投稿する トップページ ヘルプ

「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その4.「小畑死亡」その後の経過について再現ドラマ

1999/11/16 れんだいじ、40代、会社経営

 第六幕目のワンショット。何となく査問の打ち切り模様になった。「小畑が死んだ刹那から私共はそれまで続いていた極度の厳粛な緊張感から一時に解放されてホットした気分となり、彼らに対する査問も一段落ついたと思ったのであります」(袴田16回調書)。この「ホットした気分」の考察に注意を要する。今回の査問の主目的が小畑の査問であり、大泉は刺身のつまのようなものであったことを証左しているのではなかろうか。そういうセンテンスでここを読みとる必要がある。単に小畑の死亡により当惑したというのではなく、「とうとうヤッテシマッタ」という気分があふれている雰囲気を読みとる方が正確と思われる。
 次のショット。「自分は狼狽して『もう査問会は中止だ』と独り言のように云い部屋の取り片付けを為し他の者もザワザワ致し居る中」、この後「袴田は急に階下に降り、畳を上げ床板を上げかかり居るにより、自分は同人に対し『昼中かようなことする必要なし』とて押し止め、二階に上がりて一同と前後の処置を考えることと為りたり」(逸見調書)。
 次のショット。上述で査問会が打ち切られ模様になったことを述べたがその前後のどの時点かが特定できないが、大泉の措置が次のように為されている。小畑の死亡が確認された後大泉が査問されることになった。「大泉に対する私たちの峻厳な態度も幾分か緩和される結果を生じたので、大泉もホットしたのではないかと思います。それで、私共は今後の方針を聞くと、大泉は『どうか命だけはお助け下さい』」と繰り返し、『田舎へでも帰って百姓でもして平和に暮らしたい』とか、『これからは警察に就いて活動しないのは勿論組織に就いて運動もしないからこれで勘弁してくれ』と頻りに哀願して居たのであります。それで私たちも今暫くほとぼりが冷めたら釈放する旨申し渡して大泉も大分安心した様に思います」(袴田16回調書)。この時、「その目の前で宮本が小畑の死体を足で蹴ったら『ウウウと微かな声を立てた』といっておりますが、之も言語道断のデタラメであります」(袴田18回調書)という陳述が為されている。大泉調書では、「宮本がその時私に『貴様は幸福なのだ見ろ』と云って其処に長くなっていた小畑を蹴ると、『ウーン』と幽かな声を立てました」(大泉16回調書)と述べていることに照応している。真相は判らない。宮本はそこまでやるのかという思いもある。
 ここで、この二日間に亘った査問における査問者の役割と行動に関して印象を述べた大泉の陳述があるので紹介しておきたい。「この査問の二日間私は人間的に一番恐怖を感じたのは木島でした。木島が一番行動的でありました」、「ここに最も同情すべき人物は木島でありましょう。彼は党に盲目的に忠実で何も判らず彼らの命令通り行動したのではないかと思われます」、「(このたびのリンチは誰が一番首魁であったか、という予審判事の問いに対して)それは勿論宮本が首魁でありました。彼の指図により木島以下の他の連中が私にテロを加えたのでありました。しかし宮本は卑怯な奴で云々」、「秋笹は宮本より余計に臆病で云々」、「袴田も臆病なところがあり云々、決定的の場合には責任を他に転嫁して逃げる卑怯者です」、「逸見は一番人間が善く凡そリンチとは縁遠い部類の人間ですが、恐らく宮本等の行動に参加せねば私と同様な運命に置かれることを恐れ、半脅迫された形でこのたびのリンチに加わったのではないかと思います」(大泉16回調書)。私は、大泉のこの陳述はこれでも随分控えめに言っているようにさえ受け止めている。
 次のショット。こうして善後策が協議されることになった。この会議は小畑が死亡しているその部屋で行われたようである。その後階下で食事をしながら話し合いがなされたということである。「我々としては、大泉・小畑が一日や二日の査問でスパイの事実を自白するとはもとより予期しないところであったので、又我々が下部組織の全部と連絡をつける為にも少なくとも1週間くらい拘禁する必要を感じていたのであるから、査問を始めてわずか二日ばかりで突然小畑の死に直面したということは我々としては意想外の事実の発生に少なからず驚いた訳で、これ以上査問を延引していて又不慮の出来事を起こしてはと思い、大泉の自白にも未だ多分に疑わしい点はあったのではあるが、とにかく自白を得たのであるから査問はこれで中止しようという気持ちになったのです」(袴田3回公判調書)。この陳述で注意を要するのは、「少なくとも1週間くらい拘禁する必要を感じていた」という部分である。少なくとも1週間飲ませず食わせずしたら一体どうなるのだろう。恐らく、小畑は少し触れられただけでホントに「異常体質性ショック死」で自死したことであろう。どうやら宮本-袴田ラインは直接的暴力の加圧に依らず自死することを願っていたのではなかろうか、と思われる。従って、小畑の逃亡行為はそのシナリオを察知した奇しくも偶然な氏の最後の革命精神の発揮であったということになるであろう。 「小畑がいよいよ死んだとすれば、もうこのアジトにも長くいる訳にも行かなくなり、又残った大泉夫婦の処分の問題もありますので、暫く小畑をそのままにしておいて、木島をその席から外させて、宮本、秋笹、逸見、私の4名で会合を持ちました」、「そして、大泉夫婦の処置については、至急にどこか他に適当な場所を借り受け、誰かそこに住み込み、大泉夫婦を暫く監視して、同人等が自首しないと見極めがついた時に釈放することにして、その監視は木島が引き受ける事に決定しました」、「小畑の死体の処分については、正式に協議にかけた訳ではありませんが、この時誰しも死体を外へ持っていって埋める訳にも行かないので、アジト内部に埋める処置しかないことはもちろんのこととしておりましたので、従来のアジトの関係上秋笹が死体の処置を引き受ける様な形となったのであります」(袴田12回調書)。この時かそれ以前かこの後の中央委員昇格決議の後のことか不明であるが、袴田自身が、「死体を埋める為に床下を見ようと思って階下に降り、8畳の間の畳を1枚か2枚上げた事は事実であります」(袴田12回調書)と陳述している。袴田のこの時の動きが袴田らしい。一階の畳を取り外して床下を覗く行為をしているが、特段の指示はしていない。「別に誰の口からもどうしようと云う話は出たわけではないが、死体をそのまま放っておく訳にも行かぬ故、床下にでも埋めねばならぬと考え、床下を見ようと思い階下8畳の部屋の畳を一枚か二枚取って見ました。口にこそ出さぬが一同の考えも自分と同じだった事と思います」(袴田3回公判調書)。
 次のショット。ここに驚嘆すべきことが語られている。暫く失語させられてしまうが語らねばならない。この後中央委員会の構成につき協議し、宮本・逸見・袴田・秋笹の職務分担を取り決めた。「その席上宮本と逸見の相談の結果、従来中央委員候補者であった私と秋笹を中央委員に挙げることに又木島をその候補者にすることに決定したのであります」(袴田12回調書)。恐るべきことのように思われるが、小畑の死体が放置されたその場(当の部屋か階下の食堂でかは陳述が分かれているが)で、宮本と逸見の協議により袴田と秋笹が中央委員に、木島の中央委員候補が平然と決議され、宮本の口から任命されたと云う。中央委員の職務分担は、袴田が組織部を、逸見が財政部と農民関係を、宮本が編集局及び東京市委員会を、秋笹が共青の再建責任者になることを決定した。戦後党活動の再建に当たって、「党中央の戦前最後の中央委員」であるという肩書きを宮本-袴田コンビが吹聴してまわることになるが、その実体はこのような状況下で決議された資格だったということを知っておく必要がある。逸見は呆然とした状況であっただろうから、宮本-袴田らの恐るべきタフネスな精神構造を知るべきであろう。会議を終えたところで木島が呼ばれ、大泉の監視役をすること、これから党の清掃を従来に倍して行う必要があるから下部党員の経歴書を至急取ることなどが宮本から命ぜられたという。ここは注意を要するところである。この後宮本は検挙されることになるが、既にこの時いくつかの方針を指令していることがこの文中からうかがえることである。その一つは、大泉の監視。その一つは、党の清掃事業としてのリンチ査問の強化。その一つは、追って判ることになるが、リンチ査問者の対象が全協及び党内に残存する戦闘的活動家に対してタッゲットされていたということ。その一つは、下部党員の経歴書提出である(この経歴書提出の不当性はこの後の稿で明らかにしようと思っている)。つまり、宮本自身は一早くに検挙されたことにより、袴田執行部の元でなされた以上の方針の実行には無関係と思われやすいが、事実は宮本指令の範疇のことであることを踏まえておく必要があるということになる。
 その会合が終わってから宮本、秋笹、逸見は階下へ降りていった。宮本と逸見はそのままアジトを去ったようである。袴田は、押入から熊沢を出してやった。大泉は、「謝罪状を書くから手を緩めてくれ」と言うので、同人の手足の縛りを緩めてやり、頭から被せてあった背広の上着を除いてやりました(私は、この時大泉が頭被せ状態にあったというのは偽証と推測する。もっとも大泉本人もまたこの時失神中であったと偽証している-私の注)。大泉は約1時間ほど書き続け、その間袴田は監視していた。そこへ秋笹が二階へ上がってきたので、袴田もこの後の大泉等の監視を頼むと同時に事後処理を相談し合って後アジトをでることになった。その時には木島達はおらず(木島は小畑を埋めるためのシャベルの買い出しに出向いていたようである)、木俣鈴子一人階下に居た。木俣は二階の騒ぎの間中一度も二階へ上がってきて居らず、終始階下にいて警戒を兼ねていた。査問から起こる物音を紛らす為に掃除の風を装ってハタキを障子にパタパタと当てる等の役目をしていたとのことである。この木俣鈴子の調書、熊沢の調書全文の漏洩が待たれるところでもある。
 次のショット。ここでも驚嘆すべきことが語られている。暫く失語させられてしまうが語らねばならない。この時小畑・大泉の所持金、時計等につきみんなで分け合っている。宮本・袴田が百円宛、秋笹・逸見が二百円宛、腕時計を袴田が分捕った。秋笹はアジトの費用が要るためであり、逸見は財政担当者としての立場で預かった。並の神経では無かろう。その他の品物は木島か秋笹の手で適当に処分したと思われる。大泉の持っていた手帖は行方不明となっているがこれもオカシイ。 次のショット。袴田は、この査問アジトを引き上げてから後は一度も立ち寄っていない。恐らく後味が悪かったのであろう。以来「毎日の如く木島と頻繁に連絡を取り、同人からその後の状況の報告を受けて居りました」(袴田15回調書)という。
 次のショット。結局秋笹が小畑の死体の処置を引き受けるようになった。「小畑の死体の処置については、自分も袴田の前述の如き暗示に基づき自分方の床下に暫く埋葬するよりほかに方法なしと考え、木島に穴埋用スコップの調達を命じ、その夜の明け方に先ず木島をして階下8畳の間の床下に穴を掘らしめ、二人にて小畑の死体を階下に運びてその穴に入れ土を掛けて埋没したり」(秋笹15回調書)。ここの部分は「日本共産党の研究110P」では次のように書かれている。「夕方7時頃木島はシャベルを買って帰り、暫く秋笹と雑談していた。木島の記憶では、宮本が『明日の明け方に皆で埋めよう』と云っていたのだが(宮本は否定)、何時になっても、誰もアジトに戻ってこなかった。秋笹と木島は憤慨しながら仕方なく二人で埋めようと決心し、明け方まで3時間交替で寝た」。こうして小畑の死体は25日の明け方頃秋笹と木島の手で床下に穴埋めにされた。その様子は大泉の16回調書中にても明らかにされているが割愛する。「その報告によって私は、小畑の死体は右アジトの床下に埋められたことを知り、又大泉はスパイであったこと及びスパイになった事情を手記に書いたことも聞きました。なお、大泉夫婦が自殺の申し出をした事も聞きましたが、いつどこで又いかなる方法で自殺させるかという具体的な問題については、中央委員会としての決定はしませんでした。ただ右申し出を承認して自殺させる事にしたばかりであります」(袴田15回調書)。
 以下は「日本共産党の研究三111P」によると、(概要)この後、木島は、小畑のネクタイ、ハンカチ、細引き、針金などと赤旗の刷り損ないを風呂場で燃やし始めたが、くすぶってなかなか燃えないので、庭に穴を掘り、揮発油をかけて燃やしたが、なおもくすぶるので、土をかけて埋めてしまった。これは事件発覚後全て掘り出され、証拠品として法廷に提出されることになる。また出刃包丁、斧などは風呂敷に纏め、後に木島が下部党員に処分を依頼した。要するに後始末は全部木島がやったのである、とある。ここの部分も注意を要する。「査問事件」における暴力は無かった説を主張する輩は、事件の物証としての「出刃包丁、斧など」が見あたらないとしきりに主張しているが、この文中において「風呂敷に纏め、後に木島が下部党員に処分を依頼した」とあるのをどう読みとるのであろうか、是非聞きたいところだ。立花氏の研究は「犬の吠え」であるから根拠がないとでも言うのであろうか。もう一つ、家宅捜査が入ったのは事件発生後二十日以上経過した後のことである。事件関係者が「出刃包丁、斧など」を始末したことを推測するのに何の不思議があるだろう。
 翌日これをアジトにやってきた宮本に報告すると、宮本は「ご苦労さん」、「さすが労働者だ」とほめたと云う。余りにも馬鹿にした話ではないか。ちなみに、宮本がアジトに再びやって来ていることは次の自身の陳述によっても明らかである。「自分は小畑死亡後、査問アジトに行ったのは、二十五日の夜が最初であって、そのとき死体を処分したことを聞いたのみである」(『宮本顕治公判記録』の第九回公判調書、p.225~227)と云っている。たあdし、袴田同様に「(死体埋蔵に関しての)特段の指示はしていない」と主張しており、「なお、宮本は、後に裁判で死体遺棄の共謀正犯に問われると、自分は小畑の死体には全く関係が無く、あれは秋笹・木島が勝手にやったことだとの主張を続けて今日に至っている」(「日本共産党の研究三111P」)。実際の言い回しはこうである。「(袴田は)死体の処分に関しては、けっきょく当日は未決定であったと述べている、それが真実であって、当日秋笹が死体の処分を引き受けたとか、私が死体を床下に埋めるよう指揮したようなことはない」(『宮本顕治公判記録』の第九回公判調書、p.225~227)とある。これではまるで「空中浮揚氏」の言いぐさそのものではないか。もっとも年代的に見て空中氏の方が真似てるということにはなるが。