「査問事件」のドラマ化に入る前に、「査問事件」の背景にあったもう一つの動きとしての「党内スパイ対策」を検討しておく必要がある。この頃「特高」側の一層の暴力的エスカレートに対応させて党の方からもスパイ対策が積極的に講じられていくことになった。宮本氏は、後述する松原スパイ問題に関連させて33年(昭和8年)6.1日の赤旗における「プロヴァカートル(スパイ・挑発者)に対する処置として」の中で、概要「(スパイを見つけたら)ためらうことなく党中央委員会書記局あての密封上申書を信頼できる線を通じて提出すべきである」と警告している。この論文のおかしなところは、不幸にもこの時既に党中央にスパイが潜入しているとしたら、密封上申書がどういう意味を持つかということにある。「査問事件」の理由づけとしてなされた宮本氏らの言い分に従えば、この時点で既に党内の最高機関に二人もスパイが潜入していることになるのだからへんてこなことになる。それはともかく、この頃党内はスパイ対策をめぐって「食うか食われるかの切迫した鍔ぜりあいの状態」に入っていた。この事情は、広津和郎の「風雨強かるべし」(昭和9年7月.改造社刊行)で、「……左翼の運動がだんだん神経質になり、興奮性を帯び、何か落ち着いた、板に付いた感じがなくなって来ているのが感ぜられる。恐らく烈しい弾圧のためだろうが、同志が互いに猜疑の目で見合って、落ち着いた気持ちがなくなって行っているのが感ぜられる」と書いているような状況が生じていたようである。また、「この一年を通じて党がかかる状態に置かれたという事は、党を愛しその発展をねがう幾多の党員をして全党の清掃とボリセビキー化の必要を痛感せしめ、それらの同志の組織革新に関する上申書は幾通と無く中央部に提出されたのであります」(袴田第7回訊問調書)とも明らかにされている。ちなみに、大泉非難の上申書が何回となく提出されていたようである。
袴田は、この問題に関して「党の清掃問題は、党のボルシェビキー化の問題と共に指導的同志の間には古くから考えられておった事で、その根源は遠く、ただ野呂の検挙を契機として表面化したに過ぎないのであります」(袴田第19回訊問調書)と陳述している。この時点で既に、ここで論究しようとしている12.23日発生の「査問事件」前年あたりから翌34年(昭和9年)の凡そ二年間にかけて、スパイ対策と称する「査問」が共産党の裏方の中心的な活動方針となっていたというのが事実であるようである。このような状況が前提として確認されなければ本稿で扱おうとしている「査問事件」の構図が見えてこない。
これを一連の経過で見れば、早くも32年(昭和6年)5月頃有能な全協中央委員であった松原リンチ事件が発生している。33年(昭和7年)8.14日に有能な朝鮮人活動家伊*基協射殺事件が発生している。これは5月上旬処分を決定し、村上多喜雄が右処分を担当した。この頃三船査問未遂事件も発生している。同9.14日有能な沖縄出身の活動家であった平安名常孝殺人未遂事件、同12.21日有能な党印刷局局員であった大串雅美査問事件、12.23日「査問事件」、翌年の34年(昭和9年)1.12~2.17日大沢武男査問事件、同1.17~2.17日波多然査問事件などがその主なものである。34年頃になると昨日リンチした者が今日リンチされるというような一種の「輪番リンチ」が惹起しつつあったようである。西沢隆二がその例で、加害者であり被害者となったようである。疑心暗鬼に包まれた党内の状況がしからしめたところということになる。この経過で不審なことは、全協の戦闘的活動家または党内の戦闘的有能党員が意識的に狙われている風があることである。
松原事件の場合、立花氏の「日本共産党の研究」ではじめて明らかにされているようであるが、松原氏は全協内の戦闘的活動家ではあったが非党員ということである。他にこの件に関しての論究を知らないので立花氏の受け売りにならざるをえないが少しみておくことにする。「赤旗」でのスパイの除名広告はいくつも見られるが、これほと大きなものは類例が無いほどの実に4ページにわたる長大な「プロヴァカートル(超スパイ)松原を除名す」(32年6.1日付け)が広告された。先に挙げた「プロヴァカートル(スパイ・挑発者)に対する処置として」と同一文なのかどうか良く分からないが、除名広告は全部で十章からなり、これを読めばなるほどこの男はスパイだったのだなと思わせられるほど手が込んでいるらしい。この事件がなぜ重要な政治的意味を帯びているかというと、「この松原問題で注目すべきなのは、除名広告が出る前に、松原がリンチされ殺されようとしていたことである」(同書271P)、「いわば、この松原事件が、その後のスパイリンチ事件の原点になるわけである」(同書273P)ということの他に、この松原事件について後日宮本が自らの公判陳述の中で触れて、「その後スパイの歴史の中で有名なのは、いわゆる全協に忍び込んだスパイ松原……この男はスパイとしてかなり手腕家であって、単に一つの階級的組織に打撃を与えるに止まらず、大衆団体と共産党との対立を政策的に惹起せしめようとする方針を目論んだのであります」と述べていることにある。驚くことに、こうした歴史的重要な役割を持つ事件の当事者松原氏は党員でもなくましてやスパイでも何でもなかったということが明らかにされている。詳細は同書に譲るが、これは大変なことではなかろうか。今日『さざ波通信』で熱烈党支持を投稿する党員の方は、少なくともこの問題に対して党中央に見解を仰ぐ必要があるように思われる。立花氏は延々4ヶ月にわたる取材で当人と関係者との取材をし、当事者の討論まで行わせ語り合わせた結果、松原氏の冤罪に双方が合意したとある。「まあ、私は45年間、本当に苦しんだですよ。実際、夫婦で自殺することさえ考えたこともあるくらい(松原夫人も全協の活動家だつた)命を懸けて苦しんだですよ」(同書275P)。私には、こんな重大なことがほおかぶりさせられていることが到底理解できない。私は、立花氏とは政治的立場を大いに異にする者であるが、氏に対して浴びせられている「犬が吠えても歴史は進む」などという党の露骨な居直り論理を畏怖せざるを得ない。実際、「犬が吠える」とかの発想はどういう意識からネーミングされるのだろう。卑しさしか感ぜられないのは私だけなのでしょうか。それと、長大文章で松原氏の除名広告をなした執筆者の責任はどうなるのだろう。この当時「プロヴァカートル」的表現で査問をけしかけていた者が誰か想像に難くないが軽断は差し控えることにする。
なお、34年度の査問はほとんど袴田-木島ラインによって党議決定で行われているのに対し、前年の32.33年の査問事件については党議決定されたものかどうか誰が指令したのかさえ雲を掴むようなことになっている。事実、村上氏は革命的精神をそそのかされ伊*基協を射殺したものの、後に伊*氏の潔白を知ることにより獄中でこの点に拘りつつ悶死している。伊*基協射殺を指示したと言われる首脳部とは誰なのか、平安名常孝殺人未遂事件も含めて党議決定されていたものなのか、その際の提議者は誰なのか今日に至るもこの過程が明らかにされていない。これらの査問のなお犯罪的なことは、査問されたこれらのいずれもと査問に向けられた者らが次代の党を担える資質を見せていた有能な活動家であったことに共通項がある。いわば双葉の芽のうちに将来を消されたのであって、こういう観点からも責任が問われねばならない重大案件であると思われる。
更に注意すべきは、12.21日大串雅美査問事件であろう。私の知る限りこの件についてもまともに考察されていないが、本件もまた極めて重要なメッセージを発信している。日にちから見ても判るように、本稿で取り扱う「党中央委員大泉・小畑両名被リンチ査問事件」の直前に行われており、いわば予行演習の観があったのではなかろうかと推測される点で見逃せない事件であると思われる。大串雅美は、当時党中央印刷局で同局員であった。ここに袴田の貴重な陳述が残されている。「大串雅美に対し査問を実行したことをたぶん宮本から聞知したと記憶しておりますが、これは宮本と同局責任者の西沢隆二との協議の結果行われた事で、中央委員会としては何ら関知しないことであり又承認した事もありません」(袴田第15回訊問調書)。この陳述は更に次のように修正されている。概要「(大串雅美査問に当たり)この時宮本が果たして西沢と協議していたのかというと、この点については党内でそう云う取りざたがあるのでその頃聞いただけの事で、実際に両名の協議の結果行われたものや否や直接関係がなかつたので私には判りません」(袴田第19回訊問調書)。つまり、この補足に拠れば、理解の仕方によっては大串雅美査問事件は宮本単独主導によって為された可能性が濃いことになる。こうなると、ためにする批判ではなく「査問事件」の発生が宮本氏の指導によって推進されていたのではないかとさえ思えてくる。もう一つ見方を進めて、一連の「査問事件」は、宮本氏の党中央委員進出以降の出来事であることを強調することはさすがにいきすぎであろうか。宮本氏が中央委員に登場して以来「査問事件」が党内に発生してきており、本稿の「査問事件」に先立ついくつかの査問に宮本氏の影が見えているのというのは事実のようである(ようであるという意味は資料が乏しいということである)。少し補足を要するが、大串雅美査問につき、袴田の第3回公判調書では、「西沢が自分に嫌疑がかかっている事を知り、自分はスパイでは無いのだと言う事を証明する為、大串の査問をやったのだと大串の査問に立ち会ったものからの報告書が参ったのです」と陳述している。これによると大串の査問は西沢単独主導ということになる。更に「西沢をこの事件に併合審理される事は、私を始め宮本は勿論希望しておらぬのです」(袴田第3回公判調書)という陳述がなされている。袴田が公判でこのように論調を替えたのはなぜなのかは判らない。余程拘る理由があるように思われる。
「党中央委員リンチ査問事件」後のことになるが、翌年早々大沢・波多査問事件が発生しており、これらの場合いずれも激しい暴力が行使されている。これら二つの査問は、「査問を中央委員会に於いて承認し、木島をして指導統制に当たらしめ実行せしめたのであります」(袴田第15回訊問調書)とあるように、袴田の承認の下で木島が責任者となり実行された。ちなみに波多然は、手記「リンチ共産党事件について」(経済往来昭和51年5月号)でリンチの様子を次のように明らかにしている。「査問は、実際は、嫌疑ではなく、スパイであることの自白の強要であり、数日間ではなく、数ヶ月間であり、……残忍なテロによる強迫であった云々」。本稿の「査問事件」はこういう党史的背景において捉えられねばならないのではなかろうか。「政治というものが避けようもなくその底に秘めている暴力性に目を閉ざして、うわべのきれいごとで身を装うことの欺瞞性を強く指摘したい」(栗原幸夫「戦前日本共産党の一帰結」)という栗原氏の言葉には説得性があることになる。
以上を踏まえて、私流ドラマを誌上再現する事にする。但し、非常に長くなるので以下小畑関係を中心に見ていくことにする。 なお 私の手元にあるのは先に挙げた著書の範囲の予審調書及び法廷陳述でしかない。このうち袴田と大泉の予審調書はほぼ出そろっているが他の三人のそれは一部しか漏洩されていないようなので正確は期しがたい。立花氏の「日本共産党の研究」は新資料を駆使しているので参照させていただくことにした。というわけでこれらをどう見るのかについて思案を凝らした。各自はそれぞれ事前に拷問を受けている筈であり(どうやら袴田は受けていないらしい。よくしゃべり協力的であったということであろうか)、警察または予審判事の誘導も大いに考えられるので、採用に当たってはまず作り事とは思えない陳述であるかどうかを重視した。次に、各自の陳述とか回想録に微妙な差が見られているところから、逸見・宮本・袴田・秋笹・木島の弁明のうち誰が的確に事態を表現しているのかという観点からの見定めを重視した。その結果私は、党史の流れの中で派閥を形成せず、野呂委員長の補佐役に甘んじようとしていただけの人であり、このたびの査問にも当初反対していた逸見のそれに最も信をおくことにした。逸見は両派のどちらにも与する必要が無く自己の保身以外に嘘を言う必要が見あたらない立場にいたと思えるからである。ところがこれが厄介であった。逸見は余りに凄惨なリンチの様子を陳述しているからである。他の者のそれには見られないほどの露骨さで宮本氏の関与を語っており、この辺りは当事者全員の陳述との整合性を重視すべく神経を使った。ただし、党除名後の袴田が語った事件の真相手記も無視するわけにはいかなかった。事件の流れについては袴田のそれをベースにした。彼がこの事件の仕掛け屋として当初から関わっており最も多弁に語っているからである。部分的な箇所の解明には秋笹のそれをも参考にした。木島のそれはほとんど採用しなかった。彼は宮本-袴田のリモコンでしかなく一部始終の経過についてもさほどタッチしていないからである。ただし、私の勉強不足とも思うが木島の予審調書の詳細は「日本共産党の研究」でしか知らず、立花氏はその著書の中で木島が宮本から受けた数々の指令部分ないしやり取りを明らかにしており、他にないものなので比較出来ぬまま採用した。宮本のそれはあまりにも当事者の供述とかけ離れておりベースとしては採用せず、他の陳述との比較という方法で採用した。この点については別途宮本氏の観点から見ていくことが必要であるとは思っているが。