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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その4、「査問事件」二日目当初の様子について再現ドラマ

1999/11/11 れんだいじ、40代、会社経営

 第四幕目のワンショット。ここは「日本共産党の研究三100P」を引用する。深夜の査問後宮本は階下に行って、徹夜で「赤旗」の原稿を書き、秋笹もちょっと原稿を書いてからアンカに入って仮眠をとった。午前7時頃原稿を書き終わった宮本が階下から上がってきた。秋笹も起き、皆で木俣が作った朝食を摂った。木島は前夜木俣が切っていた原紙の「赤旗」号外を印刷した。この12.24日付け号外は、大泉・小畑両名のスパイ摘発に成功したことと、その除名を伝える内容であったが、その原稿は事前に用意されていたもので、前夜の査問の結果を踏まえて書かれたものではない云々と書かれている。各調書資料をつきあわせるとそういう事になるのだろう。そうとすればひどすぎる。どういうことなんだ! 怒りを覚えざるをえない。
 次のショット。前夜の様子は翌24日の午前9時頃代々木八幡町停留場付近で袴田と木島とが連絡を取った際木島から大体の報告がなされたことにより間接的に袴田も知るところとなった。袴田伝聞によると、「それから二人で査問アジトへ行ったのですが、その途中同人から前夜宮本・秋笹・木島等が大泉・小畑の査問を実行した結果遂にスパイたる事実を自白するに至ったと云う報告を聞きました」(袴田2回公判調書)とある。
 袴田は、木島の報告を受けた後二人で査問アジトへ行った。階下には木俣がいた。この途中で、木島は袴田に次のように言ったという。「もしあの二人をやっつけるつもりなら、あなた方は大事の体だから行動隊の連中にやらしてくれとその連中が申し出ている」。これに対して、袴田は、「自分たちは今彼ら二人を殺す事を問題と しているのではないから君たちにそんな事を云う必要はないとたしなめました」(袴田12回調書)。「そんなことを君らが云う事はないではないかとたしなめると木島は何も云わず黙っていました」(袴田2回公判調書)とある。ただし、木島の調書によると、「左様なことを云ったのはこの時ではなく12月中旬に予定した第一回の査問が失敗に終わったその日の事である」と言っている。それが事実だとすると一層怪しからんことになる。もっとも「それは木島の考え違いです」(袴田2回公判調書)と再否定している。否定しないと、この度の査問が殺人を前提にしていたことになるのだから大変であろう。どちらの言うことが本当かは判らない。
 次のショット。こういうやり取りの後、袴田と木島は二階に上がって行った。上がってみると、概要「その8畳の部屋は乱雑に取り散らかされており、確か小畑だったと思いますが肌着とズボン下だけにされ、前日同様足首と両手を後手に縛られ、頭から大泉が来ていたオーバーを被せられ、その上を紐か何かぐるぐる巻きに縛られており、壁際に身体を折り曲げた様な格好でうなだれていた」(袴田12回調書)。前夜の相当激しい査問の後が歴然であり、そのことがうかがえる様子であった。「私は今し方木島から小畑がスパイだったと云う事を聞いたしする故、部屋に入るなり同人に近寄り拳固で同人の頭部を殴りつけてやりました」(袴田2回公判調書)。「その側に宮本と秋笹とが徹夜の査問で眼を充血させ、疲れた様子で寝転がって居りました」(袴田12回調書)。つまり、小畑は窮屈な姿勢で放置されており、宮本と秋笹は査問疲れで休息していたというのである。この時大泉は押入の中に居り、熊沢はその押入の仕切りの上のところに居た。
 次のショット。袴田と木島がやって来たのを知り、宮本と秋笹も起きあがり、前夜の査問の結果を報告した。「昨夜査問を続行したらかような事を自白したと云って要領を書き留めた紙片を見せられました」(袴田2回公判調書)。「それによると、大泉は未だ細目に亘っては具体的に述べないが、昭和八年九月共青の山本に売られてからスパイに為ったと自白し、小畑は大泉ほど具体的ではないが、大体スパイであったとのことを認めたということでした」。「何でも小畑は4.5年前万世橋警察署に検挙された際スパイなる約束をして釈放され、それ以来スパイになったとのだと云うような事であったと思います」、「大泉もまた今井に売られて以来スパイとなり、警視庁の宮下警部との連絡と毎月70円ずつ貰っていた事実を自白したと云うような報告だったと思います」(袴田2回公判調書)。
 次のショット。それからまもなく逸見もやって来た(袴田と逸見のどちらが後先か判明しないが一応この順序とする)。この時の逸見の印象は、「二階に上がりたるがその時の二階の様子は窓の所には全部黒い布を下げ、部屋の中は薄暗くなり居りたり」、「小畑は既に押入より引き出され、頭に黒布を覆い縛られ居りたるが、その場の様子から見て前晩小畑、大泉に対し相当手厳しい査問の行われたることを想像したり」(逸見調書)とある。逸見も同様の報告を受けた。この時の様子のこととして逸見の次のような供述がなされている。「翌日自分が再び秋笹宅に至りたる時秋笹より聞きたるところに依れば、自分が昨日秋笹方を去りたる後宮本・秋笹に依りて大泉の査問を継続し、その結果大泉が『スパイ』の嫌疑事実を自白したりとの事なりき」。「報告を受けた逸見は、大泉を拳固で殴りつけて居ったのを見ました」(袴田2回公判調書)。ここで興味深いことは、袴田は木島から報告を受け小畑を殴りつけ、逸見は秋笹から報告を受け大泉を殴りつけていることである。それぞれの立場がうかがえるようである。
 次のショット。こうして、全員が揃い査問が再開されることになった。午後10時頃であった。この査問開始の時より木島が部屋を出たり入ったりするようになったと陳述されているものもあるが、第一日目においてもすでに木島の暴力的行動が明らかにされていることを考えると第一日目は時たまこの二日目からは主として入り浸りで査問に参加していたというのが実際であったのではなかろうか。当初取り決めた査問の目的とか査問委員の選定とかがいかに建前に過ぎなかったかが知れるであろう。なお、この時の査問中秋笹は「赤旗」の原稿を作ることが忙しく、合間合間に査問に加わったようである。査問の経過を「赤旗」に発表することは前から予定されていたようである。この二日目からの査問が激しさを増したことは既述通りである。この日も先ず、小畑から査問が開始された。この時までの小畑のスパイ疑惑は「(小畑の謝罪は査問者側の)意に満たざりし為――前記の手段による暴行のほか云々」(秋笹被告事件第二審判決文)とあるように、ここまで小畑は頑強にスパイ容疑を否認し続けていたと考えるのが相当と思われる。小畑が査問される間大泉が押入に入れられた。
 この時の査問の様子は逸見によって次のように陳述されている。「始めのうちは各自思い思いに小畑に向いて『白状しろ』の一点張りにて詰問し、袴田は撲りつけなと致したり。宮本は『警察の拷問はこんなものではない』と威嚇し、木島は(少々意味不明であるが――私の注)『明日になれば俺達の運命もこういう風になるのだ。自白さえすれば生命は助けるから云ってしまえ』と申したるところ、小畑は『いっそひと思いに殺してくれ』と叫びたり。秋笹は『共産主義者は嘘は云わぬから助けると云ったら助けるから云ってしまえ』と申したり。自分も小畑を二、三回蹴飛ばしたり」。なおこの時のことと思われるが「その時私がやかんの水をこれは硫酸だと云って脅しながら、小畑の腹の上に振り掛けますと、同人は本当の硫酸をかけられたと感じて手で水を除けようとしました」(袴田14回調書)というようなことも行なわれたようである。
 次のショット。こういう査問が一時間ほど続けられると大泉に替わり、これが交互に2回ずつなされたようである。この時の査問は一々具体的な問題について追及した。両名共通に追及されたことは、1.何時からスパイになったか。2.警視庁との連絡関係。3.現在組織内にいるスパイは誰々であるか。4.警察のスパイ政策に関する方針、5.スパイとしての具体的事実及び将来の方針、の5項目であった。これらの訊問に対し、大泉は、ほぼ全面的にスパイを認めた上で詳細内容を語っている。その態度は、「我々の機嫌を取り、なるべく穏便な処分に出て貰おうとして極めて卑屈な哀願的な態度を採っておりました」(袴田12回調書)という風であった。ここで興味深い陳述がなされている。「私たちの様子がどの程度警察に判っているかと云って各自が質問すると、宮本、秋笹はすっかり知れている。逸見は本名は知れないが大体の事は判っていると答え、私のことについては、私が東京市委員に居ることやその他の行動も判っている」(袴田12回調書)とある。「宮本、秋笹はすっかり知れている」とはどういうことだろう。私は本当ではなかったかと推測している。
 他方、小畑は、過去の行動の部分的誤りは認めたがスパイであることを断固として認めなかった。嫌疑事項であった「昭和8年2月の全協中央部の検挙には全然関係がなかったと言い張りました」という風に大泉とは対照的な対応を見せた。組織内潜入スパイについても大泉は語り、小畑は寡黙に答えなかった。
 次のショット。こうして査問が続けられるうちに次第に暴行がエスカレートしていったようである。「同日午後1時頃より査問経過中に於いて自分の知れる限り最も残酷なる査問が行われたり」(逸見調書)とある。「自分はこの査問に当たりては、宮本等が自分に加えたる暴行の種類程度より観ても自分の殺されるはただ時間の問題だと思いたり」(大泉16回調書)。この間の査問者の暴行が次のように供述されている。「『コラッ本当のことを云わぬか』と云って」(袴田2回公判調書)「秋笹が用意してあった斧の背中で大泉の頭をゴツンと殴ると同人が頭から血が出た事を見受けました」(袴田14回調書)。大泉の頭から血が流れ、顔へ2・3滴血が流れたようである。「又誰かが錐の尖端で大泉の臍の上の方をこずきましたら、大泉は痛いと云って悲鳴を挙げておりました」(袴田14回調書)。その全体的印象は、「我々の査問の態度が真剣で、具体的事実についての取り調べが極めて峻烈であったので、大泉・小畑は相当な恐怖を感じ、生命の危険を感じたかも知れません」(袴田14回調書)という程のものであったということである。この査問中は頭被せを取り査問が終わるとまた被せたようであるが大泉に限りのようである。
 「先ず宮本・袴田・木島秋笹が小畑の周囲を取り巻きガヤガヤ申して威嚇し居りたるところ、秋笹が小鉢の火を挟み来たりたる故自分はこれはやるんだなーと思い立ち上がり小畑の側に行きたり。この時足を投げ出して座り居りたる小畑の体を肩の付近を動かない様に宮本が押さえ付け、両脇には袴田と木島とが居りたるが、秋笹は火を小畑の両足の甲に載せたところ小畑は『熱い』と叫んで足を跳ねると火は付近に散乱して畳を焦がしたり。この間『どうだ白状するか、云うか』と云いて一同にて小畑を責めたり」。続いてと思われるが、「(先の袴田の行動)に暗示を得てたぶん木島であったと思いますが、真物の硫酸を持って来て小畑の腹の上にかけました。すると段々硫酸がしみこんでくると見えて痛がって居りました」(袴田14回調書)。ここの部分は逸見によるともっと具体的凄惨に陳述されている。「小畑を長く寝かせて押さえ付け、木島が小畑の胸部のところを掻き分けて腹部を露出し硫酸のビンを押しつけ『ソラ硫酸を付けたぞ、流れるぞ』と云いて嚇かしたり。袴田は小畑の洋服のズボンを外してその股ひきを露出し更に一同にて押さえ付けて締め付けたり撲ったりすると、小畑は『云うから待ってくれ』と申したので一同手を離して聞き込むと、更にまとまった事を云わぬ故一同にて虐めると云う風に致したり。又この間木島は硫酸のビンの栓を外し小畑の下腹部に硫酸をタラタラと垂らし硫酸の付着した る部分は直ぐ一寸巾くらいに赤くなり少しすると熱くなったと見え小畑は悶え始めたり。小畑はこの拷問威嚇に会い非常に疲労したるを以て一時小畑の査問を中止し自分と袴田の二人にて大泉の査問に取りかかりたり」。
 ところで、査問テロはなかったと主張する者は、ここの部分の記述全体が偽証であるとしているようである。警察の取調目録に硫酸の瓶とか錐とかの物証が記録されていないこととか小畑の検死上証明出来ないとかを根拠にしているようである。私は、それまでの記述との整合性から見て実際に行われたと見ている。この後で確認することが出来るが物証のいくつかは後始末されたと陳述されているし、小畑の検死は死後20日を経過していることとか、追って述べる検死調書の内容などからそう推測している。逸見の場合、これらの陳述によって誰それを有利にするとかの偽証を敢えて拵えねばならない必然性が見あたらないからである。水掛け論になる点であるが、否定派の方はこの点を否定するならば逆にどこまでを真相とするのか基準を明らかにして貰いたい、と思う。調書全体を否定するなら、あたかもテーブル越しの査問会議であったという線まで後退させねば不自然になるのではなかろうか。これらの点につきはっきりさせて貰いたい。
 次のショット。この間片方が査問されるときには他方が押入に入れられたが、何度か繰り返すうちに煩わしくなったのか両名居合わせで査問されるようになった模様である。あるいは内容によっての都合で成り行き上同時査問となったようである。その途中で、「大泉は小畑を、又小畑は大泉を互いにスパイだと云い争って居りました」(袴田12回調書)とある。この間熊沢光子は押入中段に何らの拘束なく入れられていた。彼女は査問中は静かに押し入れの中に居て少しも騒ぐ様なことはなかった。この熊沢の陳述調書が知りたいところであるが漏洩されていない。なお、検挙後獄中自殺を遂げることも追って見ていくことになる。
 二人が互いをスパイ呼ばわりし合うということも含めた「以上の収穫を得て、正午過ぎ頃一応査問を打ち切り、皆で替わり番こに食事を済ませたり、前夜からカットされていた原紙に依って同年12月24日付け赤旗号外を印刷したりしました」(袴田12回調書)。「時間も丁度正午頃になったので、昼食をしたり又前夜徹夜で査問した者は疲労してもいるので休憩しようと云うことになったのです」(袴田2回公判調書)。この文章で明らかになることは、「替わり番この食事」には被査問者両名の食事は与えられていないと云うことである。これで都合少なくとも4食分が抜かされたことになるが、査問側のこういう無神経さって何なんだろう。
 ここで「赤旗」号外刷りについて言及したい。被査問者のスパイ告白がなされると同時に「赤旗」号外で大々的な党内宣伝がもくまれることになったようである。「秋笹が赤旗の原稿を原紙に書いておりました」という袴田の公判陳述がある。つまり、この査問の最中に同じ部屋の中で秋笹がガリ版を切っていたということになる。ちなみに、「日本共産党の研究二72P」では、「赤旗」が活版印刷から謄写版印刷に後戻りして最初に出された「赤旗」が、大泉・小畑の査問と除名を伝える号外であったと明らかにしている。「外部の者から見ると非常に激越な調子の文句例えば断罪とか云う字句を用いてあります」(袴田13回調書)と陳述されている弾劾文が印刷されたようである。実際に12.24日付けの「赤旗」は号外として国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の署名付きで「革命的憤怒に依って大衆的に断罪せよ」なる題下に、「諸君!挑発者、スパイの全系統を摘発する為に執拗に追撃せよ!彼らの一切を階級的制裁、大衆的断罪に依って戦慄せしめよ!血と汗のプロレタリアートの闘争を破壊せんとする最も憎むべき彼ら裏切り者を革命的プロレタリアートの鉄拳に依って叩きのめせ!」なる激越字句をもっていわゆる党のためスパイ摘発をなしたことを伝えているとのことである。こんな元気は当局の方に向ければ良く(かっての)仲間内に向けるのは如何なもんだろう。宮本-袴田ラインの戦前戦後の共通項であるが、当局には至って恭順な二段階革命方式に基づく政権参加構想でソフトに関わろうとし、身内には激烈なる統制好き傾向が見られる。私が辟易するというのも無理からぬではないか。
 次のショット。この後、徹夜で査問していた宮本・秋笹・木島等は暫く睡眠をとることになり、行火(あんか)の置いてあるところで身体を横たえた。「誰が何処に寝ていたか判然しませんがともかく床の方を枕にして寝ていた事は間違いありませぬ」(袴田12回調書)。秋笹は、この休息の途中で「何時何の用事でか下に降りていた(袴田12回調書)とあるが、秋笹本人は「自分は用便のため階下に下り居るとまもなく二階にて云々」(秋笹被告第二審判決文)とあるからその通りであったのであろう。
 次のショット。宮本等が行火(あんか)に入って横たわった後、袴田と逸見の二人がなお細かな点について大泉の査問を続けることになった。この時小畑は部屋の中央部当たりの所に手足を細引きと針金で縛られ頭からオーバーを着せその上を何かで縛ったまま座らせられていた。大泉は肌着1枚にズボンをはいていた。そして足首と両手を後手に繋げるようにして細引きと針金で縛られ、背広の上着を頭から被せその上を紐か何かでぐるぐる巻きに縛られていたという。ただし、すでにスパイ自白後は大泉には頭被せしていなかったという陳述もあり、私はこの方が本当のように思うからこの時大泉は頭被せさせられていなかったと推測する。頭被せさせられていたというのは、この直後に起こる小畑死亡シーンの陳述を大泉にさせないためのトリックではないかと思っている。大泉は、この時失神していてよく判らないと陳述している。なぜなら、失神していなければ現認していることになり、詳細な目撃陳述が促されるからである。予審調書はこうした肝心なところでの不明さを操作しているように思われる。さて、この時の査問の様子は、「その時私と逸見が大泉に訊ねたことは、大泉が既に自白した事実に対する補足的な事柄でした。そして、その時には大泉は既に平静を取り戻して居たし、私たちも前の訊問の時の様に無理する様な事もなく静かに大泉の言を聞いていたのであります」(袴田12回調書)とある。