以上の様子から考えると小畑の死因は様々に考えられる。少なくとも関係者の突発性対応による「致死」事件であることには相違ない。この経過からすれば、直接原因は、1.小畑の全力反発による「脳溢血死」か、2.逸見の手による「喉締め窒息死」か、3.宮本の背中からの「圧迫死」か、4.当事者全員による突発性対応型の「暴行致死」ないし「外傷性ショック死」かということになるであろう。5.当事者全員の暴行による「脳しんとう死」はもっとも考えにくいが、最初の「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」の可能性を中心に据えて詮議したことにより、不自然なことに小畑の死因は「脳しんとう死」でありや否やをめぐって争われることになった。「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」を鑑定結果した理由は、小畑の遺体発掘時の稿で少し詳しく触れようとは思うが、遺体に暴行的損傷が多々認められたことにより、小畑死亡時の具体的な様子を理解しないままに損傷の程度から判断して結論づけたものと思われる。これに対して、後で出される「古畑鑑定書」は小畑死亡時の具体的な様子を精細に理解した上で「外傷性ショック死」を鑑定することとなったという違いがある。
秋笹判決では次のように判断された。「小畑に対し、頭部、顔面、胸部、腹部、手足等に多数の皮下出血その他の傷害を負わしめ遂に同人をして前記監禁行為と相まって外傷性虚脱死(外傷性ショック死)によりその場に急死するに至らしめたるが云々」(秋笹被告事件第二審判決文)。宮本判決でもほぼ同様文が採用されている。ところが、宮本氏は、戦後になってこれらの原因説を一蹴して6.「異常体質性ショック死」という死人に口無し説を主張し始めた。この捉え方に近いものとして7.「自然死-心臓麻痺死」も出てくる。8.宮本氏が「梅毒死」の可能性にまで言及していたことは既に指摘したところである。以上小畑の死因については上記8説が考えられることになる。このうち宮本氏の6.7.8説は5説までと大きく性格を異にした大変不自然、狡猾な説ではあるが、当事者の弁明であるから無視することは出来ない。
とはいえ、宮本氏は戦前の公判陳述においては5説までの容疑を前提にして免責を争ったようである。戦前の「宮本公判判決文」(昭和19年12.5日)を見ると、宮本氏は「正当防衛説」と「党内問題説」(党内問題であり階級裁判にはなじまないとする説)を主張していた様がうかがえる。「正当防衛説」としては概要「被告人(宮本)は、大泉及び小畑は従前より著しく党内を攪乱し道徳的堕落を招来せしめつつありたる為、同人等のかかる急迫不正なる侵害に対しこれを防止せんとして、その自由を拘束したるものなるをもって右行為は正当防衛に該当し、不法監禁にあらざる旨主張すれども云々」とあるように主張していたようである。が、判決では「(これらを口実に-私の要約)これをもって被告人等の法律上保護せられたる法益を侵害する急迫不正の侵害行為なりと云うことを得ざると共に、被告人等の為したる監禁行為がやむを得ざる行為なりとは認め得ざるをもってこれを正当防衛なりと云うことを得ざるところなれば、右主張はこれを排斥す」として退けられている。「党内問題説」としては概要「被告人(宮本)は、大泉及び小畑の両名は党員にして党の規約決定に服従すべきことを承認しつつ『スパイ』活動を為さば、党規約により監禁査問を受くべきことは予め承諾しおりたるものと認むべきのみならず、本件査問開始に当たりても同人等は承諾したるものなればなんら右監禁行為は不法のものにあらず」と主張したようである。が、判決では「被告人の主張の如くたとえ大泉、小畑の両名が入党の際に党の規約決定に対する無条件服従を応諾したる事実有りとするも、これをもって違法性阻却原由となすを得ざるをもって被告人の右主張もまた採用するを得ず」として退けられている。
ところが、戦後になって宮本は、『月刊読売』(昭和21年3月号)に『赤色リンチ事件の真相』」という見出しの元に『スパイ挑発との闘争』を発表し、小畑の死因について、あれは『異常体質によるショック死』だったと発表するところとなった。概要「小畑の死因を、最初の『村上・宮永鑑定書』は、脳しんとうであるとしたが、事実かれが暴れ出した時、なにびとも脳しんとうを引き起こすような打撃を加えていないのである。そうして再鑑定による『古畑鑑定書』は、脳しんとうとみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと、むしろ『ショック死』(特異体質者が一般人にはこたえない軽微の刺激によっても急死する場合を法医学上、普通ショック死という)と推定すべきであるとした。そして、裁判所もついにこの事件を殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」と
主張した。
この主張の欺瞞性は、「再鑑定による『古畑鑑定書』が、『脳しんとう死説』を否定して(ここはまぁ合ってる-私の注)、むしろ『ショック死説』と推定すべきであるとした(ここが詐術である。注意深く単に『ショック死説』としている。-私の注)」と言う言い回しにある。実際に「古畑鑑定書」を読んでみたら判るが、古畑氏は「ショック死」の学問的解説はしているが、小畑の死因を「異常体質性ショック死」とは鑑定してはいない。追って小畑の遺体発掘時の稿で述べようと思っているが、様々な要因が複合した「外傷性ショック死」と鑑定しているというのが実際だ。宮本は、自己流の事件の経過を語った後、主に「脳しんとう死」を否定しながら(打撃を加えず押さえ込んだのが事実であるから、打撃性に依拠した「脳しんとう死」説を否定するのはたやすい)、他の窒息死、脳溢血死、圧迫死、暴行致死、外傷性ショック死の可能性について右同様である的に一括して一蹴し、あたかも「古畑鑑定書」がそう云っているかの如くな誤読を招くような言い回しで「異常体質性ショック死」か「心臓麻痺死」に誘導しようとした。本来は、もっとも蓋然性の高い「外傷性ショック死」こそが詮議されるべきであろう。「古畑鑑定書」もそのように鑑定している。その詮議をせずにもっとも蓋然性の低い説を否定することにより自身の主張する説に導こうとしている。こうなると、もはや我々は、この現場において、宮本のこうした「はぐらかし論法」が氏の最も得意とするやり方であることを怒りを込めて確認すべきであろう。他の著作に目を通しても思うことであるが、この「はぐらかし・すりかえ話法」と詭弁と折衷主義と「客観的あるいは大局的話法」が氏の常套話法であり、我々はこうした論法とはそろそろ決別しても良いのではないだろうか。私自身はもううんざりだ。こうして、今日においても小畑の死因は外傷性か窒息性か異常体質かをめぐって定かでないという世界に誘われうやむやにされるに至った。
話は変わるが、「リンチ共産党事件の思い出」の中で平野氏は貴重な証言をしている。昭和35年6.19日安保改定阻止闘争の最中、平野謙が手塚英孝(宮本の入党時の推薦人であるという同郷昵懇の文芸作家)と会った。その時のエピソードで、手塚が「査問事件」に関する作品発表をなそうとしていた事に関して、平野が「進んでいるか」と尋ねたところ、大要「実は宮本の検閲に引っかかりましてね。作品発表を見合わせました」(「リンチ共産党事件の思い出」68P)という返事がなされたことを明らかにしている。従って、手塚の5年後の発表作品「予審秘密通報」(文化評論.昭和40年12月号)は、宮本の検閲を通過した作品であることが逆に知れることになる。してみれば、袴田の著作「党とともに歩んで」のこの部分の記述も当然検閲通過させられていることが想像されることになる。ということは、いわずもがなではあるが、「党とともに歩んで」中の「査問事件」の記述もこのセンテンスで読まねばならないということだ。袴田が後日党と袂を分かったことを見てこれを正確視する向きもあるが随分曖昧化されていることを知っておくべきであろう。
ここで不思議なことがある。少々既述したが、大泉は一部始終目撃していたと思われるが、「再びテロを加えられた結果私は意識を失ったらしく私が意識を回復したのは翌日の夜の8.9時頃でした」(大泉16回調書)と述べて、小畑死亡時の陳述を意識的に避けている観がある。したがって、その前の大泉の被暴行陳述は、意識を失ったことのつじつまを合わせるための過剰作為が考えられることになる。それはともかくとして、袴田と秋笹他の調書では、小畑死亡は大泉査問中の出来事であるのだから、大泉がこの間失神していたというのはおかしい。なおかつこの時点では大泉の頭被せははずされていると読むのがリンチ事件の流れであり、そういうわけで私は、何らかの意図で陳述を避けているとみる。大泉は、小畑死亡時の様子について予審廷でも公判廷でもしゃべっていない。つまり小畑死亡時の現認陳述がない。これを更に考えると、そもそも予審廷において予審判事がその時の模様を突っ込んで聞いていないことになる。予審判事はなぜ大泉に問いたださなかったのだろうか。普通はありえないことである。補足すれば、大泉の最終調書になったと思われる短い第19回調書で「(これまで申し立てた事で訂正又は補充することはないかという予審判事の問いに対して)小畑の殺された前後の模様についてあるいは自分の感違いや記憶違いの為事実と相違したことを申しだてたかも知れませんが、とにかくあの際、意識朦朧とした状態で自分の見聞したことを申し立てたのでありますから、もし間違ったことがあってもご寛恕を願います。それ以外の点については別に申し上げ事はありません」と、わざわざこの部分に対して「事実と相違したことを申しだてたかも知れません」、「もし間違ったことがあってもご寛恕を願います」と強調していることが気になる。
私は次のように考えている。まだまだ明らかにされていない調書があるとは思うが、おおよそにおいては小畑の死亡経過はここに記したようなドラマ通りであったものと思うので、突発性対応型の暴行致死とみる。肝心な点は、「食事を給せずして監禁を継続」というこの間5食分食事が与えられていないことと、長時間査問による体力消耗の極致にあったところへ最後の死力を尽くして逃げ出しを図ったところを集団で押さえ込まれたことによる、「突発性急性疲労過労ショック性暴行致死」ではなかったかと思う。医学的に正式にはどう言うのであろうか。こういう場合、暴行のうち誰の暴行が決定的要因であったのかを特定することにどれだけ意味があるのかは判らないが、考えられるとすれば逸見による窒息死か宮本による圧殺死であるように思われる。ただし、逸見による窒息死の場合は、喉を締めたのか背中側の頸を締めたのかが多少問題となるがどうやら袴田の指摘する通り後者のようである。ということは、袴田の「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた」告白こそ真相を吐露しているのではないかということになる。
なお、既に言わずもがなであろうが、小畑に暴行が加えられていたことさえ否定しようとする見方が根強くあって議論されている。そういう方たちに参考までにお伝えしておくと、内務省警保局保安課刊行の極秘文書〈特高月報〉昭和9年1月分は、「小畑達夫惨殺事件」、「大泉・熊沢惨殺未遂事件」とタイトルを付けている。否定論者は、警察が意識的にフレームアップしようとしてこういう表題を付けていると窺うのであろうが、私の考えでは、これは内部通信でもある点を考えるとフレームアップ視は少々穿ちすぎではないかと思わせていただく。惨殺とまではいかないまでも結果的には暴行致死事件であったことは疑いないように思っている。
ところで、この査問による小畑の死亡が当時どのように伝えられていたかについての貴重な資料がある。昭和21年2.15日発行の人民社から出版された「日本革命運動小史」が刊行されている。この小冊子には、最後の方に宮本顕治らのリンチ事件が取り上げられていて、大要「党中央にスパイがいる事実が判明したため、自己防衛のために秘密裏に殺すことを取り決め、小畑達夫を殺害した」という意味のことが書かれており、これが当時の党員間での一般的な了解の仕方であったように思われる。ただし、これには後日談があり、同年4.23日アカハタで「党声明」として、「人民者発行『革命運動小史』/ゆるしえぬ誤謬/即時発売停止を要求す」という小見出しの記事を掲載した。宮本のイニシアチブによるものと推定できる。こうして、人民社は要請に応えて絶版にすることにしたという。結果として、宮本のイニシアチブは一出版社の生殺与奪に関与したことになる。が、実際には在庫品に修正の貼り紙をつけるという方法で改訂したようである。その改訂版では次のように記述された。「12月下旬、党中央部はスパイを査問に附した。スパイは罪状の逐一を白状したがその直後、スパイの一人が逃走を企て騒ぎはじめその男は突如死亡した。(後にこれは鑑定書によって法医学上ショック死であると推定された。委員達は公判に於て自然死-心臓麻痺との推定を主張し、あくまで鑑定を求めた。いづれにしろ階級裁判も殺害でないことは認めざるを得なかった)。だが警察はそれを発見するやデマをふり撒いた。新聞紙は〝リンチ事件〟〝共産党の殺人事件〟ときちがいのように叫んだ」。
もう一つここで触れておくことがある。逸見は予審調書で小畑死亡時の宮本の関与ぶりをあからさまに語ったが、戦後再会することになった逸見に見せた宮本の態度が次のようなものであったということである。「昭和21年、敗戦の翌年に、当時、岩波書店から刊行される予定であった野呂栄太郎全集の編集の仕事を私は手伝っていた。その編集委員の一人にリンチ事件の逸見重雄が居た。まもなく宮本顕治から強硬な異議が出て、彼は編集委員会から去った。逸見のような裏切り者を入れることは、野呂を冒涜するものだという宮本の申し入れによったのである。逸見は長い手紙を野呂未亡人に送って我々の前から姿を消した。私はまだ二十歳になるかならないかの学生だったが、宮本の強さにひどく胸をつかれたのを今に覚えている。逸見が逮捕されてすぐ屈服し、官憲の要求するような供述をすすんで行ったのが事実であったとしても、また、そのような人間が野呂の全集をつくるという仕事に相応しくないという宮本の主張が正当なものであるにしても、やはり少年の私には、かって野呂の秘書であり協働者であった、銀縁眼鏡の学者風の物静かな逸見が気の毒に思えてならなかった」(栗原幸夫「戦前日本共産党史の一帰結」)という貴重な証言がある。
もう一つ。宮本の異常体質性ショック死論法が特高の拷問死の発表の仕方とよく似ていることを確認しておこうと思う。「特高警察黒書124P」以下を参照した。党中央委員岩田義道は、1932.10.30日検挙され11.3日警察病院で絶命した。拷問死は歴然であったが、警察病院は「肺結核を患い、脚気衝心で死んだ」という死亡届を出した。記事解禁後の新聞報道も、「岩田は肺結核の上に脚気を患っており、逮捕以来連日暴れ狂ったのが原因」(東京日々新聞号外)と、警視庁特高課の発表そのまま書いている。著名なプロレタリア作家小林多喜二は、33.2.20日検挙され即日死亡したが、警視庁は心臓麻痺による急死と発表し、遺体の解剖さえ妨害した。事実は即日なぶり殺しの拷問死であった。毛利特高課長は、「調べてみると、決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げ回るうち、心臓に急変をきたしたもので、警察の処置に落ち度はなかった」と述べている。今日遺体写真が残っているので死因の真相について私が敢えてのべるまでもないが、おおよそ心臓麻痺説を単に信じる者はおめでたい人というべきであろう。宮本の「異常体質性ショック死」論がこの特高の口上と如何によく似ていることだろうか、と思う。宮本の言うことを真に受けるあたりのとこまではその人の勝手であろうが、それを人に吹聴するなどは余程の赤面士であることを自認していただかねばなるまい。