めた。これが日本共産党徹底弾圧の真因であっただろうと思われる。こうして党内にスパイが送り込まれ、党の動きの逐一把握と有能党員が捕捉されていくこととなった。
他方、共産主義者は、「聖戦」に向かう日本帝国主義を露骨な反人民的ファシズム国家とみなしてこれを打倒することを戦略に据えていた。被圧迫人民大衆の利益擁護の旗を敢然と掲げてこれに対抗せんとしたのである。こうして、体制側は体制側なりの愛国心と民族主義イデオロギーで国家をリードしようとし、反体制側は反体制側の人民的利益擁護の論理で運動を組織しようとして衝突せざるをえないことになった。この衝突の根は深く、このどちらの言い分が正しいのかをめぐっては今日もなお対立が続いているともみなすことが出来る。
「特高」の動きを党の側から見れば、送り込まれていたスパイの摘発が急務となっていたことを意味する。「昭和3年のいわゆる3.15事件以来支配階級はあるいは定期的にあるいは不断に我が党に対して弾圧を加え、為に我が党はその陣営から経験有る優秀分子を奪われ、組織を攪乱されてきたのであります」、「優秀な活動家を奪われ、党組織を攪乱される度にその後に結成される組織あるいは機関に常に不純分子が潜入し、それが又次の弾圧の手引きをするということを繰り返えされていたのであります」(袴田「第7回訊問調書」)という経過となった。つまり、党内において、お互いが相手をスパイと考える両極の対スパイ戦争が丁々発止で発生していたということになる。このような状況を俯瞰しつつ以下「査問事件」直前の党史の流れを宮本氏の動きとの関わりの中で見ていくことにする。
宮本氏の入党経過は既述したので割愛する。宮本氏の入党時の党は既に28年(昭和3年)の3.15事件と翌29年(昭和4年)の4.16事件で党中央が壊滅させられた後であり、党活動自体が極めて困難な非合法下にあった。主だった幹部は獄中につながれもしくは虐殺の憂き目に会わされていた。この両弾圧を経て、29年
(昭和4年)7月頃田中清玄を中心とする指導部により党が再建された。この執行部は、党史上初めて武装ストライキや武装メーデーを指針させたことに特徴が認められ、今日「武装共産党」時代と言われている。この執行部時代はスローガンや戦術は先鋭化したが、「特高」の追撃も一層厳しさを加えることとなり、赴くところ大衆闘争との接点が失われていくことになった。この時以降の傾向として、党活動は、労組等の組織建設の替わりに街頭連絡を主とするようになった。党の活動が地下へ地下へと余儀なくされつつ追い込まれていくことになった。この執行部は、武装メーデーの直後から自己批判にとりかかっていたが、各地を転々としつつも翌30年(昭和5年)7.14日から17日にかけてメンバーの大半が検挙されるにおよび壊滅させられた。
この後半年間党は全国的指導部を持つことが出来なかった。モスクワのクートヴェ(極東勤労者共産大学)に留学していた風間丈吉が帰国して31年(昭和6年)1月頃中央ビューローを再建させた。風間を委員長とする執行部は「武装共産党」方針を政策転換させ、大衆的活動を重視していくことになった。ただし、この頃コミンテルンより「31年テーゼ草案」が発表され、後にも先にも党が直接プロレタリア革命を戦略志向させたのはこの時限りとなる、党史上初めての一段階革命論によるプロレタリア革命を指針させていた。3.15事件、4.16事件の統一公判組も早速この新テーゼ草案に基づいて陳述していくことになった。ところが、この当時「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロッキストであるとして追放された。こうした煽りを受けてコミンテルンの方針もジグザグすることになり、「31年テーゼ草案」ほどなくして新テーゼの作成が模索されることになった。こうして翌32年(昭和7年)5月に「日本共産党の任務に関するテーゼ」(いわゆる「32年テーゼ」)が発表された。「32年テーゼ」は、日本革命の性質を「プロレタリア革命から、社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと変更し、前年の「31年テーゼ草案」と比較すればかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていた。ただし、この新テーゼは、他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという方針を掲げており、運動としては急進主義的な部分も取り込んでいた。この間日本共産党執行部の方針も一向に定まらず獄中党員もまた大きく困惑せしめられることになった。
注意すべきは、この時今日スパイとして知られている「M」こと松村の中央委員会潜入が堂々と為されたということである。この時の中央部は、風間委員長・「スパイM」・岩田義道・紺野与次郎らによって構成された。「スパイM」は、組織・資金関係を担当し、委員長さえ判らない二重の秘密組織を張り巡らすことを成功させ実質上の指導者となっていた。問題は、「スパイM」の存在はそれまでのスパイの党潜入と意味合いが違っていたことに認められる。それまでのスパイは党の情報を取ることに重きがあったのに対して、「スパイM」の場合には意図的に党を操作しはじめたのである。概要「党活動や党人事に関与し、党の内部に組織的にスパイをはめこん
でいき、それらのスパイ達を手駒として動かしながら、党を文字通り換骨奪胎していったといえるのではなかろうか」(日本共産党の研究二99P)という立花氏の指摘がある。つまり、「スパイM」一人ではたいした事は出来ないわけだから、この時点で党内におけるスパイ系列の確立がなされたと読みとることが出来るということになる。
この「スパイM」の指令の下で32年(昭和7年)10.6日に大森銀行ギャング事件が引き起こされた。この事件は新聞でも報道され、党中央では首謀者が「スパイM」であったことが判明していたにも拘わらず、事件発覚後も「スパイM」のこの指導をめぐって中央委員会の中で問題にされた形跡はない。「もしここで党活動、党生活のスタイルが徹底的に再検討され、『スパイM』の責任が追及されていたならば、30日の弾圧(熱海事件)による被害ははるかに少なかったろうし、また後の再建もはるかに容易であったに違いない」(栗原幸夫「戦前日本共産党史の一帰結」)と思われるが後の祭りでしかない。こうして同年10.30日に「熱海事件」が引き起こされた。「熱海事件」とは、「スパイM」が「特高」との緊密な連絡の上で全国代表者会議を熱海に召集し、集結してきた地方の主要党員が一網打尽的に一斉検挙を受けた事件である。難を逃れた形になっていた風間委員長も「スパイM」の手引きで都内で逮捕され、こうして風間指導部もまた壊滅させられた。ちなみに、同時に逮捕されたはずの松村こと「スパイM」はその後行方がわからず特高資料においても痕跡さえ消されている。
「(この『熱海事件』による)全国的大検挙は我が党に対して大打撃を与え、中央を初め全党の諸機関は根本的な立て直しを余儀なくされ」(袴田第7回訊問調書)ることになった。この「熱海事件」の余波として、「熱海事件」は「スパイM」の策謀によって仕組まれたという風評が党内に伝わるに連れ、党員の多くが疑心暗鬼のとりこになった。中央委員が警察のスパイであったという衝撃が走ったのである。とはいえ、潰されても潰されても党を再建させることこそが当時の党員のエネルギーであった。「熱海事件」の直後の同年11.11日逮捕を免れた中央委員の宮川虎雄、児玉静子らによって「臨時中央委員会」が再建された。この「臨時中央委員会」に大泉がこの時初めて委員候補として顔を出している。この「臨時中央委員会」もまた、わずか一月足らずで主要メンバーが検挙され壊滅させられた。
こうした国内の動きを見て翌33年(昭和8年)1月上旬にモスクワから帰国した山本正美を中心に党の再建が着手された。こうして、1月下旬にはこの山本委員長を中心に、野呂栄太郎、谷口直平、大泉兼蔵、佐原保治を中央委員とする正規の(コミンテルンに承認された)中央委員会が再建された。今日疑問視されることは、ここでも、「スパイM」の党内総括が為されなかったことである。誤りは全て「スパイ・挑発者」と未熟な下部党員の責任で、中央委員会は常に無謬という権威を守ろうとしていたものと思われる。既にこの時期の党内に「党中央権威主義」が支配していたということでもあろう。この時、後に査問事件の主役となる宮本が中央委員候補となっている。もう一人の主役袴田はこの時は東京市委員会のメンバーとして委員長三船留吉の直接の下部にいた。ちなみに三船を東京市委員長に据えたのが大泉であった。
再建直後の2月に再々度全国一斉規模での党員の検挙弾圧が襲ったが、この頃の拷問は一層苛烈さを増していた。党中央委員上田茂樹、岩田義道、続いて小林多喜二もまた、2月20日今村恒夫と共に、今日スパイとして明らかにされている東京市委員長三船留吉の手引きにより築地署の「特高」に捕まり即日拷問の末虐殺された。その数詳細は判らないが多数の党員が虐殺されているようである。続いて5月山本委員長・谷口が逮捕された。この執行部は再建後わずか4ヶ月あまりで壊滅させられたことになる。
この山本委員長逮捕の結果「東京並びに地方の党員等は非常に驚愕して又スパイに潜入されて党が売られた結果ではないかと云う疑心を生じ、党員各自が警戒して自己の身辺に対し不審の眼をもって眺めるようになりました」(袴田第7回訊問調書)。ちなみに、この逮捕には党中央委員会のメンバーであり当時東京市委員会の責任者であった三船留吉に嫌疑がかけられた。「査問事件」の関係で述べると、この時党中央部は、大泉を責任者として袴田他同志数名で三船を査問するよう指令した。ところが、大泉は今日ではスパイとして判明している三船を庇い逃がそうとする様な八百長的態度を採り、事実三船はこうした党内の空気を察知していち早く逃亡に成功している。この時の大泉の態度が同志達の憤激を買ったという事実があり、伏流として内向していくこととなった。ちなみに、三船逃亡の後空席になった東京市委員長に座ったのが宮本であり、中央委員でもあった三船の替わりに中央委員に補充されたのが小畑である。
この間の宮本氏の履歴は次のようなものである。32年(昭和7年)の春より地下活動に入った。以降宮本氏は新人有力党員として嘱望されつつトントン拍子で党内の地歩をかためていった。主に文芸部門に関わり、蔵原惟人のプロレタリア文学理論を踏襲し、蔵原の検挙された後は小林多喜二・中条百合子らと共に専ら党の文化運動の指導者として影響を与えていくことになった。宮本は、蔵原が奪われた後の最も忠実な蔵原理論路線の継承者となり、「政治の優位性理論」や、文学運動の「ボルシェシェヴィキ理論」を主張した。錯綜する党方針・文芸理論の中で生じようとしていた指導部に対する批判や疑問に対して、野沢徹又は山崎利一のペンネーム名でそうした動きを一切認めぬ方針を発信し続け、それらの動きを日和見主義、右翼的偏向として切り捨てて行った。「いわゆる最近流行の転向と、ごっちゃにされるような日和見的潮流が文化運動の一部を根強く流れていることは事実であろう。そうした流れとは、文化芸術運動の原則的方向-いわば議論の余地なき方向そのものを歪めんとする傾向である」、「しかし、どんな新しい意見にしても、それが、文化芸術運動の原則的任務・方向の歪曲を意味するならば、それは積極的展開と全く反対の方向に堕ちてしまうものである」、「原則的問題については中間の道はないのだ」。12.24日「赤旗」での中央委員会の主張なる「今日のわが党の最大の弱点は、正しき政治方針の決定にも関わらず、その実践的遂行が極めて不十分にしか行われていない点にある。而して実に、これは党規律を弛緩させる挑発者の系統的サボタージュによるものである」も宮本の手に
なる文章と思われる。これらの論文はいずれも宮本の思考様式を実によく表しており、「方針は議論の余地のないもの」であり、党中央を金科玉条視させる傾向と建前主義と異端へのレッテル貼りと実践が足りないと云う下部党員に対する恫喝が見られる。早くもこの時点で、戦後の「第八回党大会」以降満展開することになる宮本式党路線を主張していることが注目される。問題は、党中央が路線的にジグザグしており、かつ深くスパイの潜入に汚染されていたこのような時における宮本氏の「党中央絶対帰依」を主張する感性と背景が分析されねばならないということになろう。
山本委員長が逮捕された結果、党は、野呂氏を中央委員長に就かせることで党中央を維持していくことになった。野呂は「日本資本主義発達史講座」の主宰者として知られる学者党員であり、片足が不自由な病弱体質であることを考えると委員長は重責に過ぎた。しかし、他に適格な委員長がいないという人選により本人も引き受けることを決意した。この野呂委員長の下に中央委員として大泉兼蔵・小畑達夫・逸見重雄・宮本顕治が配置され、中央委員会は都合この5名で構成された。こうして、この野呂執行部時代に宮本が中央委員として登場してきたことが注目される。この時宮本は若干24才であり異例の登竜であった。(ここで気になることが一つ残されている。果たして宮本氏を中央委員に推薦したのが誰なのか記録がない。この当時中央委員になるためには既中央委員の推挙が必要とされ、しかる後全中央委員の承認が必要であったはずであり、どなたか出典も明らかにした上で教えて頂けたら助かります)。とはいえ、この当時の党中央は党史上最も活動力が低下したとみなされている内向きの党活動に終始した時期であり、宮本氏が戦後になって「戦前最後の党中央委員」という肩書きを触れ回るのは強調のし過ぎのように思うというとまたお叱りを受けるでしょうか。
中央委員会の職務の内訳は、逸見・宮本が政治局を、大泉と小畑が組織局を構成することとなった。書記局は、当初は野呂、逸見、宮本だったのが、下部からの宮本に対する反対が強く、6月中旬に野呂、大泉、小畑に編成替えされた。この頃6月に旧中央委員佐野・鍋山の「獄中転向声明」が発表され党内に衝撃が走った。党中央は、この問題対策に追われる一方で、中央委員内部の対立も深めていくことになった。大泉・小畑・逸見・宮本の中央委員間の疎通が悪く、困った状況に陥っていたという事実がある。対スパイ対策のため相互に機密保持をなした結果、一層分裂的でさえあったのである。お互いに信用しうる系列が形成され、疑心暗鬼が党内を支配しはじめていた。
こうして宮本は東京市委員会に転出した。旧東京市委員会責任者スパイ三船留吉の後任となった。後にリンチ事件に登場する袴田は、昭和8年2月上旬からこの時も東京市委員会委員であり、他に荻野・重松が委員であった。この間党中央部から必要に応じて指導がなされ大泉が寄越されていた。そこへ、宮本が転出してくることになり、以後袴田は宮本の管轄の部下という立場になったという関係になる。袴田は組織部会の部長であり、その部員に木島隆明がいた。つまり、宮本-袴田-木島は直系ラインということになる。宮本が東京市委員会の責任者となって以来会合が定期的に持たれるようになった。参考までに記すと、大泉と袴田の折り合いは互いに快く思わぬ程に悪かったが、宮本と袴田の場合ウマがあったようである。後日スパイとして除名された三船留吉は宮本直前の東京市委員会委員長であり、この三船と袴田は折り合いが良かったようである。
宮本-袴田ラインが東京市委員会でその地歩を固めていたこのような時期「党中央部の優秀分子が続々と検挙されましたので、これを補充して中央部の組織を強化することが党中央部においても企てられ、私たちも東京市及び各地方の優秀分子を集めて党中央部に送りその諸機関に補充して中央部を強化すると云う意見を上申したのであります。中央部でも左様な意見を用いられて」(袴田第6回訊問調書)9月下旬頃東京市委員会から人員補充がなされていくことになった。こうして、この頃宮本グループの党中央進出がなされることになった。この頃の東京市委員会系列の党組織は、最下部が党細胞でその上に地区委員会があり、その上に東京市委員会があり更に最上位に中央委員会があるという形態になっていた。宮本は東京市委員会責任者の地位を去り、後を萩野に譲り、党中央委員会専任で活動することになった。袴田と荻野が党中央組織部員に引き上げられていくことになった。「当時党中央組織部には労働者として働いた経歴を持つメンバーが少なかったので、私は労働者を指導する為党中央組織部に労働者出身の者を加えるべきだと云う事を強調しておりましたところこれが容れられ、私と荻野とが組織部に入ることになり、私は組織部の中にある大衆団体係りを命ぜられたのであります」。この供述に拠れば、かなり意識的な働きの結果宮本グループの党中央進出がなされたということになる。東京市委員会における袴田の後を木島隆明が引き継いだ。袴田は、続いて10月中旬の頃野呂委員長と会いその場で中央委員会候補者に任命された。秋笹も中央部員として「赤旗」編集局で働いていたが中央委員会候補者に任命されていた。これが後に主役として登場することになる面々の人間関係の党的位置であった。ちなみに、袴田が小畑を知るようになつたのは、こうして袴田が党中央部に来てからのこの頃のことであったということである。