まず、第一幕のワンショット。袴田の大泉疑惑は昭和8年9月頃既に発生しているとのことである。袴田が宮本にうち明けている。「私が宮本に会ったときこの事を話すと同人の意見は完全に私の意見と合致したのでありますが、野呂は大泉を信頼しておるし又党の重要な地位にある大泉をスパイと断言する事は軽々しくは出来ぬ故ここしばらく様子を見ていようではないかと云うことになったのであります」(袴田第2回公判調書)という重大な陳述がなされている。他方、小畑疑惑も同様この時期に発生しているとのことである。袴田が秋笹にうち明けている。「小金井の組織部会の後、秋笹にこの間の組織部会の時の小畑の態度をどう思うかと云うと、同人も小畑はスパイだなどと云っておりました。なお、秋笹は、「このことについては宮本には話して呉れるな。宮本は西沢隆二を信用しているが、同人は小畑の下についている男でしかも挑発者の疑いのある男だからうっかり宮本に話すと却って宮本がひどい目に遭うかも知れぬという趣旨のことを云っておりました」(袴田第2回公判調書)。さて、ここで気になることがある。「査問事件」は袴田の発議で始まったことになっているが、本当にそうであったのだろうか。昭和8年9月頃と云えば、既に宮本が東京市委員会の責任者として配置されてきていた頃であり、この二人ともかって中央委員への抜擢を大泉に阻止された経験を持っている同士の宮本-袴田ライン
の形成期であった。袴田が秋笹に小畑スパイ疑惑を相談するにつき、左様な重大な疑惑を宮本との相談抜きになしたとは思いにくい。通説の「査問事件」に対する疑問の指摘の第三点としておきたい。
次のショット。そういう伏線を経て「小畑・大泉が怪しいのではないか、スパイではないのか、査問にかけよう」と最初に発案したのは当時中央委員候補であった袴田と秋笹両名の謀議からであったとされている。二人は、概要「査問をやるなら小畑、大泉両名を同時にやらねばならない。一人でやれば他の一人がそれに気づき我々にどんな事をするかも判らぬから、査問するならば二人同時に査問しようと云う事になり」(袴田第2回公判調書)云々と話し合った。しかし、時の中央委員両名を査問にかけるという意味は重大過ぎることでもあり、残りの宮本と逸見の承認と慎重な審議が必要であった。袴田が宮本を、秋笹が逸見を説得することにした。さて、ここで押さえておきたいことがある。ここで二人同時の査問を理由づけているが、実体は小畑の査問こそ主眼であり、その実行を首尾良く完遂せんがために大泉が利用されたのであって、そういう理由で二人の同時査問になったのではないかという観点である。事実「査問事件」の経過を見れば、小畑の方に重点が置かれていた様子を見て取ることが出来る。もっともこれは闇の部分であり、私はかく洞察しているということだ。通説の「査問事件」の不可解な面に関する私の指摘の第四点としたい。
次のショット。そこで、袴田が宮本氏に相談したところ、宮本は一も二もなく直ちに同意した。「同人も小畑・大泉はスパイと云う意見を持っておりました」(袴田第2回公判調書)。他方秋笹が逸見に相談したところ、逸見はなかなか賛成しなかった。小畑はともかくも大泉は信用できると答えて話に乗ってこない(逆ではないかと思われるが実際にそう述べたのか入れ替えられているのかは判らない)。そこで、宮本・袴田・秋笹の3人掛かりで逸見を説得することになった。「宮本・袴田・秋笹の3名は、正式に彼ら両名を査問しなくともその罪状は明らかであると確信していました。しかし、中央委員たる右両名を査問し、党中央部のスパイ対策を決定し、これを党員等に発表して党の防衛を完全にらしむるためには中央委員会として正式に右両名に対する査問を決定しなければならない必要」(袴田第10回訊問調書)があった。何のことはない。結論先にありきで、形式上党中央全員を巻き込んだ形式での査問が必要であったというのである。そのためには「中央部員の一人でも右査問に反対する者があっては党中央部としての威信にも関するので」(袴田第10回訊問調書)、逸見を取り込むことがどうしても必要であったというのである。つまり、逸見を味方に付けるのが突破せねばならない最初の難関であったということである。
こうして、3名が手を替え品を替えて逸見の説得に当たったが、逸見は「従来の関係から大泉・小畑両名に相当な信頼をかけていたため、この査問に対し消極的であった」(袴田第10回訊問調書)。「最初の会合の時は、各自意見を述べ合った結果宮本・秋笹及び私の3人は大泉・小畑の二人をスパイと認めて査問すべきであると云う意見に一致したのでありますが、逸見のみは彼らの行動に非難すべき点があるとしてもスパイとは認めがたいと云う意見であったのです」(袴田第2回公判調書)。この時の逸見は、両名の連絡網を断ち切って党外に放逐すれば良く、中央委員ともあろう者を軽々しく査問までする必要は無いではないかと主張した形跡がある。ところが、「又逸見の云うが如く彼らと連絡のみを切って放逐するだけでは彼らは策動し我々と対抗する組織を作るかも知れぬと云うことは充分考えられます。よって彼らを一時監禁し査問して彼らの罪状を摘発し、党並びにその指導下にある大衆団体を突き止めることにより、スパイに対する党の防衛手段を決定して初めてここに党の安全を確保することが出来るのであって、これが同人等の査問の目的であります」(袴田第2回公判調書)という論調に押し切られることになった模様である。「もっとも、逸見は、小畑に対する査問には割り方容易に賛成したのでありますが、大泉に対する査問には容易に賛成せず」(袴田第10回訊問調書)という反応を示した。「それが為査問の必要に迫られながらも、逸見説得の為相当な時間を費やしたのでその為に査問開始を私たちが予定したよりも遅延した訳であります」(袴田第10回訊問調書)。概要「それで宮本や私らは、逸見に対し極力説得に努め、その結果遂に逸見も両名をスパイとして査問することを承認したのでここに全員一致で査問を決行することを決定したのであります」(袴田第10回訊問調書、第2回公判調書)。とはいえ、逸見の態度は煮え切らないものであったようで、「2回目の時も逸見の態度は変わらずだったのでありますが、大泉・小畑等の嫌疑事実を一々具体的に話し、これでも彼らがスパイであると云う疑いを持てぬかと云いますと、逸見は自身でも小畑について彼が逸見に対し俺が中央委員でなければ一仕事金儲けが出来るのだと云ったことや、又党に於いては最重要な地位にある組織部長を逸見に押しつけて自分自身は比較的重要性の軽い財政部長となった事などを述べ、怪しいと思えばかようなことも疑えると云っておりました。かような訳で逸見の考えは前回より幾分我々の考えに近寄って来て結局査問しようと云う事になったのであります」(袴田第2回公判調書)。
次のショット。こうして、大泉・小畑両名をスパイ嫌疑者として査問することが決定された。4名で日を改めること数度この問題を検討した結果、逸見もやっと渋々同意することになったということのようである。この時点の逸見の同意は、二人を査問すれば真偽が明らかになるであろうという消極的同意であったかも知れない。この経過は、「大泉・小畑両名を除く中央委員会メンバーが一所に於いてしばしば会合し、慎重に審議した結果、彼らをスパイ嫌疑者として査問することになり」云々(袴田第19回訊問調書)と陳述されている。具体的には、少なくとも第1回目が昭和8年12.3日、2回目が5日、第3回目が7日、第4回目が10日の順でそれぞれ場所を変えつつ会議が持たれた模様である。第1回目と2回目が逸見取り込みに要した会議となり、第3回目及び第4回目の会合はいずれも査問の手順方法や準備等に付き協議決定した会議となったようである。これは宮本・逸見・袴田・秋笹の4名全員が寄った会議という意味であり、この間宮本-袴田の打ち合わせは頻繁であったものと思われる。
次のショット。こうして種々談合の結果いよいよ謀議の大詰めとなり、査問嫌疑事項の確認を終えると後は各自の役割分担を取り決めて行くことになった。この頃のことと思われるが次のような興味深い陳述がなされている。予審判事の「袴田は、宮本・逸見等に、『大泉や小畑を連絡に連れだしてどこかに行って後ろからガンとやっつけてしまってはどうだろう』と提議した事があるか」という訊問に、一応否定したものの「もっとも、確かに当時冗談に『後ろからガンとやってしまえば世話はない』という様な軽い事を云った事はあるかも知れません」(袴田第14回訊問調書)と陳述している。この陳述は、査問が小畑・大泉を葬る口実でしかなかったということを証左している点で重要である。もう一つのそれは、「九段坂の牛肉屋での会合の時だったかその会合で宮本が主として査問に当たることに決まったので私が『それじゃ俺がテロ係か』と冗談に云ったことはあります云々」(袴田第2回公判調書)と云う会話がなされたことを陳述している。おおよそ愚劣な政治意識が感じられる査問側の「正義」ではないか。
次のショット。一応の手筈を次のように取り決めた。12.16日に査問を決行する、家屋の借り入れは秋笹、警備隊の動員は袴田と宮本、当事者の連行は逸見と宮本が担当することにした。そして査問当日の手順について打ち合わせをした。査問方法も確認したが、大綱の取り決めであった。こうして謀議が終結し、個々に任務を
持って散会した。
次のショット。袴田は、警備隊の動員を引き受けたので、12月中旬「かねて信用していた」木島隆明に大泉・小畑両名の査問することに至った経過と中央委員会決定を伝え、これの警備役を命じたところ、木島は即座に之を承諾した。警備一切の責任を任すことにした。なお、木島に査問道具の調達も命じた。被疑者を縛る針金、細引き、威嚇のための斧、出刃包丁等必要と思われる物品の支度を命じた。「その時の袴田の話で、私は宮本や袴田が党中央委員会のスパイを査問して殺して仕舞うのだなと感じましたが、当時私は党員であって、スパイを極度に憎んで居った際であったから、宮本や袴田等が党中央委員会のスパイを査問して殺すのは当然だと思って居りましたので、前述の如く凶器を買う依頼を承諾しました」(木島訊問調書)。木島は、リモコン的な部下2・3名を警備隊員として動員することにした。
ここで触れておきたいことがある。威嚇のためとはいえ、調達が予定されていた査問道具を顧慮すれば、この度の査問が同志的な尋問方式によって行われるようとしているのではなく、監禁捕縛の上の強権的な査問方式で執り行われることが予め了解されていたということになる。その様子は追って知れることになるが、査問テロはなかったと主張する者は、こうした査問道具の調達がなされたことまで否定するのか肯定するのかにつきはっきりさせねばならない。
次のショット。家屋の借り入れは秋笹の担当であったが、いつの間にか宮本が選定することになった。数日後宮本が家屋の借り入れが出来た旨伝えてきた。代々木山谷の一軒家であった。家の間取り図から付近図まで掌握され、査問決行日が決められ全員支度に入った。「朝8時木島はピストルを洋服のポケットに、出刃包丁と薪割を風呂敷包みにして持ち、かねての打ち合わせ通り江戸川橋近くの餅菓子屋三好野で宮本と最後の打ち合わせの為の連絡をとった。宮本は、『全部揃ったか』と尋ね、木島は『揃った』と答えた。宮本は円タクを止め、木島と共に乗り込み、車中で、それから2時間後の午前10時に京王線初台停留所付近に行動隊を引き連れてくるように命じると、春日町付近で円タクを止めて下車した」(日本共産党の研究三40P)。こうして当日午前10時頃袴田と木島警備隊他が要所に配置され準備万端整えていたところ、実際に借り入れ交渉に当たっていた某が直前になって家主に怪しまれ断られたという報告にやって来た。「いったん家主は貸すことを承諾したのですが、借り主の身元を調べたところそれが借りに行った者の云った事と違っていたとかで怪しみ貸さなかったとのことであります」(袴田第2回公判調書)。そこへ逸見・秋笹・宮本がやって来た、事情を知らされて結局この日の査問は中止となり他日を期して解散することとなった。ここのところ私の推測となるが、この時の大泉・小畑の呼び出しの様子が誰からも明らかにされて居らず、その点を考えると、慎重癖の宮本の為せる確認の芝居であったのかも知れない。
次のショット。その翌日宮本・逸見・袴田・秋笹4名が集まり、査問の件について更に協議を行った。各自のアジトが官憲に分かっているようだから至急移転することと新たに査問アジトを探すことになった。秋笹が査問アジトの借り入れを引き受けることを言い出しとされているが、言い出しっぺであったかどうかは別にしてみんながこれに同意し、秋笹のハウスキーパー木俣鈴子がその直接の役に就くこととなった。
次のショット。2・3日後秋笹が、東京都渋谷区幡ヶ谷にあった都心では珍しい閑静な場所で広さが格好の一軒空き家を見つけてきた。玉川上水路から北に5,60メートル入ったところにあった。ここが実際の査問場所となった。12.22日の夕方、秋笹の案内で宮本・逸見・袴田が下見した。2階に8畳間がありここを査問場所とすることにした。家の全体の間取り・付近の状況を確認し、翌12.23日査問決行を決議した。各自の任務分担と手筈を再確認し別れた。この間木島は宮本と19日、21日、22日と続けて街頭連絡をとっていた。ここまで見て判ることは、この査問事件の立案企画者が宮本氏であり、その実行計画の芯の部分のほとんども彼またはそのラインのリードでなされているということである。以下もそういう彼の能動的役割が見えるが繰り返さないことにする。