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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その4、23日当夜の査問再現ドラマ

1999/11/10 れんだいじ、40代、会社経営

 第三幕目のショット。袴田が査問場所を去った頃宮本が用を済まして帰ってきた。したがってアジトには宮本・秋笹・木島の3名が居合わせることになった。何とこの3名で深夜二時頃まで大泉・小畑の査問が続けられた形跡がある。「午後5時より林・金の両名を帰し、自分は宮本の勧めに依りその夜より査問に関与することと為りたり」(木島調書)とある。しかし、これが事実とすると、この3人の査問が行なわれたこと自体査問規律違反であったのではなかろうか。事は中央委員による他の中央委員の査問である。そういう重大性に鑑みて、このたびの査問は中央委員と同候補に限定して査問委員となしていたのではないのか。査問委員全員立ち会いの下でなされるべき重要なけじめが持たれるべきであり、恣意的になされることは大いなる越権であったのではないのか。特に宮本・袴田は、へいぜいよりこうした形式にはこたわる質の者であるが、こういう重大な事柄に対してそういう者が自らてんとして恥じざる規約違反するとは何ということだろう。あろうことか今日に至るも問題にされてさえいない。袴田は、「私は、同夜査問が続行されたという様なことは少しも知らなかったのであります」(袴田2回公判調書)と述べるだけで私は知らない関知しなかったで逃げている。
 この時の査問の様子は当事者4名がしゃべらない限り永久に不明となる。この時袴田がいないため詳細が伝えられていないが木島は次のように陳述している。「それより宮本・秋笹・自分にて大泉を査問したる結果、同人は『スパイとなりたる事情を一通り云うから命だけは助けてくれ』と前置きしてその事実を陳述したり。次いで宮本・秋笹は協議の結果熊沢を二階の三尺の押入内に入れて置くことに決定し同女をその押入に入れたり。この大泉の査問に当たっては宮本等は指や拳固にて同人をこづき、又宮本は『告白すれば命だけは助けてやる』云々と申し向けおりたるも蹴ったりなぐったりは致さざりき。その夜は午前2時頃に大泉の査問を中止し自分は二階にて小畑・大泉を監視して夜を明かしたり」(木島調書)とある。この陳述の不自然なところは、宮本が「蹴ったりなぐったりは致さざりき」とわざわざ取って付けたように強調して述べていることと、大泉の査問については語っているも小畑のそれには黙していることにある。翌日袴田・逸見がやって来たときの室内についての「雑然とした様子」と小畑が消耗しきった様子で座敷に放置されていた(大泉は押入に入れられていた)ことを勘案すれば、小畑に対しても査問がなされていたことが歴然としていたのではないのか。なのに語らないのは不自然ではないかと思う。
 ここで見落としてはならないことが少なくとも二つある。一つは、査問者の宮本は松山高校時代柔道の猛者であったということである。こういう者に素人の小畑が引きずり回されたらどういうダメージを受けるかという点である(私はそういうことがあったと推定している)。もう一つは、この後二人は査問疲れもあって休息と仮眠しているが、当然この間食事もしている。問題は、ここでも大泉・小畑には食事が与えられていないように思えることである。関係者のどの陳述からも食事を与えたという話が無い! 翌朝も査問が続けられるが、この間絶食させ続けるとどうなるか。ところで、査問テロはなかったと主張する者は、この当夜のかなり厳しい査問が行なわれたように思われる経過についても否定するのだろうか。宮本は何も語っていないので、宮本が言っていない以上何もなかったとここでも宮本の言うとおりに信じるのだろうか。それとも大泉に対してのみの査問がなされたとでも言うのだろうか。仮に両名への査問を肯定した場合には、逸見・袴田のいない席での査問は規定違反だとは思わないのだろうか。これらの点につきはっきりさせて貰いたい。
 なお、大泉の陳述には一貫性がないのでそのまま鵜呑みには出来ないがこの時の査問の様子について次のように述べている。この時大泉のれっきとしたスパイ性が暴かれたようである。大泉のアジトに行った際に「荷物が着いた直ぐ来い」と書かれている電報が発見され、これは毛利特高課長の呼び出し暗号であったので弁明がしどろもどろになったと云う。「元来、我々同志は皆それぞれ住所を隠しあっており、電報など打つ必要はない。従って、この電報の入ったこと自体が大問題で、この電報によって大泉がスパイであることの確証をつかんだのである」(宮本4回公判調書)。次に、中央委員として一番古株の大泉が保管しておくことになっていた党の重要書類が保管されていないことも追及された。その書類中党の組織内容即ちどの工場には誰々の党員が居ると云ったようなものがある筈のところ、この部分の書類を毛利特高課長に提出していたので欠損しており怪しまれることとなった。こういう言い逃れの効かない事実を突きつけられるに及び、大泉は、概要「逃げることもどうすることも出来ず絶体絶命に追い込まれ、もう駄目だと思いました。苦しさのあまり『実は自分は警視庁のスパイだ』と云うと、彼らは非常に喜び、私の猿ぐつわを外してくれ『如何なる手続きでスパイになったのか』と聞きました。私は、『共青の関係で検挙された際警視庁の宮下警部の要求に応じてスパイとなった。ただ大したことは やっていない』と答えました。次に、『スパイ網を明らかにせよ』と言い寄られ、日頃大泉-小畑派と目されている連中の具体的な名前が挙げられスパイではないかと追及された。私は、共産党の全組織即ち全協・全会・財政部全員を壊し、ここで再組織さすために意識的に嘘を言い、『君たちの疑っている者は皆スパイと云ってよかろう云々』と云ってやりました」と述べている。奇しくもここに、宮本等のスパイ摘発活動の照準が当時の党活動の最後の砦ともなっていた全協・全会・財政部に合わされていたことが知れることになる。大泉はこの査問が終わると再び猿ぐつわをはめられ押入に入れられた。こうした査問は午前2時頃まで続いたらしい。
 この時の様子について秋笹は次のように陳述している。「その夜は小畑、大泉の査問を継続して行いたるが、自分は主として同室内にて『赤旗』の印刷を為しおりたるも時々は出かけていって有り合わせたる物にて大泉をこ突いた様な記憶有り。その時大泉は手足を縛られ、部屋の中に座らせられたるが、査問中は頭巾を取って居たと思う。なお、宮本か誰かが硫酸のビンを栓をしたるまま振り回し『付けるぞ付けるぞ』と脅かしたるはかなり効果有りたり。なお、小畑の査問中大泉の頭にオーバー或いは洋服の如きものを覆せありたるが、その時大泉は『息が苦しいから頭の覆いを取ってくれ、命さえ助けてくれれば何でも云うよ』と申し、それよりスパイたる事実を陳述したり」(秋笹被告第二審判決文)。
 不自然なことは、こうして大泉の査問の様子は明かされているものの小畑に対するそれはいずれの調書にも語られていない。ではなかったのかというと、後述するように袴田と逸見は翌日の小畑の消耗しきった様子を明確に語っており、私もまたかなり手厳しい査問があったと見る。しかしここを書けば言い逃れの効かない宮本の直接的関与を示すことになるであろう。全体的に云って各予審調書並びに公判調書は不自然なまでに宮本の関与部分の記述を極力避けようとしているように見える。誘導尋問がなされたのはこのセンテンスにおいてであり、逆ではない。ここのところを踏まえないと論議が噛み合わなくなる。本筋から離れるのでこれ以上述べないが、特高と司法当局奥の院が介入しているのは如何にして宮本勢力を温存するかに傾注していることであったことを知るべきだろう。
 宮本の「小畑に関しては云々」の陳述があるにはあるが、この時の当夜の査問を語っているのか、前日の査問の時のことなのか、翌日の査問の時のことなのかごっちゃに不明にしたままに「居所問題、郷里へ帰ったこと、彼が万世橋署の高橋警部に活動写真をおごられた際、情報提供を約束し、その後金を貰い連絡をとっていたということ。小畑は大泉がスパイであるといい、大泉は小畑がスパイであると主張したことなどにより、同人がスパイたることもだいたい明らかになったのであるが、突如小畑の死という事件が起き、それ以上明瞭にすることが出来なかった」(宮本4回公判調書)と陳述している。つまり、当夜の査問についてまともに陳述していないということだ。
 ここで、宮本が手足のように使う木島について触れておく。当夜においても翌朝よりの「査問事件」においても切り込み特攻隊員として便利に使われた木島であるが、この後公判廷で述べた宮本氏の言いによれば、「元来彼は、政治的水準が低く、問題を根本的に把握出来ない男であり、かつ彼は単純で粗雑な性格である」、「結局木島は、基礎的な理論の把握がない」、「彼は党の方針は理解してない、又、機関紙も見ていない、昭和八年来、機関紙にスパイ挑発問題を、系統的組織的大衆的に処理するという事を発表してあるのに彼はそれを知らない」(「浩二99/11/10 13:55」を参照させて頂いた)とある。実際の木島氏の人となりは知らないが、宮本氏の対木島認識の根本は、この査問中も公判廷の際にも変わらないと思われるので、木島が如何にいいようにあしらわれ、使い捨てにされたかが判る。やがてそういう木島を小畑死亡直後に党中央委員候補に昇格させた様を伺うことになるが、ホント宮本氏ってどういう性格の人なんだろう。今時こういう人の使い方をするのはく同じ様な事件で捕まっている空中浮揚氏ぐらいしか見当がない。