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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その4、「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマ

1999/11/13 れんだいじ、40代、会社経営

 第五幕目、いよいよここから小畑死亡時の検証に入る。この死亡原因について、後日宮本氏は珍論を展開することになる。当事者の弁であるからむげに無視する訳にもいかない。以下の再現シーンで宮本氏の言い分の妥当性を検証してみたいと思う。ちなみに、宮本氏は、「第5回公判調書」で小畑の「遺体鑑定書」を読みとりながら次のように云っている。概要「鑑定人の云う如く『脳しんとう死』や『外傷性ショック死』ではない。なぜなら、それらの死因の構成要件である暴力や疲労や苦痛は存在しなかった」、概要「小畑の場合には、苦悶らしい声も出さず、逃亡さえ計画する余裕をもっていたのであり、査問は交互にやったので、押入にいる間は横になれて休息を得られたと思われ、著しい疲労困憊はありえない。また暴行脅迫をしたこともないから、それに基づく精神的苦痛もない。しいていえば、小畑はスパイたることを暴露されたので、それが苦痛であったと思われるくらいのものである」(こういうことを本気で言っているのか愚弄しているのかは判らないが正気の沙汰ではない)、概要「むしろ『体質性ショック死』ないしは『持病性心臓麻痺死』ではないかと推定し得る」、のみならず「また小畑の心臓に粟粒大の肥厚斑数個あるとの記載があるが、これは梅毒性体質の特徴で脳震盪類似の症状によって急死することがあると法医学者も説いている」と「梅毒死」の可能性さえ示唆した。日本共産党の50年来のトップにある者の言い様としては暫し黙しつつ頬をつねらざるをえないが、取り敢えず感情抜きにこういう言い分が妥当なものかどうか以下検証する。
 ワンショット。この大泉の査問の途中、袴田と逸見が大泉の方に気を取られているうちに「初めはどこかへ寄り掛かりたいと云う風に身体を引きずるようにして移動させておった様子だったが気にも留めずおると云々」(袴田2回公判調書)、「小畑は絶えず居座りながら動いて居たので、私はよく動く奴だと思いながら時々振り向いて同人の様子を見ておりました」(袴田12回調書)という具合に小畑の身体の揺れと室内移動が始まっていた。後で分かることであるが、この時小畑は指先で解いたのか査問用具が置かれていたところまでにじり寄って何らかの拍子に包丁を手に入れたのかどうかまでは判らないが、小畑は身をよじりながら手縄と腰縄をほどこうとしていたようである。足縄手縄を解いた小畑は次第に窓際の方に寄りつき逃げ出し格好を見せ始めていた。袴田は、「逃走の危険を感じ、彼を元の所へ引き戻そうとして立って行きますと、後方から見たときは未だ手も足も縛られている様に見えておりましたが、側へ寄って見ると既に手も足も縛ってあったものを切り、頭から被せてあったオーバーもその上を巻いてあった紐を緩めてありました」(袴田12回調書)。
 次のショット。いよいよここから小畑の急死事件が発生することになる。同時に小畑の無念の死が知らされることになろう。この時の様子について査問当事者が各々別々の様子を陳述しており一定しない。真相は「藪の中」に包まれている。最初に述べたように、私は次のように推論する。推論の根拠は、一定しない陳述の中で誰のそれが一番真実に近いものであるかをまず確定し、そこから他の者の陳述を参考にしながら補足するという方法に従った。なぜなら、意識的に予審調書が混乱を招くようリードしている面も想定しうるので、眼光紙背に徹して読みとることが必要であるからである。この時午後4時頃であったとされている。外が暗くなり始めていたので。「そこで私は、(逃走されては)大変だと思って(後方から)抱きしめるようにしてやにわに組み付き、座敷の中へ引き戻そうとすると、既に手足の自由になった小畑は私に(向き直って)自分から組み付いて来ると同時に『オー』と云う様な大声を張り上げました。そこで私もほとんど夢中で同人を引き戻し、略図のDの所へ一緒に倒れたのであります(袴田12回調書)。つまり、逃げだそうと行動を起こした小畑に袴田が組み付いたところ、小畑は袴田に立ち向かいながら更に逃げ出そうとしたので、そうはさせじと袴田は取り押さえ二人は同時に倒れたということになる。小畑の最後の戦闘力であったが、いかんせん既に消耗著しい体力はそれを許さなか った。
 次のショット。「その時私は仰向けに小畑は打ち伏して倒れたのでありますが、倒れた小畑の傍には逸見が座っており、またこの騒ぎに寝ていた宮本・木島の両名が起きあがって来ました」。「私は、逸見に『しっかり押さえろ』と云ったのですが」(袴田3回公判調書)、「その瞬間小畑が起きあがろうとしたので、木島はその両手で小畑の両足を掴んで又打ち伏せに倒し、宮本は、その片手で小畑の右腕を掴んで後ろへねじ上げ、その片膝を小畑の背中にかけて組み敷きました。逸見は、前から座っていた位置に倒れた拍子に小畑の頭が行ったので、その頭越しにすなわち小畑の頭に被せてあったオーバーの上から両手で小畑の喉を押さえて小畑が絶えず大声を張り上げて喚くので、その声を出させない為にその喉を締めました。その時私は、(起きあがり)小畑の腰のところを両手で押さえ付けて居たのであります」、「小畑は糞力を出して我々の押さえ付けている力を跳ね返そうとして極力努力したのであります」(袴田12回調書)。「かくして小畑を皆で押しつけている間小畑は絶えず大声を発して怒鳴っておりました」、「最初私と一緒に同人が倒れた時同人の頭部が逸見の座っている前に行ったので、逸見は、片手で小畑の首筋を上から押さえ付けて片手で小畑の頭を振りながら『声を出すな、出すな』と云っておりました」、「しかし、小畑は大声を出し死力を尽くして抵抗し我々が押さえ付けている手をはねのけ様としたが、我々もそれに対抗して全身の力で押さえ付けて居る中小畑は『ウウ-ッ』と一声強くあげたと思うと急に静かになったのであります。かようにして小畑と我々とは互いに全力を尽くして争って居る中、小畑は最後に大声を一声上げると共に身体から力が抜けて終わったのです」(袴田2回公判調書)。この点に関して、秋笹は次のように陳述している。この間「小畑の声を止める為、逸見が柔道の手で小畑の喉を締めたが、逸見が一旦手を緩めたから自分(袴田)が『モットヤレ、ヤレ』とそそのかすと、逸見は夢中になって又締めたので遂に小畑は落ちてしまったと(袴田が)秋笹に云ったことがある云々」(袴田3回公判調書)。この陳述通りだとすると、袴田は自分の教唆責任を問われると思ってか、「私は逸見に『しっかり押さえろ』と云うと逸見は俯向きになっている小畑の首筋を上から押さえ付けたのでありまして、決して喉を閉めたのではありませぬ」(袴田3回公判調書)と反論している。この袴田証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が主に腰と脚の部分を、逸見が頭と首ないし喉の部分を、木島は足の部分を、宮本は右手を掴んでねじ上げつつ背中側から組み敷いていたということになる。
 次のショット。「すると、喉をオーバーの上から締められたので苦しそうな声で呻いていた小畑が急に静かになりました。そこで皆が期せずして押さえ付けていた手を離し、極度の緊張が突然緩んだのでちょこっとの間ポカンとしておりました」(袴田12回調書)。夢中になって小畑を押さえ付けていたみんなが気が付いた時には、小畑は身動きしなくなっていた。この騒ぎの最中、小畑が押さえ付けられてぐったりなった頃、押入に入れられていた熊沢がたまらず飛び降りてきた。袴田は、「お前の親父じゃないから心配するな」と云うと、熊沢は、「それは知っているわよ」と云った。袴田は、直ぐ再び押入の中に追いやった。この経過は秋笹判決では次のように要領よく纏められている。「たまたま小畑が同日午後一、二時頃隙を窺い逃走を企つるや、その場に居合わせた袴田、逸見、宮本及び木島の4名は相応じて共に小畑を組み伏せ、尚も大声を発し死力を尽くして抵抗する同人を一同にて押さえつけて以てその逃走を防止せんとして互いに格闘し云々」(秋笹被告事件第二審判決文)。
 ここのところの逸見の陳述は次のようになっている。「自分と袴田の二人にて大泉の査問に取りかかりたるが、自分が夢中になって大泉の陳述を聞き居る時自分の横に居たる袴田が突然立ち上がり、後ろにいたる小畑の足に取り付き、その瞬間宮本は小畑のところに行き同人の背後より腕をねじ上げたり。自分も驚きて後を見ると小畑は三尺の壁のところより寄りかかる姿勢にて表通りに面する窓際より一尺くらい手前のところにおり、袴田は『この野郎逃げようとしたな』と云いつつ小畑の両足を押さえおりたり。そこで自分も小畑のところに行き宮本の横側より小畑の肩を押さえ付け、宮本と袴田に向かい『早く縛れ』と申したるも両名とも縛る様子はなかりき。宮本が小畑の手をねじ上げるや小畑は倒れて長く延びたるが非常な力にて抵抗し大声を発しおりたり。その時木島は行火の所より跳ね起き小畑の頸のところを押さえ付けたり。宮本が小畑の腕をねじ上げるに従い小畑の体は俯向きとなり『ウーウー』と外部に聞こえる如き声を発した故、自分は外套を同人の頭に掛けようとしていると、小畑は『オウ』と吠える如き声を立て全身に力を入れて反身になる様な格好をし直ぐグッタリとなりたり。自分が小畑の逃走せんとするを認めてより同人がグッタリする迄はわずか5分間あるいはそれ以内の短時間なりき」(逸見調書)。ここは暫くの沈黙を要する。逸見のこの言いによれば、「宮本と袴田に向かい『早く縛れ』と申したるも両名とも縛る様子はなかりき」のまま4名でよってたかって押さえつけていったということである。どういう意味になるのかお互いよく考えてみよう。急なことで冷静さを失っていたにせよ、既に押さえ込みは完了しているのであり、更に圧迫を加える必然性がどこにあったのか。突発性で思わず本音通りの行動へ宮本と袴田を誘導したのではなかったのか、と私は見る。なお、この逸見証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が両足に取り付き、逸見が横から肩の部分を、木島は頸の部分を、宮本は同人の背後より腕をねじ上げたていたということになる。袴田証言との食い違いはあるが、宮本の位置と行為については変わらない。
 ここのところの木島の陳述は次のようになっている。「自分は行火に入りて寝ておりたるところ、自分の足を誰かがつついたる如き感がして目をさまし見たるに、小畑の頭部の方に宮本が半腰になって丁度同人の股の下に小畑の頭部が入るような格好をして両手で小畑の首の辺りを押さえており、又袴田は、小畑の右側に居て同人の体を押さえ、逸見は、小畑の左側に居て同人の体を押さえおりたり。小畑は言葉では表現できない様な苦しそうな聞く者にとっては不気味な声を立てておりたり。右の如き有様にて自分は小畑の断末魔の悲鳴や宮本らの緊張したる様子に依り宮本等は小畑を殺すのではないかと関知したるを以て皆に『どうしたのですか』と聞きたるところ、袴田が『この野郎逃げようとしやがった』と云いたるより自分も一緒になって小畑の体を押さえ付け『黙れ黙れ』と申しおりたるに、小畑は前述した様な不気味な悲鳴を立てなくなって仕舞いたるにより同人の死亡したることを皆が直感し顔を見合わせいたるところへ秋笹が階下より上がり来たりたり云々」(木島調書)。この陳述も貴重である。木島の「皆に『どうしたのですか』と聞きたるところ袴田が『この野郎逃げようとしやがった』と云いたる」という状況からすればかなり間延びした時間があったことになる。小畑は一挙に圧死されたのではなく、4名の再確認の元に引き続き押さえ込まれることにより気絶させられていったのではないのかという ことになる。もっとも気絶ではなく致死に至らしめられたのではあるが。なお、この木島証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が小畑の右側にいて同人の体を押さえ、逸見は小畑の左側にいて同人の体を押さえ、木島も一緒になって小畑の体を押さえ付け、宮本は半腰になって丁度同人の股の下に小畑の頭部が入るような格好をして両手で小畑の首の辺りを押さえていたということになる。袴田証言、逸見証言との食い違いはあるが、宮本の位置と行為については変わらない。
 ここのところ78年(昭和53年)に至って除名された袴田が事件後45年目にしてその手記(「週刊新潮」78年2.2日号)の中で、「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた」事実を明らかにするとして新証言をしている。「小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重を乗せた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて『ウォ-』という小畑の断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本の締め上げに息が詰まり、遂に耐え得なくなったのである。小畑はグッタリとしてしまった」。「私は今まで、特高警察に対しても、予審廷においても、あるいは公判廷でも、自分の書いたものの中でも、この真実から何とか宮本を救おうと、いろいろな言い方をしてきた。この問題で宮本を助けるのが、あたかも私の使命であるかのように私は真実を口にしなかった。その結果、私も宮本も殺人罪には問われずに済んだのだ」。
 次のショット。「小畑がグッタリするや自分はその場に呆然として立ち宮本も木島も無言のまま立っており、袴田も小畑の足のほうに無言にて座りいたるところ」(逸見調書)、この騒々しさを階下で聞きつけた秋笹が階下から上がってきました。この時の様子は「用便の為階下に下り居ると間もなく二階にて小畑が大声にてわめき立つる声が聞こえ、次いでそれを取り鎮める為バタバタと非常に喧しき物音が聞こえ7、8分も経るや小畑が虎の吼える如き断末魔的叫び声を上げたと思うと後はひっそりとしたり。自分はただごとではないと思い2、3分の後用便を済ませて二階に上がり見ると云々」(秋笹調書)と陳述されている。秋笹は「どうしたんだ、どうしたんだ」と云いながら、側に寄ってきた。不自然な格好で静かになっている小畑を見て事態を読みとった。この有様を見て驚き「私たちに対して『殺してはまずいぞ』とか『殺すのは反対だ』とか云った様なことを口走り、非常に狼狽した様な様子でした」(袴田12回調書)。「『ここで殺すのは反対だ』とか『殺してはまずいぞ』とかいっておりました」(袴田2回公判調書)。秋笹は、「故意か不注意で殺した様に」なじり、「殺すことはなかった」と思わず叱責し、「殺してしまって仕様がないではないか」といつまでもくどくどと云った。他の者は皆、「関与しなかったからと云ってのんびりしたことを云うな」とムキになり、「殺す心組みで殺したのではないじゃないか。いつまでもそんなことを言ったって仕様がない」と云ってちょっと口論の様な形になった。ここのところ、宮本は「なぜだ」、木島は「殺したって良いではないか」、袴田自身は「殺したって良いではないか、生かすなら早くしないと駄目になる」と云ったようである。「日本共産党の研究三109P」によれば、宮本が、「今更何を云うのだ。妥協主義が悪いと云うことは野呂を例にとってさっき話したばかりじゃないか」と興奮し、二人は激論したが、逸見の仲裁でおさまったと書かれている。
 次のショット。こうして事件発生が明白となった。査問者一同は、しかし、本当に死んだのか、気絶しただけではないのか、再生するものならという思いでいろいろ手当した。「一時気絶して間もなく蘇生する」可能性を考え、秋笹が小畑の脈を取ってみたところ既に脈が切れていた。袴田は引き続き、「まごまごしていると駄目になると云いながら、床の間かどこかにあったやかんの水を持ってきて、小畑の頭から(顔や胸の辺りに)打ちかけました。しかしそれでも駄目でした」。「人工呼吸をやろう」と云うことになり秋笹が人工呼吸を試みた。「秋笹が小畑の体に乗って私が手真似で教えた方法で小畑の両手を上下に動かし、約15分間も続けましたが遂に蘇生しませんでした」(袴田12回調書)。宮本は「俺が活を入れる」と言って数回小畑の背部を叩き柔道の活を入れてみたが息を吹き返さなかった。ここでお互いが言っていることは、皆で取り押さえたのは事実であるが、自分自身の行為が直接死に至らしめたのではないという言い訳と、蘇生の努力をしたのは自分自身であるということを銘々が主張していると言うことである。
 なお、ここの部分「『生かすなら早くしないと駄目になるぞ』と云って人工呼吸をやったと云う様なことがあったのか」という予審判事の問いに対し、「小畑がぐったりなると同時に秋笹が上がってきたのであります。その刹那私たちは皆小畑が一時気絶したのだと思ってただポカンとしておりましたので、秋笹が上がって来ると同時に秋笹との間に色々問答があった訳ではありません。秋笹は先ず小畑の脈を取って見ました。すると脈がありませんので気絶したではないかと考え既に申し上げた様に秋笹に人工呼吸をやらせたり、水をうちかけたりしましたが、その効いなく死んだ事が判りましたのでそれから秋笹が愚痴のような事を申すので、同人と宮本、木島、私らの間に口争いが起こったことは事実ですが、私はその時にも『殺したって良いではないか』と云うような事は云ったことはありません」(袴田18回調書)と述べている。その理由として、「この査問中に起こった小畑の死は、その情況が未だ同人を殺害してまでも党指導部を防衛しなければならない程の情況ではりませんでした。従って、小畑が死んだのは最初から殺害の意見が有ってやった訳ではなく、同人が逃走を企てたのに対しこれを阻止すべく手段を講じた結果死に至らしめたのであります」(袴田「司法警察官の取り調べ供述」18回訊問調書)。予審判事が、この供述の真偽を確かめると、「その通りであります。要するに仮定論でありますが、党の指導部全体あるいはそれを構成する一員例えば宮本を生かす為に小畑を殺すほかに方法がないというような極めて逼迫した情勢の下に置かれた場合には、我々は指導部を防衛する為にスパイたる小畑を殺したでありましょうが、事実当時我々はそんな情勢の下には置かれて居りませんでした」(袴田18回調書)と陳述している。「宮本を生かす為に小畑を殺すほかに方法がない云々」とは少々意味深である。