始めに。以下、煩雑を避けるために「予審訊問調書」につき単に「調書」とし、「公判陳述調書」につき「公判調書」と記すことにする。逸見と木島の「調書」については第何回目のそれか判らないので不明のまま「調書」とする。
なお、以下かなり長文化するのでここで「査問事件」のその後の展開についてコメントしておく。「査問事件」は事件以降隠蔽され続けようとしてきた。しかし、現に小畑が死亡せしめられているわけだから、事件そのものまでなかったことにするのはさすがに難しい。では、どういう風に隠蔽されたのかということになる。それは、二つの系流で行われた。一つは、宮本氏によって、小畑・大泉はスパイであったのであり、党内の当然の査問過程で小畑の異常体質による急性ショック死に起因して自ら死んだものであり、査問側の責任は一切免責されると云う論調でなされた。宮本氏は、こうして死因の解明を避けつつそういう事態に党を追い込んだ責任として当時の暗黒的政治支配体制の方に目を向けさせる作戦に出た。公判では、専らこの方面での批判を滔々となすことにより一種独演上の舞台を演出し、こうして事件そのものを矮小化させた。他方で袴田は、小畑・大泉はスパイであったのであり、当時の査問側には査問的正義があったとする観点から査問の経過を饒舌に語るという論調で補強しようとした。これを党内問題とみなすことを要求しブルジョア法廷で階級的裁判されるにはなじまないとする作戦に出た。これが二人のあうんの呼吸であった。ただし、この論調を貫徹させるためには他の当事者を沈黙させる必要が生じた。最重要人物は秋笹であった。査問発端以来の経過を熟知していることから秋笹の存在は都合の悪いものであった。そうした事情によってか秋笹は発狂の末獄死するところとなった。面会人にも法廷でも誰をスパイと告げていたのか不明であるが「スパイだ、スパイだ」と叫んでいたと言れている。木島はもともと宮本の私兵的な存在であり、査問用具の調達から暴力行為の先兵的な役割を深く果たしていることもあり事件の隠蔽に同意させるのはさほど困難ではなかった。逸見の存在が不気味となったが、逸見自身は深い謀議も知らず単に巻き込まれただけのことを特高側も知っており、秋笹に続いて逸見までもという訳には却っていかなかったのではないかと私は推測している。大泉は当局のスパイであり、当局のシナリオ通りに従った。真相を明らかにするためには統一公判が必要であったが遂に実現していないようである。誰が拒否したのだろう。当局もまたなぜ統一公判を避けたのだろう。こうして、「査問事件」全体がヴェールにつつまれることになった。その解明が進むことになったのは平野の手元に保管されていた袴田・大泉調書の全容漏洩によってである。これがなければ、「査問事件」は永遠に小畑がスパイであり、その死は異常体質による急死であったという説がまことしやかに信じられていたことであろう。
第二幕目のワンショット。当日の状況を再現する。1933年12月23日、いよいよ手筈通りに事が進められていくことになった。午前8時頃袴田は木島と出会い、いよいよ査問が決行されること、査問場所に関する地理等を伝え、警備に関する手筈を打ち合わせ、先に現場に行っているよう言いつけた。木島は「かねての宮本の指
図に従い林鐘年・金秀錫両名を伴い」(木島調書)現場ピケ(見張り)に向かった。袴田はその後で宮本と打ち合わせしたように思うがはっきりしないと言っている。9時頃袴田は現場へ向かった。現場へ到着した時刻ははっきりしないが、査問1時間程前だった。アジトへ着くと木島が既に来ており1階にいた。防衛警備に木島の手の者複数が配備されていた。秋笹のハウスキーパー木俣鈴子も1階にいた。袴田は直ぐに査問予定の二階の8畳間へ上がると既に秋笹がいた。部屋には、木島が用意した斧2挺、出刃包丁2挺、硫酸1瓶、細引き、針金等査問用器具が押入脇の壁の前に置かれていた。部屋の真ん中位の所に瀬戸の火鉢1個、床の前に布団を被せた行火(あんか)1個、床の窓側に謄写版が置かれていた。査問予定時間まで間があったので、袴田と秋笹は火鉢の所に座ってそれまでいろいろ雑談を交わして待った。時刻が近づいて来るに連れて段々緊張して待ち構えた。
次のショット。大泉は「16回調書」で概要次のように語っている。この日9時10分頃中央委員会を持とうという逸見の誘い出しにより事前の待ち合わせ場所に行ったところ、逸見と思いがけなくも宮本がやって来た。9時40分頃が予定時間であったので3人はタクシーに乗って打ち合わせ場所に出向いた。小畑が既に来て待っておりこうして4人が揃った。すると、宮本が、実は逸見がアジトを用意しており議案がいろいろ溜まっている事でもあり一つそのアジトで協議しようではないかと提議した。既に述べたように野呂検挙以降「その後しばしば会合を持たねばならなかったが、アジトと金がないので延期になって居ました」(大泉16回調書)という事情にあり、懸案事項が溜まりに溜まっていることは事実であった。大泉は、日頃より宮本には無条件で信頼する事が出来なかったのでいろいろ質したところ、信用している逸見までが安全だから行こうよと誘うので同意することにした。続いて小畑も同意した。一同はタクシーを拾うことにしたが、宮本は一つ車に乗ろうと提議し、小畑は否、年末で敵の警戒が厳重であるから二つに分乗しようと言い小畑と大泉で一つ車に乗ろうとした(小畑の対特高警戒心と宮本等に対する不信が見て取れるであろう)。宮本と逸見は、否、それは不経済であるし君たちばかりではアジトの場所が判らないだろうと言うので仕方なく4人が一つ車に乗って向かうことになった。現場近くまで来た途中で宮本の危険を避けるためと云う提議に従い二手に分かれ、宮本が小畑を、逸見が大泉を連れて歩いてアジトに向かうことになった。大泉は逸見に連れられてアジトに向かうことになったが、道を間違ったとか言いながら時間をつぶされた。後で考えると宮本らが小畑を処分する時間稼ぎであったことになる。
次のショット。こうして待ち受ける中、午前10時から11時頃にかけての間と思われるが先ず宮本が小畑を連れてやって来た。二人は何か話をしながら階段を上ってきた。袴田は、それと察し用意してきた実弾装填のピストルを片手に細引きを片手に身構えた。秋笹も立ち上がって待ち構えた。宮本は小畑を先導させつつ二階へ誘導した。宮本は、小畑が部屋へ入るなり後ろから首を羽交い締めする格好で小畑の動きを制止した。宮本は、「これからお前をスパイの容疑で査問する。神妙にせよ」、「絶対に大声を立てたり暴れたりしないよう」と力を入れた。袴田・秋笹も「大きな声を出すな、大声を立てるととんでもないことになるぞ。決して得策ではない」等同様のことを言い渡した。かくスパイの嫌疑で査問する旨を宣言したようである。すると、小畑は、「蒼白な顔色になり」非常に驚くと同時に事態を察知した。「何でも訊いて呉れ」と言って「尻餅を着くようにへたばってしまい」座りながら、「ああ、よしよし絶対暴れなんかしない」と言っておとなしくなった。小畑のこの動きは、誤解を解けばよいと安易に受け取ったものと思われる。この時彼が大立ち回れしておけば未遂で終わったものかどうなったものかはわからないが、少なくともリンチ査問の末の無惨な死はなかったであろう。実際は、不承不承ながら小畑は応じることになった。3名は、小畑を部屋の奥の方へ引っ張り込んで、手筈通りに小畑の外着を脱がせた上で細紐で両足首と両手を後ろ手に縛り付けた。身体検査も行った。所持金・名刺入れ・手帖・時計等が押収された。この後直ぐ大泉が来る予定になっていたので、小畑の両耳に飯粒を詰め込み、手ぬぐいで猿ぐつわをして押入に監禁した。この時宮本は懐中にピストル一挺を忍ばせていたと推測されている。
次のショット。約20分後、逸見が大泉を連れてやってきた。ここのところについて大泉の調書では、概要「大泉が査問アジトの二階へ上がるや否や、木島・秋笹・袴田の3名が飛びかかってきて、各ピストルやドスを突きつけて私を取り巻き、『これから貴様を査問する』、『声を出すと殺す』と脅かした」、「『シマッタ。これは最後だ』と直感しました」と述べている。袴田は、そういう言い方ではなく『騒ぐとどうなるか判らないぞ』と脅かした様に思う」(袴田18回調書)と述べている。なお、木島はいなかつた筈であると指摘している。いた可能性もないわけではないが木島本人の陳述では午後から参加したことになっている。この場面更に補足して大泉は、「部屋にはいると宮本が左手にピストルを持ち、右手で私のオーバーの左襟をつかみ引き倒そうとしました。逸見は階段を私の後ろから追うようにして上がって来ました」(大泉16回調書)と述べている。この陳述の意味は、小畑同様の手順で部屋に入った大泉の後方から逸見が首締めを行ったのではなく、宮本がピストルを構え同時に柔道技でつかみ倒そうとしたということにある。いずれにせよ協同して大泉の自由を奪ったことには違いない。袴田調書によると「スパイ嫌疑で査問するからじたばたするな」と口々に言い渡すと、大泉は、このものものしさに大層びつくりして「小畑以上に驚いて蒼白な顔色になり」、「尻餅をついてへたばり、『何でも言うから手荒な事はしてくれるな』と云っておとなしくなりましたので、それ以上脅かした様なことはなかったと記憶しております」(袴田18回調書)とある。「手荒なことはしてくれるな」とは「手荒なことはしないで呉れ」という意味である。大泉の16回調書では、「否、騒ぐと君の方も損だから静かにやろうではないか」と言い返したとあり、その後続いて概要「連中は先ず私のオーバーを洋服を全部剥ぎ身体検査を為し、所持品全部を調べ、その後ワイシャツ一枚にせられ、主として木島・袴田によって針金で手足を縛られました。足は股、膝下、足首の三カ所を縛り、膝下を後ろに回しその針金の続きで後ろ手に縛った針金と結び合わせられ、逸見がご飯粒を錬ったものを耳に入れて詰め込み、手ぬぐいその他で目隠しし、それから猿ぐつわをはめました。次いで一同は私を押入の下段に入れました」とこの時の様子を明らかにしている。この大泉の陳述通りとすれば小畑もほぼ同様の格好で捕縛されていたと考えられる。身体検査の結果所持金・名刺入れ・手帖・時計等が押収された。
ところで、査問テロはなかったと主張する者は、小畑・大泉のこの捕縛経過についても異論があるのだろうか、ここまでは大凡その通りであったかも知れないとしているのだろうかにつき、はっきりしてもらいたい。大泉の捕縛された時の状況説明はなかなかリアルであるが、過剰な表現なのかどうか分析していただきたい。それとも何か、このたびの査問はお互いにテーブルを挟んで査問会議の形式で行われたとでもいうのであろうか。当然ながら小畑には陳述出来ない。
次のショット。こうして両名の査問が始まった。以降査問は23日と24日の両日にわたって行なわれることになる。注意すべきは、取り調べ状況が第一日目と二日目では大きく様変わりしていくことになり、第一日目は比較的「大泉等に対して査問中暴行脅迫を加えたことは間違い有りません。大泉に対しても又小畑に対してもあまり
ひどい事はせず」(袴田14回調書)散発的に暴力が振るわれる程度で比較的大人しく推移したと言う。ところが、打ち合わせのないままに第一日目の深夜も査問が続行された模様であり、二日目の査問では「前日より厳しく追及し、従ってそれが為に暴行脅迫の程度も前日に増しておりました」(袴田14回調書)という具合にかなり激しくなされたようである。ただし、ここのところの区別について大泉の調書では明瞭でなく、当初より「殴られたり蹴られたり手荒い事をされたために意識を失ったとか包丁で腹を切られたとか申しておりますがそれなんかは全くのデタラメであります」(袴田18回調書)という袴田氏の言い分と整合しない。
注意すべきは、「逸見を除く3人は最初から大泉・小畑両名のスパイなりと確信してから決行したのであります」(袴田10回調書)というように、査問に向かう逸見と他の3名の間には姿勢の違いがあったことである。更に注意すべきは、概要「最初から彼らを殺すと云う事を目的として査問した訳ではない」、「査問委員たる4名はそんな極端な考えは持っておりませんでした」(袴田13回調書)が、予審判事により、木島をリーダーとする警備隊の中には当初から殺害意思があったのではないかと訊ねられた際に「木島或いはその他の者の中には、いやしくも中央委員たる者がスパイである事が判ればこれに対し私刑を以て臨まねばならないと云う極端な考えを持っていたかも知れません」(袴田13回調書)と陳述していることである。つまり、部下の責任においていつでも殺させる事が出来る体制を敷いていたということになる。なお、査問後の二人の処置について「(査問打ち合わせのどの時点においても)査問の結果スパイたる事実が確定すれば彼らを殺すとかどうするとか云うことは論議しませんでした」(袴田10回調書)とも陳述している。おおよそ、査問する側の無責任無能力ふざけぶりを語っているではないか。この査問中ピストルで脅しながら訊問したかどうかは不明である。袴田は、査問中床の間付近に置いてあったと証言している。「ピストルは大泉・小畑両名に威嚇の為とアジトが警官等に襲撃された場合のアジト並びに同志の防衛の為に用意し、出刃包丁等は右両名に対する威嚇の為でした」(袴田13回調書)とある。
さらに興味深い陳述がなされている。予審判事の査問中大泉・小畑両名に食事を与えたのかという訊問に対して、「与えなかったように思います」(袴田14回調書)と答えている。何とも無惨無慈悲なことをしてくれるではないか。用足しの記述もない。大泉が押入に小便を二度漏らしたというぐらいで小畑については記述がない。
更に重大な陳述がなされている。「前回小畑の査問中彼の頭にオーバーが被せて無かった様に述べたが、それは誤りで大泉には被せなかったが、小畑には被せたまま査問したのです」(袴田3回公判調書)という陳述が為されている。これは、第3回公判冒頭での「前回まで被告人が述べた事につき訂正する点は無いか」という判事の定例の問いに対して袴田が訂正をなしたものである。袴田にとっては何の益もない訂正であるからこの証言は恐らく事実と思われる。既に何度も指摘しているが、この陳述はこのたびの査問が小畑にこそ主眼が向けられていたということの裏付けになるであろう。ただし、この陳述を精査していくと、小畑には途中からオーバーが被せられ通しであったということと大泉の場合スパイを自認してからは除されていたというのが実際のようである。