ともあれ、このような状況下の33年の暮れに「査問事件」が発生し、その三日後12.26日に宮本氏は検挙逮捕されている。宮本氏は、以来敗戦まで12年間を獄中に送ることとなった。敗戦の前年に氏の公判が開かれるているが、検挙以来黙秘を貫き、白紙の調書に象徴される完全非転向を貫いた、とされている。この間の様子は、中条百合子との「12年の手紙」往復書簡集他で知らされている。以下、このような経歴を見せる宮本氏が直接関与することになった「査問事件」について言及してみたい。
「査問事件」とは、33年(昭和8年)12.23日当時の日本共産党中央委員会内部に発生した「大泉・小畑両中央委員被リンチ査問事件」のことを言う。あらましはこうであった。当時中央委員候補であった袴田が発案したとされており、同じく中央委員候補であった秋笹も同調し、これを中央委員であった宮本がすぐさま支持し、逡巡したもう一人の中央委員逸見を何とか巻き込んで、宮本-袴田ラインであった木島他を警備役として取り込み、他にそれぞれのハウスキーパーを見張り役として利用した。これが総数であり、宮本がリーダーとして指揮することになった。こうして大泉・小畑両中央委員がアジトに呼び出され、この二人をスパイ容疑者として査問するという事件が発生した。この経過で査問二日目の午後小畑が死亡するという突発的な不祥事が起った。査問は頓挫し、責任転嫁と事後処理の打ち合わせが行われた。唖然とすべきは、小畑の死体が放置されたその場であったか階下であったかは別にして、その直後宮本と逸見の協議により袴田と秋笹が中央委員に、木島が中央委員候補に任命されると云う論功行賞を受けている。これが戦後になって吹聴され続けている「戦前最後の党中央委員宮本-袴田」コンビの誕生秘話である。おぞましいと感じるのは私だけでしょうか。新たに中央委員となった袴田と秋笹で事後処理を話し合ってそれぞれ散会することとなった。小畑の死体は床下に隠されることになった。翌翌日の12.26日に宮本氏はいち早く検挙された。大泉とそのハウスキーパー熊沢はその後も翌年の1.15日まで監禁され続けられることになった。この間二人は心中を申し出、遺書を上申した。これを査問側も認め、心中決行のため新アジトに二人を移したが、決行当日不思議なことに監視員が木島のハウスキーパー唯一人という状況になり、大泉は隙を見て逃げ出し当局に転がり込むこととなった。こうして事件が発覚し、マスコミが猟奇的に大きく報道するところとなった。事件の報道は各界に衝撃をもたらし、党の権威と運動が大きく損なわれることになり、実質上党中央は崩壊させられるに至った。
この事件が今日においてなお重大であり尾を引き続けているのは、党中央執行部員同志による致死を伴った査問事件であったという重大案件であるにも関わらず、この事件に対して党内的な総括が未だになされているとは言い難く、事件の全貌もまた未だヴェールに包まれていることにある。それは、査問の首謀者が今日の党を指導する宮本氏であったことによる政治的複雑性と、査問の経過中での小畑死亡原因をめぐって当事者の主張一人一人に隔たりが見られ、未だに解釈が一定していないという事情が横たわってることにも原因があるようである。今日の党執行部を支持する者は概ね宮本氏の強く主張する平穏無事な査問経過中の「体質的ショック死」に転嫁させ、他方反宮本系の者は「リンチ査問死」であり宮本氏に結果責任を負わそうとする傾向にあるという具合に今日においても著しい政治的色彩を帯びている。
この件に関する私の考えはこうである。「査問事件」は宮本氏にとって触れられたくない箇所であろうが、臭いものに蓋をせず、公党の責任問題として党史的に総括しておくべき事案のように思われる。その姿勢は党内の自浄能力の欠如を疑わせるものとして受け止められるであろうし、アキレス腱として事あるごとに利用され続けられることになる。決して党百年の計のために役立たない。是非生存中に事案処理をされんことを望む。55年に「50年問題について」で徳田執行部を総括したように、「いわゆる査問事件について」を党内論議的に総括しておく必要があるのではないのか、と思う。
このことを中野重治は彼らしく一般論的な言い方で次のように述べているらしい。「いわゆる〝リンチ〟の件にしてみれば、おれは殺さなかったぞと誰かがヤミクモ言い張ることで事が解決されるのではない。そこへと追い込まれて行ったのには、追い込まれた側に決定的な大きな原因があったことを正面からつかむこと、これが党再生の道だろうと思う」(雑誌「通信方位」昭和51年1月号『歴史の縦の線』)
にも関わらず、「査問事件」が今日までタブー視されている不自然さには「査問事件」の全面的な解明に対して熱心でない宮本氏の姿勢が大きく関係している。それがために時に応じてかえって猟奇的事件としての興味をかきたてられるというシーソー関係にさらされている。今、こういう状況下にあって私がこの事件の解明に向かおうとすることの意味は、一つは、「査問事件」の発生が党の組織問題としての「スパイ・挑発者に対する摘発闘争」の一環として生じたという歴史的経過を踏まえ、この事件が党の責任において党史的に総括されねばならないと思うことにある。この問題は、再発を防ぐための今後の教訓としても問題を歴史的全体性の中で捉え直される必要があるのではないか。確かに、「当時の味方の中に無限に敵を発見していくスパイ摘発闘争の悪循環を見据えつつ戦前日本共産党史の一帰結として『査問事件』を捉え、日本共産党の過去の革命的運動の反省という環の中での総括が必要」(栗原幸夫「日本共産党史の一帰結」要約)ということではなかろうか。
もう一つは、この事件を単に猟奇的に見るのではなく、宮本氏の政治的立場にまつわる胡散臭さの逃れようのない証拠事件として解明しようということにある。宮本氏は、この事件ではからずも黒幕から直接の下手人の一人としての役目を果たすことになった。それは突発的であったので、氏の冷静なシナリオを狂わして自らをして手を染めさせてしまったのではないかと思っている。以来この事件は宮本氏の政治的活動の致命的なアキレス腱として内向させられているのではなかろうか、と思われる。
最後の一つは、「査問事件」の前後の解析を通じて、宮本氏の警察・予審調書が存在しないということに関連させての「完全黙秘・獄中12年・非転向タフガイ神話」の虚像を暴いてみようと思う。なぜなら、戦後直後の有能且つ戦闘的活動家に立ち塞がってきたのがこの神話であり、この如意棒が振りかざされることによって転向組が沈黙を余儀なくされてきている経過があるから。ありえなかった虚構を暴くことはこの意味で必要となっている。ちなみに、『さざ波通信』編集部の方たちにあってさえこの神話が無条件に措定されている文章を読んだことがある。この現実を突破することからしか抜本的な党の再生はあり得ないというのが私の視点となっている。
ところで、とり急ぎここで指摘しておきたいことは、果たして査問の間じゅう小畑・大泉に食事が提供されていたのかということについてコメントしておきたい。実際には与えられていないように推測されるので、小畑・大泉両名は食事抜きのまま丸一昼夜と翌日の午後まで5食分が抜かされたまま査問が継続されていたことになる。加えて充分な睡眠も与えられず捕虜同然の姿で手足を縛られたままの消耗著しい姿勢で経過させられていたことになる。宮本氏は、こういう査問状況についても否定しているのだろうか。仮に「体質的急性ショック死」を認めたにせよ、これらの事実はその大きな因果になっているのではないかと容易に推測し得ることである。それとも何か、宮本氏並びにその同調者は、テーブル越しに会議でもしているかのようにして査問がなされ、経過経過で食事を与え用足しもさせていたとでも言っているのだろうか。