今日においても小畑のスパイ性をめぐって見解が分かれている。正真正銘スパイであったと疑う者といやそうではなかったとする立場の者とに分かれている。大井廣介の遺書「独裁的民主主義」(昭和51年12月、インタープレス刊行)や亀山幸三の「代々木は歴史を偽造する」(昭和51年12月、経済往来社刊行)は、小畑はスパイでなかったという立場から書かれているらしいが私はこれらを読んでいない。これに対して、平野の場合は小畑に会った第一印象で小畑は臭いと感じたと述べ、この印象を補強する形で誰それの検挙は小畑が売った可能性が強いとか、取調べの際に自白か転向を促すために特高が小畑がスパイであるという秘密を公然と漏らしたとかを列挙している。さすがに立花氏は、もしそうなら逆に小畑がスパイでないことになると指摘している。特高は誰それがスパイであるとか漏らすことは御法度であるから常套的な内部攪乱のやり方であろうと理由を述べている。
ここで、小畑の履歴について簡単に述べておく。党関係の側からの小畑に関する伝記的記録は見あたらないようなのでやや詳しくは「日本共産党の研究三56P」を参照して貰いたい。同書記述を要約すれば、小畑が非常に誠実有能な活動家であり、主に全協との絡みで党中央に進出して行った貴重な労働者畑党員であったことか判る。常に特高を警戒しながら活動していた様が見て取れるし、事実この「査問事件」途中小畑のアジトが木島によって調べられるが、下宿のおばさんを味方に付けていたこととか机には厳重に鍵がかけられていたこととか、何よりこの査問中完璧な受け答えをしている様が大泉と好一対をなしており(対特高においてもこのような対応をしただろうと賞賛される対応を見せている)、そして最後に渾身の力を振り絞って査問の罠から逃走を試みようとした戦闘力が知れることになるであろう。ここで付言しておけば、小畑の遺体を引き取った弟が郷里の知人に宛てた手紙の一節は次のように記されている。「新聞ですでに詳細ご承知と思いますが、ただ兄は裏切り者ではなかったことを判然とお知らせいたします。兄こそ正しい党員です。兄こそ日本共産党の正統なる後継者だったことを確信を持って云い得ます」、「母は悲しみの中にも元気です。唯、新聞は兄を裏切り者のように書いているので、それを残念がっています」。
小畑は、質朴な労働者出身であり、半非合法の日本通信労働組合の中央委員長を経験している。昭和6年夏に万世橋署に検挙された。刑務所行きが間違いないと推測されていたところ、起訴されずに警察だけで釈放された。この件に関して、この時スパイにさせられたのではないかとこのたびの査問中厳しく追及されている。この言い分の正しくないことは立花氏が文中で述べているのでそれを参照されたし。昭和8年頃日本通信から全協本部、全協本部中央の常任を経て野呂執行部時代に党中央委員というふうに急速に出世していった。以降の動きについては既に記述しているので割愛する。私は、小畑氏が名誉回復されねばならない根拠が充分あると考えている。とすれば、小畑関係の資料蒐集しておくことは公党としての早急な義務であるように思われる。特に、冤罪事件に奮闘する党員の方は、先の投稿で述べた松原氏に対してもこの小畑に対しても同様まず身内の冤罪事件に取りかかって欲しい。
ここで、大泉の履歴についても簡単に述べておく。大泉は、その予審調書に拠れば昭和7年1月に新潟から上京し上京後党の農民部との連絡に成功。以後不思議なほど党内出世を遂げ重要な党機関を歴任していくこととなった。新潟時代既にスパイ的動きが見られ、地元党員から党中央あてに上申書がなされている。上京後のスパイ活動は主に「特高」の宮下警部と連絡を取り合っていたと自白している。党内出世の結果、昭和8年8月下旬頃警視庁「特高」トップの毛利課長直轄のスパイとなっているようである。同年12月23日にスパイ容疑で査問されるまでの期間といえば満4ヶ月ということになる。証人として喚問されたかっての同志達は、ほとんど口を揃えて、大泉の指導者としての消極性、無理論、古い型の指導性、呑気なとうさんぶりなどを証言している。無節操・無定見、女と金銭関係において極端に放縦。着服癖。熊沢光子を欺瞞してハウスキーパーとする等非同志的態度が見られた云々。
宮本氏は、第一回公判廷において「(査問を通じて)彼らは先ず日常活動に就いてのスパイとしての証拠を掴まれるや、その後は最早自分は客観的にはスパイと思われても仕方がないとはっきり言ったのであります。」、「(小畑は)只、『自分はその当時政治的水準が低かったからそういうことをやったのであって、自分としてはスパイではないがスパイと思われても仕方がないから除名は勿論承認する』と自白したのであります」と陳述している。この「客観的には云々」という口癖が宮本論理の特徴である。既に何度か指摘しているが、こういう論理と権力がジョイントすると権力者は大抵のことを思い通りに正当化し得ることになる。反動的理論の典型というべきであろう。
小畑に対する私の認識はこうである。スパイ性はあったかも知れないが、小畑に認められるスパイ性程度のものは当時の獄外党員の誰しもが背負わされているすね傷ではなかったのか。小畑にかけられた嫌疑程度のものであれば、逆に小畑グループが宮本グループを査問した場合を想定したとき、宮本も袴田も木島も同等かそれ以上のすね傷を露見させられずには済まなかったのではないのか、と私は思っている。では聞こう。この当時には珍しくも宮本は32年(昭和7年)2月頃中条百合子と正式な結婚をしているが、わずか二ヶ月程の期間であったとはいえ駒込と百合子の父の別荘国府津での生活は特高の目をくらまし続けての生活であったと言うのか。歴史の奥底の大事な真実は秘せられるとしたものだからこれ以上の推測は控えるが、次のことだけは言っておきたい。当時にあってはスパイ性も転向性もある種「特高」との駆け引きの中で行われていることであり、獄外党員を見る場合、その党員の本音と活動ぶりが党運動の推進性とスパイ性のどちらに重心を持っていたのかという観点で評価されねばいけないのではないのか。そういう具体的特殊的な考察抜きにスパイ呼ばわりするとしたら、当時の獄外党員は皆スパイにされる可能性がありはしないか。当時のメーデーデモを見てもデモ隊列の両側に二倍の数の警官が張り付いていたようである。検挙しようと思えば容易であったであろうが、却って党の動きが判らなくなる等の理由で見逃されていたのではないのか。「特高」の網に引っかからない機関党員がいたら却って疑わしいのではないのか。
この当時有能とみなされる活動家ほど抱き込まれる機会を仕掛けられていたのであり、宮本にはそういうお呼びさえかからなかった的な完全無欠神話こそ却って不自然であろう。この当時「特高」は個々の党員をいつでも検挙できる体制下で泳がせていたのではなかったのか。それは今日の公安とオームの、あるいはまた広域暴力団との関係のようなものであり、全国手配者にせよ張りめぐらされた網の中の掌中に入れられているのかも知れないという見方が出来るのと同じである。「特高」から見て落とし込みようのない危険な有能党員は獄外にあることを許さず、適宜に逮捕・拘禁・虐殺の憂き目にあわしていたのではないのか。獄外党員はその動きをチェックされ続けており、真実地下に潜って尾行さえ付かせなかったという絵空事は子供だましの言いではないのか。こういうセンテンスで当時の情況を読みとらなければ賢明な判断がなしえないのではないのか。かたやスパイ、かたや深紅の活動闘士というきれい事過ぎる論調を信じれる者はおめでたい幸せ者でしかなかろう。付言すれば、非スパイ性を拵えるために八百長的逮捕さえ行われていたとか、熱血党員をスパイであるかのように見せかける罠とか様々に混乱の種が蒔かれていたという情況も知っておく必要がある。以上、通説の「査問
事件」の不可解な面として、この小畑の非スパイ性の指摘をさせていただこうと思う。第二点としたい。
少し観点が違うが、この辺りを踏まえて立花氏も次のように言っている。「共産党の内部には、妙に陰湿な伝統がある。それは過去の活動歴の汚点がその党員の党生活に陰に陽に終生つきまとうということである。その人間が党中央に忠誠を誓っている限りにおいては、彼の汚点は表向き無かったことになっている。ところがいったん、その人間が党中央に背くや否や、彼の過去の汚点が洗いざらい暴き立てられ、彼がもともとダメな人間で、党員としてあるまじき行為を過去から一貫して積み上げてきたことになってしまうのである」(日本共産党の研究二74P)、「活動歴の汚点はもちろん、プライバシーに至るまで容赦なくあばかれる。戦前からの活動者の場合、活動歴の最大の汚点は転向である。なにしろ純粋の非転向者は日本中でほんの一握りしかいなかつたのだから、たいていの人は転向歴がある。普段はそのことは問題にされないが、いったん事が起こると、たちまち引き合いに出される」(日本共産党の研究二77P)。
スパイ考の最後にこのことも述べておきたい。当時のスパイにもいろいろ種類があって、地方出先の「特高」担当のスパイと警視庁(本庁)「特高」担当のそれと「特高」のトップ毛利氏の最高機密下のそれと、更にはこれらの指揮系統とも違うそれという具合に幾重にも(ここが肝心だ!)系統的に組織されていたのではないのか。これらのスパイも弱みが握られてスパイにさせられた者と党への不信から自ら進んで志願した者と元々警視庁から送り込まれた者という風に分類できるのでは無かろうか。更に付加すれば袴田のように特高の期待通りに迎合的にうごめく者も居たようである。大泉の場合、自ら志願した風がある。故郷での事業負債を抱えていたようであり金銭的な渇望と党への不信がオーバーラップしていた形跡がある。恐らく熱海事件の際に見せた「スパイM」を真似て「特高」に党の機密情報を高く売りつけ支度金を貰って暫く満州にでも身を隠そうとしていたのではないかと、これは想像部分であるが根拠がないわけではない。ところが、彼もシナリオが狂ってしまった。査問事件に巻き込まれてしまいスパイであることが暴かれてしまうと同時に出先の警察に飛び込む事により隠蔽が難しくなったからである。
もう一つの区別も必要である。スパイには、単に情報取りのそれ、「単に一つの階級的組織に打撃を与えるに止まらず、大衆団体と共産党との対立を政策的に惹起せしめようとする方針を目論」(宮本氏の公判陳述)む党の内部攪乱・破壊で動くそれ、「党活動や党人事に関与し、党の内部に組織的にスパイをはめこんでいき、それらのスパイ達を手駒として動かしながら、党を文字通り換骨奪胎して」(日本共産党の研究二99P)行くことを狙ったそれ、そして今日的段階ともいえる「党の用語を縦横に駆使しながら党の本来的活動とは無縁の方向へ引っ張っていくことのできる指導的能力者」としてのそれ、という風にスパイにも進化発展の歴史があるのではなかろうか。
なお、ここで大泉の第15回訊問調書において彼が指摘している日本共産党批判を見ておくことにする。なかなか鋭い分析が為されているように思われるから。リンチ事件の契機となった大泉-小畑派と宮本-袴田派の対立の背景に政治的遠因があると指摘した上で、「日本共産党はその発生当時から小ブル的要素を多分に持っており、インテリが牛耳り、労働者・農民の生活から遊離し、その活動は従って机上戦術的で何ら労働者農民の実質的利益をもたらさず、党は政策的に破綻に瀕しておりました。又党員採用に関しても無統制でボルシェヴィキ的鉄の規律はなく個人的関係が決定的な力を持って党組織関係は要するにインテリや失業者の集合に他ならず大衆組織はほとんどなかったと云えましょう。云々」。