次のショット。「小畑・大泉を順次束縛した後、宮本顕治が査問委員長の格で、これを逸見や私が補助し、秋笹が査問の書記局を勤めることにして先ず小畑から査問を開始することになりました」(袴田11回調書)。小畑の方から査問するということあらかじめ決められていたようである。ただし、宮本氏によれば「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」(宮本4回公判調書)と陳述されているようである(私には、このたびの査問が小畑にこそ向けられていたことを隠蔽しようとする偽証のように思われる)。査問が開始されたのは、午前11時過ぎ頃から12時頃までの間であった(逸見の調書によると午後1時頃となっている)。「この小畑の査問中は同人の両手を後ろに廻し針金と縄で縛りたるままにて実行したるものなり」(逸見調書)。「彼らが査問を破壊する行動に出るかも知れぬので、査問を平和裡に行うには仕方ない」(宮本4回公判調書)ことだったようである。押入から小畑が引き出され、替わりに大泉が押入に入れられた。こうして査問が始められた。小畑を取り囲むようにして車座になった。まず、宮本が、小畑に対して「これからお前をスパイとして査問を開始する」旨を言い渡した。小畑は、「よく調べてくれ」と素直に応えた。「へき頭宮本は、小畑に対し、『君たちの査問はもっと早くやる筈であったが、延び延びになって今日からやることになった。今度は1週間くらい監禁して徹底的に調べるからそのつもりでおれ。今度は君たちばかりでなく他にも数名同様に査問を進めて居るからデタラメな事を云っても直ぐ判るぞ』と嚇し、袴田は『何遍も同じ事は聞かないから嘘を云って後で取り消す様な事があると承知しない』と云って訊問に入りたり」(逸見調書)とある。この時の袴田の感想によれば、要約「いやしくも党の中央委員がスパイ嫌疑の下に査問されようとしているのだからこれを重大な侮辱と受け止め、反抗的態度を取るべきところに拘わらず却って我々の機嫌をなるだけ損ねまいとする態度を装ったのでますますスパイの嫌疑を深めた」(袴田11回調書)ようである。先に小畑を捕捉した際に「大きな声を出すな、決して得策ではない」と言い聞かせていたことを考えるとなにをかいわんやではないか。
さて、いよいよ査問に入った。宮本4回公判調書によれば、「身上関係、家賃三ヶ月の滞納の件、連絡関係、闘争履歴、入党事情などを質したるあと、前述の嫌疑事項で申し述べた事項に関し、逐次尋問したところ云々」とある。こうして査問側はあらかじめ打ち合わせてあった不審嫌疑事項に基づき小畑を一問一答式に訊問していったところ、小畑は訊ねられたところだけを簡潔に述べたという。事項の一つ一つは「日本共産党の研究三50P」を参照されたし。要するに査問者側の口車には容易には乗せられなかったということになろう。この間小畑は、誤解を招いた諸点については「悪かったと謝罪」している。次に直接的なスパイ嫌疑事項に関して訊問がなされていった。この時小畑は「答弁が曖昧」で「曖昧な言辞を弄して我々の満足する様な返答が出来ず」、「そんな行動をとったことは非党員的で悪かったと申しておりました」(袴田11回調書)。興味深いことは、「党内に於けるインテリ分子と労働者出身との離間策を盛んに行ったこと、例えば、自分が労働者出身たることを吹聴し、野呂・宮本等インテリ分子を故意に悪評して、聞く者をしてインテリを蔑視せしむるが如き態度を執った」理由について訊ねたところ、小畑は「自分を故意に偉く見せようとして宮本等をけなし、それによって離間策を行おうとしたのではないが、そういう事実があったとすれば、それは非同志的行動で悪かったと謝罪」(袴田11回調書)したとのことである。語るに落ちる話であって、小畑と宮本との党内対立があったことを如実に物語っていよう。続いて、更に興味深い訊問がなされている。査問側は、小畑が野呂の後がまを狙って野呂を官憲に売ったのではないかと追及したようであるが、これに対し小畑は、そういう事実はなく、ただし通称「馬」を上海に独断で派遣した事実について「党として重要な仕事を他の中央部員にも相談せず、独断で行った事は誤りであると云って陳謝しました」(袴田11回調書)という。これも語るに落ちる話であって、野呂の後がまを狙って官憲に売ったという意識の醸成側こそそういうことをやらかす可能性があるように思われる。
この時の訊問かこの後の再査問の時かまでは判然とさせられないが次のような事項のやり取りがなされたようである。昭和8年に大阪出張を命ぜられたにも関わらず出張していない事実を質された際には、小畑は、様々な口実を述べた後で「結局涙を流して実は郷里の母に会いに行ったと申しました」(袴田11回調書)。「かような重大な使命を与えられながらそれを遂行しないのがスパイ的行為ではないかと云ってこの時は一同から拳固で散々殴られました」(袴田2回公判調書)。次々と「手厳しい査問の結果」、小畑は、「めそめそ泣いておりますので、『大の男が何を泣くのだ』と云いながらなおも追及すると、自分は党員としての訓練が足りなかったので申し訳ないと云って云々」(袴田2回公判調書)、あるいは又「自分が政治的水準が低いのと能力が無い為客観的には自分が従来やって来た言動は反党的非ボルシェビキー的で客観的にはプロパカートル(超スパイ)であることは自認しましたが決して意識的なスパイではないと弁明しました」。組織部長を逸見に押しつけ自分は財政部長になったことを訊ねると「別に他意はない」、万世橋署に検挙されて後容易に釈放されたことに対しては「転向を誓って許された」と弁明したようである。大体以上の様な経過で1時間ばかり取り調べられた。こうして査問側と被査問側の息詰まる応酬がなされたが、小畑がいろいろ釈明して決定的なスパイ告白はしなかったことになる。この査問は、「この間宮本が主として訊尋したのですが、予め手筈が定めてあったわけではなく、他の者も各自思い思いに訊問したのであります」(袴田2回公判調書)とある。ちなみに、宮本は以上のような経過を自己流に次のように纏めている。「(小畑)の答えはだいたい大泉と同様で、党が破壊された被害に関係はない。スパイを推薦したことは、自分の政治的無能力によるものである。要するにスパイといわれても仕方ないといい、なお大阪行きの件はいろいろ弁明したが、結局その時は郷里へ帰ったことが判り、また初め宿所は相当替えている居るといっていたが、一年間も同一場所に住んでいた事実が判明した」(宮本4回公判調書)。つまり、党内対立の様子を窺わせる部分をさっぱり欠落させている。何と恣意的な語りであろうか。この時の小畑の態度を要約すれば次のような様子であったようである。小畑の不審行動の詮索が始められ、謀議されていた一つ一つ過去の行動に対して詰問が始まった。何時のあのとき何をしたか、あれは党規違反である。自己批判せよ的調子でめいめいから罵声が浴びせられた。次第にスパイであることを認めよと激高していくことになった。しかし、小畑の答えは自己の非は認めるもののスパイであるということについては強く否定し続けた。つまり、査問側からすればらちがあかなかった。
次のショット。「これ以上の訊問はらちがあかず、ここで一応小畑に対する査問を打ち切り、同人を束縛のまま押入に入れ、代わって大泉を押入から出して小畑同様な順で査問を開始しました」(袴田11回調書)。「同人も同様針金縄等を以て手足を縛りたるまま訊問したり。大泉の訊問中木島が来たり爾後同人も査問に参加するに至りたり」(逸見調書)。ところで、査問テロはなかったと主張する者は、査問時のこうした小畑・大泉の捕縛状況についても否定するのだろうか。ここまではおおよそその通りであったかもしれないとしているのだろうかにつきはっきりして貰いたい。それとも何か、繰り返すがこのたびの査問はお互いにテーブルを挟んで査問会議の形式で行われたとでもいうのであろうか。
大泉の嫌疑事項には小畑のそれとの大きな違いがあることに気づかされる。その一つは、「中央委員ともある者が自分の連絡を一々手帖に記載しておかなければ覚えておらないと云う事は党員の資格のないことであり、又スパイの証拠ではないか」と訊問されていることである。逆に推測すれば、小畑にはこのようなお粗末さは見られなかったということになる。これに対して、大泉は、「自分は頭が悪いから一々書かないと活動が出来ない」と答えた。「更に連絡相手のペンネーム、連絡場所、時間等を巨細に書いてあるのはどういう訳かと追及すると、彼は返答に窮して只謝罪するばかりでした」(袴田11回調書)。又、嫌疑事項に対する返答においても小畑とは違いが見られた。「客観的にはスパイ的行動で誠に済まなかったと陳謝しました」、「具体的事実について質問すると彼は答弁もしどろもどろ」、「答弁に窮し只陳謝するばかりで辻褄の合った返答も出来ず、この査問を通じて大泉の態度は小畑以上に迎合的であり、また追従的であり、なるだけ寛大な処分をして貰いたいと見える様な哀願的醜態でありました」(袴田11回調書)。「この大泉の査問中木島が二階に上がってきて査問を聞いておりましたが、時たま大泉が返答に窮したときには、『この野郎』と云って、大泉を殴ったり側から口を出したりしていました」(袴田11回調書)。この間大泉・小畑の査問のいずれかの際にか両方の際にか不明である
が、「脅したり、頭、顔、胸等を査問委員の者が平手或いは手拳を以て殴ったり又は足で蹴ったりしました。木島も時々脅し文句を言ったりしてゴツンゴツン大泉・小畑を殴ったりして居りました」(袴田14回調書)と陳述されている。つまり、本来、木島は警備隊の役割で参加しており、このたびの査問委員では無かったにも関わらず、いつの間にか特攻隊的な役目で暴力リード係をつとめていたことが伺える。
この時の査問の様子は次のようであったと大泉は陳述している。概要「目隠し猿ぐつわのまま、宮本が主となって査問が始められました。金の出所の説明、党員除名の承認、スパイ行為の承認、ハウスキーパーの詮議が為された。彼らは査問すると云うより私に発言の機会を与えず計画的に私をスパイだと云って拷問するのであります。訊問事項を訊ねる度に主として宮本・木島・袴田が私を殴ったり蹴ったりします。私は苦しいのでただ首を頷いたり横に振ったりしたので彼らは一層私の態度を曖昧だと言ってテロを加えます」(大泉16回調書)。この後「遂に錐であったか斧の峯の方で私の口の辺りを殴った為に前歯一本・奥歯一本が折れ、又斧の峯で頭を殴られた為に血が私の顔を伝って落ちるのを覚えました。又私の背中を斧で殴られたので気絶したように思いますが判然しません」(大泉16回調書)と述べている。但し、歯が折れたという部分は他の者の陳述にはないのでこの部分前後の大泉の陳述の真偽が問題になる。査問の動き全体は査問当日直後は比較的おとなしく、(当夜と)翌日の午前からエスカレートしたというのが当事者のほぼ一致した陳述であり、この最初の査問時より殴る蹴る的査問が行なわれていたのかどうか判断が難しい。ただし、前歯と奥歯一本宛が折れていたというのであれば大泉の逮捕後の診断所見ではどうなっているのだろうかと見れば記述がない。私としては、大泉の査問風景の陳述は参考に留めることとする。かたや査問側4名、かたや被査問側1名の言い分であり、もう一人の当事者は死亡しているのでどうしても大泉一人の陳述は分が悪いということと大泉の陳述全体に前後の混乱が見受けられる部分があることによる。可能性の一つとしては、頭被せの例を見ても判るように主な暴行が小畑にこそ向けられていたことを隠蔽するための大泉の過剰陳述が考えられる。
次のショット。この間小畑と大泉の査問が交互に行われたようである。査問第一日目のこの時は小畑査問の時は大泉は押入に入れられ、大泉査問の時は小畑が入れられるという具合で交互に入れ替えられたようである。一体に言って、大泉はしどろもどろの答弁になり、小畑の場合は簡潔に受け答えがなされたようである。再査問の頃から査問側に次第にあせりと余裕が失われていき、「嘘を着くな」、「素直に白状しろ」の言辞を暴力的に行なっていくことになった。後ろから首を絞めるようにしながら「白状しろ」と迫ると、小畑は、苦しさからか「わかった。云うから待ってくれ」と応えたので緩め「では白状しろ」と迫ると、一見自分の非を認めながら、部分の非は認めても全体としてスパイではないと云う結論に辿り着く。査問側は業をにやした。理詰めでは小畑のスパイ性を明らかにすることが困難であったのである。この時の査問は平穏を基調にして行なわれたとはいうものの次のような陳述がなされている。ただし翌日にも同じようなことが行なわれているのでこの時のことかどうか不明であるが、「午後二時頃自分はタドンを火箸にて挟み、小畑の踵(かかと)の辺りに一回押しつけると小畑は慌てて足を引っ込めることあり」(秋笹13回調書)と述べられている。この様子は袴田によっても「秋笹は、小畑の足の甲辺りに火鉢の炭団(タドン)の火を持って来てくっつけました。すると小畑は『熱い、熱い』と云って足を蹴り上げました」(袴田14回調書)と陳述されている。「訊問中小畑の供述に前後撞着する如き場合には、『何故最初から本当のことを云わぬか』と難詰し、宮本・袴田・秋笹の3名は小畑を打ったりなぐったり蹴ったりし、又秋笹は『何故嘘を云うのか』と云いて薪割用の小さき斧にて頭をコツンと叩きたることあり」(逸見調書)。
次のショット。この時点の頃と思われるが憤りを覚えざるをえない次のような木島の調書がある。「暫くすると二階から宮本と秋笹が降りてきた。宮本は立ちながら両手を洋服のズボンのポケットに突っ込んで私に対して、『ヤァご苦労だった』と云い、更に言葉を続けて『未だ奴らはスパイとして本音は吐かないが奴らのスパイである事は疑いない事実である。何しろ愉快なことがある。今朝まで彼奴らは我々に対して中央委員会は我が物顔で威張っており、物言い方などもまるで子供にでも対するような態度であったが、我々が彼らを家に連れ込むなり『党中央委員会としてお前達に嫌疑があるから今日査問を行うから神妙にせよ』と云ったところ、彼奴らはブルブル震えだし今朝までの横柄な態度は何処へやらまるで狼の前の羊の様な態度になり下がりへいへいして居った。スパイでなければかかる急変な態度にはならないものだ。その態度たるや実に愉快なものであった』と申して宮本は大笑いしました」(木島予審調書)。その他宮本が木島に、「とにかくこの査問会は党空前の画期的闘争だ。こんな素晴らしい闘争に君が労働者として参加できたことは実に光栄だよ」と言うので、木島は「光栄です」と答えたと言う。何と嫌らしい労働者のあしらい方だろう。同じ様な趣旨を秋笹も言い、木島は「力の限り党のために働きます」と答えた、という。そのうち宮本が、「どうだ君二回に上がって奴らのざまを見ないか、実に滑稽なものだよ」と言うので、木島は二人について二階に上がった。木島は目の前にいるスパイを見て興奮し、「この野郎太い野郎だ」と言って大泉を殴ったり蹴ったりした、とある。この時点からどうやら木島は査問に参加したようである。
次のショット。こうして査問していくうちに全員相談の結果両名の住居の捜査を行なう事に決定した。両名に住居の略図を書かせ、なお大泉にはハウスキーパーがいたため、同女に宛てた簡単な手紙を書かせた上、木島に命じて直ちに捜査に向かうよう指示した。手紙の文面は、概要「急に大阪に出発することになったから党関係の重要な書類や株券等を使いの者に持たせてよこして呉れ、なおお前も一緒に来る様に云々」というものであったようである。「出発に当たり宮本・秋笹より大泉の妻を同伴し来るべきことを注意せられたり。自分はスパイの家へ一人で行くは危険と思い加藤亮に同行を求め同人と二人にて云々」(木島予審調書)(加藤亮については突然触れられているので何者なのかよくは分からない)。こうして査問が続けられていくうちいつしか外はもう暗くなっていた。午後4時頃という陳述もあるが恐らく午後6時から7時頃であったようである。各査問者はそれぞれ連絡を持っていたため、一応両名の査問を打ち切ることにした。「かようにして両人の査問は午後4時頃終わったのでありますが、この間一同が平手或いは拳固で数回両人を殴りつけた事は事実ですが、器物で殴った様なことは一回もありません」(袴田2回公判調書)とある。この陳述はすでに見てきた様子と異なるが、私は袴田の責任回避の偽証とみなす。大泉・小畑両名を更に細引き・針金等で縛り直し、更に猿ぐつわ・目隠しを施して小畑を押入に入れ、大泉にも「再び私に目隠しを施してその上頭から何か被せて仕舞いました」(大泉16回調書)。そして、押入側の壁に背をもたせて放置し、特段の連絡を持っていなかった袴田が監視した。逸見・宮本が連絡のため査問アジトを出ていった。
次のショット。アジトを出た後のそれぞれの足取りは確認されていない。おかしな事だが予審判事が聞いていないようである。ただし、この時の逸見の大体の足取りは割れている。どうやら、逸見は、この査問の経過を信頼できる筋に報告に出向いていたようであり、当時農民組合の党フラク・キャップであった宮内勇に次のように査問の様子を伝えたとのことである。この経過の貴重な証言が残されている。なお、この宮内は、翌年袴田執行部に反旗を翻し、党中央は袴田等のスパイにより乗っ取られたと見て公然と「党内多数派」を結集する動きを見せていくことになる。それはさておき、この時逸見は、「大泉にくらべると小畑の方がどうも大物らしい。小畑は松村直系のスパイかも知れない。奴はなかなか口を割らないので査問に手こずっている。大泉はすぐペラペラ白状したところをみると案外小物かも知れぬ」と宮内に感想を伝えたとのことである。ところが、この査問の報告を聞きながら、宮内は次のように考えたと云う。「問題は、(査問側の云うような事が事実だとすれば)つかまったらすぐスパイに転向するような奴が安易に中央委員にのし上がることができたというそういう党の組織と人事のデタラメさである。スパイが中央委員になったのではなくて、中央委員がスパイになったとすればそのことの方がもっと問題だ」、「小畑達夫については、その人物乃至当時の状況判断からしてスパイであったかもしれないと思うが、さりとて彼をスパイであったと言い切る材料は私には全くない」。宮内のこの指摘は、なかなか的確で鋭く核心をついているように思える。
ところで、宮本のこの時の動きは本人が明らかにしていないようなので判らない。「私はちょっと外出して帰って」(宮本4回公判調書)と述べるにとどまっている。「ちょっと外出して」何をしたのか是非知りたいところだ。
次のショット。木島は指令を受けるや直ちに出かけた後1・2時間して帰ってきた。木島は、最初小畑のアジトへ行ったが、同人の部屋に入ると下宿先の主婦が非常に不審そうな態度をとるので落ち着いて捜査することが出来なかった。小畑のトランク等には全部鍵がかかっていたので開けて見るわけにも持ってくるわけにもいかなかった。査問時の受け答えもそうであるが、アジトの管理においても小畑の見事な模範的党員ぶりのみが自然伝わってくるように思う。他方、大泉の方はごく有り体であったらしく何事もなくトランク1つか二つ受け取ってきた。ハウスキーパー熊沢光子も連れてきて近所に待たせているとのことだった。木島の報告がなされた頃は既に午後9時半から10時頃であった模様で宮本・逸見が外出した後だったので、この報告に接したのは袴田と秋笹だけであった。袴田は秋笹と相談した上で、袴田と木島の二人で熊沢に会いに行った。約20分ほどかけて熊沢を取り調べた。「私は熊沢に対し、実は大泉はスパイの嫌疑で調べられていると云う事を告げると、同女は大変驚いた様子でただ『そーですか』と云いました」(袴田2回公判調書)。その後、袴田は、熊沢を査問アジトに連れていくよう木島に命令した。その後袴田は巣鴨の自分のアジトに帰ったという。ところで、袴田のこの時の足取りが追跡されていない。通常刑事事件であれば裏取りされるところのように思うが予審判事も尋ねていない。直接は関係ないがこういう部分も調べられるのが捜査の常ではないのだろうか。したがって本人が明かさない限り判らないが故人となってしまっては詮無いことである。