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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その4、「予審調書・公判調書の信頼性」について

1999/11/12 れんだいじ、40代、会社経営

 いよいよ「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマするところまできたが、ここら辺りで「予審調書・公判調書の信頼性」について再考してみたい。それらを如何に正確に読みとろうとしても、「予審調書・公判調書の信頼性」自体を否定し、あらかじめ結論ありきでこの事件に対する宮本氏の冤罪性を確信する者には役に立たないと気づいたからである。
 宮本氏は今日の日本共産党執行部の創立者であり、その宮本氏の党活動を否定することは現日本共産党の執行部の信頼性を損なわしめることになるのは致し方ない。そういう観点からであろうが、何とかして宮本氏の無実性に拘ろうとする気持ちは分かる。しかし、ここで考えてもみよう。当時の野呂執行部下の党内分裂状況にあって、宮本一派が小畑派を駆逐するにも一定の左翼的ルールというものがあるべきではなかったのか。当時党内が深くスパイによって汚染されていたにせよ、既に数少なくなっていた戦闘的党員を誰彼構わずスパイ呼ばわりして党内清掃に狂奔していたのは宮本一派ではなかったのか。この事実は隠蔽できないであろう。小畑派は、同じ現象を前にして、党内の信頼できる線を探りひたすらに構築しようとしていた。当時の戦闘的活動家に残された手段はそういう方法しかなかったのである。つまり、小畑派は、党内清掃に狂奔する宮本派の動きを苦々しく見ていたということになる。
 肝心なことは、宮本派のそういう動きが真に党を愛し、党活動の隆盛に向けてなされていたのなら単に方針の違いで済まされたであろうが、実際には当時の特高の狙いに相呼応するかのごとく内から党中央と全協の最終的解体に向けてスパイ摘発闘争が展開されていったということにある。事実、「査問事件」によりほぼ党中央は解体され、以降敷かれた宮本路線に沿って袴田執行部により全協つぶしにいそしまれることになった。これは史実であるから、嫌も応もなく銘々が調べればよい。くれぐれも「赤旗」だけを頼りにしてはならない。小畑は、実質的に見て戦前最後の労働畑出身の党中央委員であった。不運にもスパイの汚名を今日まで着せ続けられているが、この「査問事件」の査問経過によってもスパイであることが明らかにならぬまま、本人も強く否定したまま最後を遂げた。しかも警察権力の拷問によっでも無く内部の白色テロによって。「査問事件」にはこうした意味の重大性が今日尚まとわりついているのではないのか。この見方を否定するなら、今からでも遅くはない小畑のスパイ性を明らかにしなければならない。ここの詰めをなさずに今日まで経過して封印されていること自体異常なのではないのか、と思う。
 最大の争点は、宮本氏一人獄中で非転向を貫いたという神話に依拠した氏の権威をどう見るかになってくる。多くの党員が、宮本氏に対するそういう絶対評価から、あらゆる事実を宮本氏の無謬を引きだす方向に努力しているように見える。毎日毎日「赤旗」論調に慣らされるとそうなるのかも知れない。私は全く逆に見ている。なぜ、宮本氏一人が予審調書一つ取らせず、獄中12年を無事経過し得たのかと疑惑する。言うまでもないが宮本氏が虐殺されるべきだったというのではない、他の有名無名の活動家の多くが虐殺ないし仮死状態の拷問に追い込まれていた中で、なぜ宮本氏は持久戦に持ち込むことが出来たのかが判らないし、むしろ不自然であるということが言いたい訳だ。宮本氏の獄中下の様子についてもおいおい述べることになると思うが、中条百合子との往復書簡を見ても、その他同時期の獄中党員によっても宮本氏の獄中生活の奇異な様子が知らされることになる。この場合奇異とは豪奢なと言い換えてもよい。普通自分一人がぬくぬくと獄中におれるという神経は並ではない。
 それより何より、宮本氏の公判調書を見れば、自分は何一つ調書取らせずいて他の逸見・秋笹・袴田・大泉等のそれには存分に目を通して反論している様がうかがえる。弁論をいかにもっともらしくなしえたとしても、自分は手の内を晒さず相手の手の内を全部知ることが出来る宮本氏の状況こそ変ではないのか。遺体鑑定書もその他関連医学書も実に自由に閲覧していた風が知れる。他の逸見・秋笹・袴田・大泉等の訊問の様子からうかがえることは、食い違い箇所について、他の者の調書を予審判事が読み聞かせた上で陳述を催促されていることである。何と大きな違いであろうか。宮本氏の暗黒裁判、政治批判にせよ、それが当の「暗黒」法廷で滔々となされているという事自体変ではないのか。
 こういう観点から見れば、「査問事件」当時の査問状況も極めてオカシイ。なぜ、先輩格の中央委員ともあろう者を拉致監禁した上で査問せねばならなかったのか。なぜ普通に同志的議論でもって大泉・小畑氏に対して相対し得なかったのか。大泉・小畑氏らがそれまで他の同志達をリンチ査問する等凶暴であったというのならまぁ判らないでもない。事実は逆ではないのか。この点について、大泉公判に関連して証人として陳述した中央委員松尾茂樹は、昭和13年4.7日次のように述べている。「宮本等は、田井を全然知らない会ったこともないし且つ労働組合方面の知識は全くない男であります。それにも関わらず、単に三田村が云うたとか部会を開かなかったとか云うことを根拠としてスパイ呼ばわりするのは、彼らの軽挙極まるプチブル性を暴露したセクト的行動であります」、「宮本や秋笹の如きは、根も葉もないことを根拠として同志をスパイ呼ばわりする常習犯であります」、「なお、大泉.小畑の査問に際し、彼らが取った態度も私には全然不可解であります。すなわち、彼らの云うが如きスパイの理由が明白ならば、なぜ小畑だけを殺して弱点の多い大泉を残したのか甚だなっていない処置であります」、「しかも、後になって殺す心組はなかったと云うが如きは非常に卑怯な態度で、もしスパイであることが明らかならば、プロレタリア的断罪としてこれに犯罪をもって望むのが当然であります」、「小畑だけを殺したところに宮本等の意図を窺われるのであって、自己の政治的闘争相手たる小畑を倒し無能な大泉を故意に残したのであります」。偶然ながら、私はこの松尾氏の観点にほぼ全面的に近い。
 この時点では党籍上同志でもあり中央委員でもある査問相手を手縄・足縄・猿ぐつわにして食事を供せずという行為だけでも既に許されざる査問形式ではないのか。それがショック死であろうが心臓麻痺であろうが、それ以前においてさえ弁解不能の行為をしているのではないのか。恐らく後一、二日経緯しておれば実際に体力消耗的なショック死をさせられていたと思う。事実は、小畑は果敢に査問の罠から逃れようと格闘し、一身をあがなうことで今日貴重なメッセージを残すこととなった。恐らく小畑の最後の革命家魂がそうさせたのだと受け止めている。実際、こんな査問が許されるなら、私も含めて庶民大衆は党に近寄ることさえ憚ってしまうべきではないのか。単に除名する、一時拘束するというのが党中央の一致した見解だったなどと強弁するのはいい加減にして貰いたい。それが治安維持法下の特殊情勢で起こったことであるからという特殊事情理論も嘘臭い。治安維持法下の困難な最中であればこそ数少ない活動家はお互い大事にされねばならないのであるし、そういう最中を活動している者に対してスパイ容疑の査問をするのであればなおさらルールが必要であるのだし、ましてこのたびの査問において小畑のスパイ性は非明白にこそなりつつあったのではないのか。スパイであったとして(宮本は、この査問の過程で小畑の明白なスパイ性の根拠として高橋警部の存在を指摘し、小畑を手引きしていたと言い繕ったが、「日本共産党の研究」によれば、高橋警部なる者は所轄にも本庁にもいないということであるが)も、逸見が当初言っていたように党から放逐し連絡線を切ればよいのではないのか。小畑等が反党運動を起こす恐れあると危惧するという姿勢は、党の利益よりも宮本派のセクト的利益を上に置こうとする論理であり、何よりそういうスパイに攪乱される程当時の党員の意識が低いという認識を前提にしていることになり、全く失礼というものであろう。一体全体この宮本-袴田ラインの思考様式こそ一から問題にされねばならないところが多すぎるというのが私の考えである。
 この投稿文の最後に言っておきたいことは、この「査問事件」が反共攻撃に利用され続けるとするならば、これを問題にする方の不当性をなじるよりは、早急に全面的解明を行い党内的に総括しておく方向に向かおうとするのが尋常な思考態度ではないのかということである。
 肝心の「予審調書・公判調書の信頼性」について言及することを忘れてしまった。とりあえず法的には次のように理解するのが相当のようである。時間がないのでそのままお借りする。「スパイ挑発との闘争と私の態度(袴田里見)」(「赤旗」1976年6月10日付け)を拝借させて頂いた。「戦前の刑事訴訟手続きでは、警察の取調べの記録である聴取書をもとに 裁判所の予審がなされ、その予審調書を基礎に公判が進められた。また、裁判官人事も司法省が握るなど、事実上裁判の独立もなく、予審判事らは特高警察や思想検事の判断に依拠した。警察の聴取書は、一般的には、拷問、脅迫、長期の警察拘留による精神的肉体的衰弱につけこんで、被疑者や「共犯者」なるものに「自白」させ、それらをもとに警察が、どういう事件として送検するか、なにをその被疑者の「犯罪事実」とするかについての“構想”をまとめてから、それに合わせた尋問をして作られていく」、「裁判所の予審では、予審判事が聴取書をもとに尋問し、裁判所書記に調書を書かせていく。警察の取調べはもちろん、予審尋問でも、弁護人はつかず、「共犯者」なるものや証人を出席させて被告人からの反対尋問にさらすこともなく、予審判事が自分の都合に応じて、“だれそれはこういっているがどうか”といった質問をするだけである。当時は公判も、予審調書をもとに裁判長が被告人を尋問する形ですすめられ、被告人の陳述もどうしても予審調書によって制約される。その結果、特高が作った事件の構想にもとづく尋問の内容の記録が、訴訟全体の出発点となり、また、密室の審理である予審の調書が、決定的意味をもった。こういう密室の審理では、取調べ側の主張が全体の基調となり、取調べ側の主張の矛盾の追及とか被告人に有利な事実や主張の解明とかはほとんど不可能である。その暗黒性は、治安維持法裁判ではとくにはなはだしい。査問状況にかんする私の不正確な陳述は、警察の取調べや予審という密室の審理のもとで生まれたものである」。
 で、こういう刑事事件的なものについても暗黒政治的圧力が働き、つまりは「査問事件」関係者の調書もあてにならないというのが言いたいのだろう。しかし、痩せても枯れても予審判事は予審判事であり、独立性のかけらもなかったとみなすのは実際にはどうだったのだろう。司法の出先機関は警察とグルであり、予審判事は特高のシナリオ通りに下働きさせられるモルモット的存在に過ぎないということになるが、こうなると予審判事論の範疇になりそうなので法曹関係者により是非解明して貰いたいところだ。それと、「査問事件」の場合、当時の関係者全員がこちらも痩せても枯れても一応党の中央委員ないしその候補者たる者が聴取されたのであり、予審判事との(この陳述時には拷問はなかろうと思われるが)やり取りに全く没主体的に誘導されたとしたら、その方が問題ではないのか。同志かつ自らの党の中央委員たる者をそうは馬鹿扱いしない方がよいように思われるけど。そういう御都合論理を称して天に唾すると言わないのかなぁ。