大泉対宮本-袴田の直前の対立は次のように明かされている。その一例を挙げる。昭和8年5月頃三船留吉の査問問題が発生した。やや詳しくこれを見ると、大泉曰く概要「この頃党中央委員会は、三船をスパイと決定しこれを査問して殺害しようという事になりました。私は三船を警視庁のスパイであると睨んでいたが、自分も追って将来に於いて警視庁の下に働きたいと思っていたので何とかして三船を助けようと考えました。しかしながら党決定である以上方針にしたがわねばならず困りました。宮本は右決定の日中央委員に昇格しました。具合の悪いことに私と宮本が三船の処分一切を一任されました。いよいよ実行の段になると宮本は急に逃げ腰となり抜けてしまった。卑怯な奴だと思ったがこれ幸いとして3名で三船を査問にかけた。三船は否認し続けたので注意を与えて放免した。そのいきさつの報告を受けた宮本は私をなじり、中央委員会決議の無視だと食ってかかった。結局のあげく袴田が登場してくることになり、三船の処分を党東京市委員会に任してくれということになった。ピストルの受け渡しを約束させられたが口実を設けて引き延ばしているうちに三船は逃亡した。この時取った私の態度が問題にされ、私が留守の時の後日の党中央委員会会議の席上宮本の提議によって譴責処分に付されそうになった。この時小畑が大泉が居ないという事を理由としてその決定を次回に延期させた。次回の中央委員会会議で私は、『もし自分が譴責を受けるとすれば、最初の査問の日逃げた宮本も同様査問されるべきである』と抗弁し、結局うやむやにしてしまった」(大泉「第14回訊問調書」)という陳述が為されている。
昭和8年10月初旬頃、党の組織編成替えをめぐって大泉-小畑ラインと宮本-袴田ラインが対立したようである。次のように陳述されている。「党中央組織部に於いて決定されたところの細胞を基礎とする党の再建設と云う事は党のボルシエビキー化の為の最も重要なる意味を持った決定でした。この決定は、党中央部の組織部責任者であった小畑及び荻野等の意識的サボタージュにも拘わらず、その意義は党の発展を図る為に真剣な努力をしていた同志等の間に理解され、着々としてそれが実際の党の再建の為に実行されていたのであります」、「大泉・小畑及び荻野ら党の重要なる地位におる者がこれを妨害しあるいはサボるので、これが我々の思う様に全面的に全党が一団となって実現すると云う様にはなっていませんでした」(袴田「第19回訊問調書」)。どうやら、この対立が背景にあったところへ野呂委員長の検挙が連なり、黙過されがたい情況、一触即発の事態に党内対立が突入していったのではないかと思われる。ちなみに、この党の組織替えの動きに対して、検挙後の秋笹は、予審調書で概要「党の細胞を基礎とする再建設並びに党の重要機関からスパイを排除する為の活動及び以降の党員の再審査が袴田の挑発的な意図によって提議され、秋笹並びに逸見がその意図を看破することが出来ず引きずり回されたものである」と述べている。次のような対立があったことも供述されている。10月頃小畑は独断で通称「党員馬」を上海に密航させたている。この件について、「かようなことは小畑如き者の独断で為し得べきものではありませぬ」(袴田「第2回公判調書」)。この時、小畑が「党員馬」を上海に送った理由は不明であるが、党内の危機的状況をコミンテルンの指示により打開しようとしていたか、小畑執行部を夢想してその信任の取り付けに送ったのかも知れない。なお、大泉第15回調書によると、「国際的な連絡関係を急速に確立し、私の系統からその連絡の為上海に派遣すれば私の勢力が党内に絶対的地位を占めることになるので色々考えた末」、「小畑を利用し」て「党員馬」を派遣したと明かしている。
以上のようないわば政策的対立にとどまらず、人事あるいはこまごまとした案件処理についての対立があったことが次のように明らかにされている。大泉の第14回訊問調書と第15回訊問調書で、概要「私は宮本の策動を警戒し、一方私の信頼し得る小畑達夫・平賀貞夫を中央委員に引き上げ、中央委員会に於ける私の立場を安全にしようと努力しました」、「(宮本は)個人的連絡を頼り東京市委員会と通じ、私の排撃を策して居た事は小畑達夫を通じ私の耳に入って居ました」、「当時中央委員に任命するには中央委員全部の賛成を必要としたのですが、私が反対すれば必ず小畑が私と同様反対し次いで野呂が反対するに決まって居り、到底ものになりませんでした」、「然しそうなると袴田、秋笹、木島が委員となり宮本系が非常に優勢となるので、私と小畑は之に極力反対し一方私共の陣営を強化する目的を以て小高保・吉成一郎を中央委員に推薦すべく苦心して居ました」、「財政部長の小畑が私の系統であって袴田等に金を遣らなかったと云う事も袴田等が小畑及び私を憎む原因となりました」。なお、この小畑と袴田の金の工面をめぐっての対立の様子は次のような袴田自身の供述によっても裏付けられている。概要「(小畑の態度はボス的であり、同志に冷淡であり、同志に活動資金を与えることはなるべく避けており、私が金が入り用で請求したにも拘わらず)小畑は私に金を渡そうとせず、どうしても渡さねばならぬ時も直ぐには呉れずちょっと待ってくれ今都合してくるからと云って(嫌みをすることがあった)云々」(袴田第一回公判調書)。つまり、袴田は小畑に対して金の恨みを内向させていたことを供述していることになる。
人事面での党内対立は次のようなものであったようである。大泉と小畑が反宮本連合を形成しており、このラインを支えるグループとして全協中央委員会責任者小高保及び東京市支部協議会責任者古関及び吉成一郎らが居り、大泉-小畑連合はこれらの者を中央委員候補者として推薦しようとしていた。小高保は大泉・小畑の手足となっていた。注意すべきは、大泉-小畑ラインは必ずしも一枚岩ではなく、反宮本連合という点で共同歩調を取っていたという程度であったようである。他方、宮本は、東京市委員会内に強力な一枚岩的統制的な宮本-袴田-木島ラインを形成しつつあった。概要「宮本は、この強力な支持基盤を背景に9月頃袴田・秋笹を党中央委員候補に送り込み、宮本を中心とした勢力関係が党中央部を拡大せんとしておりました」(大泉第15回訊問調書)。してみれば、秋笹は直系ではないが宮本ライン寄りであったことになる。宮本グルー
プのこうした党中央進出に対抗してどうやら大泉-小畑グループもまた系列下の全協責任者小高と全農責任者平賀を抱き合わせで党中央委員候補に送り込んでいたようである。党内バランスを配慮しようとして苦慮している党中央を見て取れるが、こうした動きはどうみても深刻な党内対立を物語っているように思われる。こうして中央委員会内部が疑心暗鬼の状態に陥り、この当時中央委員会は統一的機能を失いつつ、各自の中央委員がそれぞれ各自の党活動を経営するという変則事態に陥っていたようである。野呂委員長の立場は、大泉をスパイと認めず唯一の擁護者であったようである。「野呂は私や小畑を支持してくれていました」、「野呂委員長は私たち一派を支持してくれていたので、私は宮本一派は大したものではないと思っていました」(大泉「第15回訊問調書」)とある。この間逸見は中間派で超然としていたようである。概要「彼は、野呂の助手として中央部の資料部に働き、野呂が肺病であったから野呂に代わって連絡に出ておりました。逸見は野呂を崇拝し野呂の意見に従っており、自分独自の見解を持たない男でしたが非常に善良なところがありました」(大泉「第15回訊問調書」)、「然し私は逸見を前述の如く彼らの中では最も信用していた」(大泉「第16回訊問調書」)とある。 つまり、逸見は野呂の補佐用に引き上げられた学者タイプであって党内抗争には不向きな人柄であったということである。
以上のまとめとして、「リンチの直接の原因如何」と問うた予審判事に対して、大泉が「それは要するに宮本一派の不平分子の策動に他ならないと思います」、「宮本一派は私の勢力を党中央部より駆逐する為、大泉一派はスパイであると云う口実を設け私や小畑を始め私一派に対し、残酷なリンチを行って殺害せんとしたのであります」(大泉第15回訊問調書)と言っており、「個人的な勢力争いが直接の原因」とみなすことには充分な根拠があると思われる。では、なぜそのような個人的勢力関係が党運動に影響を持ってくるのであろうかについてコメントしてみたい。これは単純な事実に左右されているように思われる。つまり、党の最高機密を掌握できると
いう組織部と金の工面で自己の支配力が貫徹し易くなるという財政部の二部署に利権が発生しているということである。これは古今東西より組織の鉄則であって党運動に限りこの方程式と無縁というわけにはいかない。事実、野呂執行部体制下にあっては、組織部を大泉が握り財務部を小畑が握っていた。「小畑が私の系統であって袴田等に金をやらなかつたと云うことも袴田等が小畑及び私を憎む原因ともなりました」(大泉「第15回訊問調書」)ということがありうるわけである。ところで、この当時の財政状態は次のように語られている。概要「熱海事件後党は貧乏になり昭和8年となっては漸次窮乏し、6・7月頃の党の収入は一ヶ月僅か7、8百円しか(無くいよいよ底をつく状況に至りました)。宮本は、昭和8年頃確かな金の出所を持っておりました。土方男爵から仙田某の手を通し2、3千円貰っております。又文化団体演劇同盟の方からも財政的支持があり一つの財政的グループを作っていたので同年8月頃宮本の行動は分派的であると云って一時問題になりかけた事がありました」(大泉「第15回訊問調書」)。
以上のような党内対立を見せていたものの「昭和8年11月頃までは私は野呂と小畑の3人で中央書記局を作り、かなり専制的に党内の事を切り回していました」(大泉「第15回訊問調書」)とあるように全体として大泉-小畑派の優勢に党内が秩序化されていたようである。ところが、このような党内事情を背景にしつつこうした折りの11.19日頃に野呂委員長が逮捕された。こうして、今また中央委員長が逮捕されるという非常事態が発生した。野呂委員長の逮捕は、今日スパイと判明している大泉の手引きであったとされているが、大泉は強くこれを否定している。今日でも真相は不明である。この時、秋笹は、野呂を売ったのは小畑ではないかという疑問を袴田にしたとのことである(袴田第7回予審調書)。こうして大泉・小畑・逸見・宮本の執行委員が後に残された。従来の党史の鉄則からいえば、この間党委員長が田中清玄、風間丈吉、山本正美、野呂栄太郎とめまぐるしく替わってきたように、早急に後がまの委員長を選出して新事態に対応すべきであったが不思議なことにそうした動きが残されていない。思うに、大泉・小畑は委員長の重責を担う能力が不足していることを自他共に認めていた。さりとて大泉・小畑は宮本を委員長に据えることに連合して反対した。逸見ははなから問題にならなかったという事情で暗礁に乗り上げていたのではなかったか。この頃、「野呂が検挙される前頃から病気で
引退したところ中央委員の宮本が中央書記局を解散する事を主張し、遂に中央委員会即ち中央常任委員会とする事になり、書記局は解散しました。そして、その後しばしば会合を持たねばならなかったが、アジトと金がないので延期になって居ました」大泉第16回予審調書)ということである。つまり、綿々と培われてきていた後継
委員長を選出する鉄則に背くどころか会議そのものが開けなくなっていたと云うことである。
それもその筈であった。驚くことに、党中央委員候補者として任命された袴田の参加した最初の党中央委員会が11月に入ってから開かれた小畑・大泉の査問をめぐっての謀議であったというのである。これを事実とすれば、この時点で党中央は既に機能麻痺していたということになる。こうした会合は以降中央委員宮本・逸見、同候補者の秋笹と袴田の4名で数回会合が持たれていくことになった。これが党中央委員会の会議であったと弁明されているが、その内容たるや後述するように党中央委員の半数を占める大泉・小畑両名を査問にかけようとする変な会議であった。袴田はこれを党中央委員会の会議と言いなしているが、こんなものが党中央委員会の会議などともったいぶって言えるのだろうか疑問としたい。袴田の心理は、「野呂の検挙は党内に大きな衝撃を与え、当時の中央委員会をしていよいよ党清掃に着手しなければならないと決意せしめたのであります」(袴田第7回訊問調書)ということであったようである。このような経過の中から野呂委員長逮捕一ヶ月後に「査問事件」へと発展していくことになる。