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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その5.宮本検挙とその虚実について

1999/11/17 れんだいじ、40代、会社経営

 第7幕目のワンショット。宮本は二日後の12.26日逮捕検挙された。党史では「この摘発の途上で、1933年(昭和8年)12月、東京市委員会にもぐり込んでいたスパイ荻野増治の手引きで宮本顕治が街頭連絡中を十数人の警官に包囲されて麹町署に検挙された」と書かれている。「党中央は荻野にスパイの疑いを持っていだいていたが、宮本が最後の連絡ということで出かけたところを敵の手にうられたのであった」(「日本共産党の65年」73P)とも追記されている。このような記述によれば、宮本の検挙は党にとって「査問事件」後の重要な時期での痛い検挙であったように受け止められやすいが実際は大きく様子が違うようである。次のようなものであった。「日本共産党の研究三112P」を参照する。概要「前日アジトにやってきた宮本は、今度は東京市委員会キャップの荻野の査問をすることにしたと木島に告げ、それを『木島が責任を持って東京市委員会でやれ』と命じた。しかし木島は、『東京市委員会にはとてもその力がない』というと、宮本は、『では中央委員会でやるから、ついてはその準備が完了するまで、木島と荻野と連絡をとるようにしてくれ』と頼み、木島は了承した。荻野は宮本のおぼえがあまりめでたくなかったようで、同じ東京市委員会に居ながら大泉・小畑の査問に当たっては計画段階から外されていた。この間荻野が受け持っていた下部組織で連続検挙があり、それが原因で荻野は木島にその地位を譲らされていたという経過があり、党内から疑いの目で見られていたとのことである。12.24日つまり小畑が死んだ日には木島と街頭連絡の約束があったが、その場所に行ってみると木島は来ていなかった。実際には木島はリンチ事件で忙しくて連絡どころではなかったのだが、そうとは知らぬ荻野は一層不安になった。翌25日、逸見と連絡をとると、逸見は大泉・小畑の査問の大要を話し、これから宮本に会うようにと指示した。指定された場所に行って宮本と会うと、宮本はこれまで荻野に対して『あなた』とか『きみ』とか呼びかけていたのに、この日は始めから『貴様』呼ばわりをした。宮本は、『大泉と小畑とを査問した結果、党の各機関に多数のスパイが潜入していることが判ったから、今後それらのスパイを徹底的に処断する』と云い、大泉・小畑の除名理由書のプリントを渡して、それを複製する仕事を命じた(この除名理由書の記載内容に興味があるが明らかにされていない-私の注)。
 さらに、『大泉・小畑がスパイであったことを認めるか』と聞くので、荻野は、『大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない』と答えると、宮本は一瞬ギクッとしたようだったが、鼻先で『フン』と笑い、それから、荻野は東京市委員会から解任され、今度はアジ・プロ部で働いて貰うことになったと告げて、『そこで貴様をうんと叩き上げてやる』と云った。(ここは暫く黙そう。この時宮本は24才である筈であり、何とも超大物な口ぶりをするこの背景は一体何なんだろう。それと「ギクッとした」というのが何ともリアルな気がする。それはそうだろう「大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない」こそ「査問事件」の本質に迫った認識であり、当の宮本だけには絶対漏らしてはいけない考え方であった訳だから。しかし、そこまで読みとれなかったからといって荻野の迂闊さを見るわけにもいかないであろうが-私の注)。荻野は、宮本の口ぶりから、大泉・小畑は査問されて殺されたに違いないと判断し、これから他のスパイ容疑者にも査問が広がり、自分もその一人で殺されることになるかも知れないと考えた。この日の夜一晩考えたあげく、翌26日の朝、警視庁に自首して出た。荻野と宮本は、前日別れるときに、この日の午後3時に連絡を取ることにしていた。宮本はそこで荻野と会ったら、木島に任せて査問させようと考えていた節がある。自首した荻野は、この日の連絡を警察に告げた。予定通りやってきた宮本は乱闘の末逮捕された」。
 宮本検挙の真相は以上の通りということだ。荻野が宮本を売ったことは明らかであるが、宮本の逮捕は単純にスパイに売られたとかいうものではない異色のそれであることが判る。ちなみに、荻野は除名され、その除名広告によれば31年(昭和6年)頃からスパイであったとされた。そうであれば、ほぼ二年間一緒に活動していた同じ東京市委員会の宮本-袴田-木島ラインを始め他の党幹部はそれまでになぜ売られなかったのかが不自然ではないだろうか。あらゆる視点を宮本神話から見るからこういう不自然さが見えてこないことになる。
 なお、この宮本検挙について不審な点がある。宮本は、松本清張に次のように話しているということだ。何とかして荻野を落とし込めスパイに仕立て上げようとしていることが判る。概要「(前にも一度逮捕されそうになったことがあるとして)会合の為に三田のアパートへ行ったら、張り込んでいましてね。手帳を取られたんです。これは駄目だと思ったんで云々。後から思うと、私がやられたのは、通称“高橋亀”こと荻野っていうスパイに売られたのです」(宮本顕治対談集238P)。この話の珍奇なところは、「手帳を取られて、駄目だと思った」ことにある。ということは、手帳に克明なメモがなされていたことを意味する。すでに我々は「査問事件」中大泉の手帳嫌疑を見てきた。宮本自身が次のように述べているほどの「党の最高指導機関の指導者が、いつ、どこで不審尋問に会うか判らない。この手帳を見たら、非合法活動をやっている共産党員だということがいっぺんにわかってしまう。当人は勿論逮捕されるが、同時に連絡場所にくるものも片っ端からやられる」危険な行為として、当時党員は手帳を持たないというのが鉄則であったはずである。宮本なら所持しても良いということにはならないであろう。それともこの御仁の癖の一つであるが、自分は例外が許され相手には厳しくという常用なのであろうか。そういえば、「空中浮揚」氏も自分は見るだけで水中クンパカを信者にさせていたなぁ。
  ところで、この時宮本が、こうした「疑いの強い」荻野にわざわざ会いに行っている必然性が見えてこない。袴田の話によると、袴田も宮本も、かねがね荻野は怪しいと気づき、疑い監視していたという。検挙される当日も、宮本に危ういという意見を言う者も居たが、「いや、今日が最後だ」と言って出かけたと伝えられている。「いや、今日が最後だ」というもの言いが意味深だ。荻野が最後なのか宮本が最後なのかはっきりしないが暫し黙して考えてみよう、あらかじめ自身の入獄を自身が知っていたとも受け取れる実に謎めいた言葉ではないか。一仕事やり終えたという意味なのか……。それはともかく、宮本の逮捕により宮本が職務分担として引き受けていた「赤旗」編集と東京市委員会の指導は袴田が引き受けることになった。
 なお、この逮捕時の様子を伝えた宮本の回顧録の内容に重大な疑惑があることも指摘しておかねばならない。宮本氏は、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で、「大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た。然し自分はテロに依る訊問の為警察に於ては陳述を拒否してきた」(文化評論昭和51年臨時増刊号、「リンチ共産党事件の思い出」87P)と述べたという。これに対し、平野謙は貴重な疑惑を呈している。概要「大体私が麹町警察署に検挙された時は12.26日の筈であり、しかし昭和8年12.24日に小畑は急死したが、その事実を当局が確認したのは、大泉兼蔵が逃亡した翌昭和9年1月15日直後のことである。宮本顕治の検挙された昭和8年12.26日から1.15日までの二十日間ほどのあいだに、宮本顕治の警察に対する根本態度が確立されたのではなかったか」と。つまりそういうことになるが、宮本氏が公判冒頭陳述で述べたように宮本の逮捕時に特高が既に小畑のリンチ死を知っていたとはどういうことなんだ。これが真相かも知れないし、宮本が拷問的虚実をデッチ上げんがために脚色した詐術かもしれない。ひょっとして両方の意味があるかもしれない。いずれにせよことは極めて奇っ怪なことになるし、私が宮本を胡散臭い人物だということの根拠の一つでもある。
 しかし、世の中にはいろんな見方があるもんだと思う。この特高発言がなされたのは小畑の遺体の検死が行われた直後の1934年(昭和9年)1月17日頃であり、宮本の取り調べにあたっていた山県警部らは、麹町警察署の拷問部屋で宮本氏にむかって「共産党をデマる絶好の材料だから、今後とも党と大衆を切り離すためにつかってやる」とうそぶく、という記事が「ウオッチ」で紹介されている。この1.17日説の根拠は判らないが、この場合、昭和15年4.18日公判の宮本の冒頭陳述での「大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は云々」発言が確かになされているのかどうか調べればはっきりすると思う。私は、「リンチ共産党事件の思い出」を参照しているだけであるので心細くなってしまう。しかし、平野氏が自分で掲載しておいて「不自然だ」と言っているのだからあながち嘘ではないと思うけど。どなたかチェックしていただきたいと思う。
 ちなみに、宮本は、麹町署に検挙され、彼が毛利特高課長、山県為三特高警部らから、失神しそうになるほど拷問をされ、獄中にあって麹町警察と留置場において拷問を受けたと本人が明記している。しかし、このように主張しているのは宮本であって、山県警部は、「宮本なる人物には一面識もなく、拷問したなどと言い張るのはまことにもって名誉毀損」と憤慨しているということのようである。この発言の真偽もどなたか確認していただけたらありがたい。私でさえ、あまりに重大なことなので、にわかには信じられない。
 なお、ここでこの当時の通常の取り調べの水準がどの程度のものであったのかを見ておくことにする。これは「特高警察黒書」(新日本出版社)113Pの一節である。俳優の松本克平氏が自らの体験を語ったものである。松本氏は党員でもなかったがナップの連絡係をしていたようである。そういう者にさえこの程度の拷問がなされるのが普通であったことを例証したいため以下記す。概要「私は築地署へ引っ立てられ、激しい拷問を受けた。二人の訊問係りは交互に連続的に機関銃のように尋問する。即答しないと二人のテロ係りが間髪入れず竹刀と藤の太いステッキで私の太股を気違いのように殴りつけた。反抗心と昂奮で最初はそれほど痛く感じなかった。たがいっぺん叩かれたところは既に内出血している。体をあちこちひっくり返されながらムシロのように2時間も叩かれると同じ箇所を三度四度と叩かれることになる。三度同じ所をやられると頭にキリを突き立てられたように痛く、体がピクピクして意識不明に陥る。唇はカラカラに乾いて声も出ない。私は43度の高熱に浮かされ1週間以上動けなかった。心臓の弱い人ならとっくに心臓麻痺で死んでいただろう」。続いて同書は作家の中本たか子氏の手記を載せている。彼女も当時は党員ではなかった。関連するところだけ抽出する。概要「鈴木警部がまず私に姓名、住所から聞き始めた。私は答える必要がないので、口を開かなかった。特高どもは、見る見る顔色を変えて総立ちになった。『なめるなら、なめてみろ!』というなり、私の顔を殴り、髪の毛を手に巻いて引っ張り、足を上げて背中を蹴りつけた。なぐられっぱなしの私は頬がゆがみ、髪の毛はばりばと抜け、背筋の骨が痛む。竹刀を持ってきて私の頭を殴りつけた。三人の男どもはそれぞれに力を込めて、ふんだり、蹴ったり、殴りつけたりして、私を責め続けた。私は意識がくらんできた。以下略。私は意識を失った。私が意識を取り戻すと、太股をこづき始めた。みるみるうちに、私の太股は赤くなり、はてはどすぐろくなって腫れ上がった。痛さに泣き叫ぶ私を面白そうに眺め、三人の特高は代わる代わる、三時間ぐらいこづき続けた。翌日もまた、同様の拷問を繰り返した。私は立ち上がることも、歩くことも出来なかった」。
 党員でなくてもこれぐらいの拷問がなされていたのであるとすれば、党員か朝鮮人活動家に対してなされた程度が想像されよう。小林多喜二の「1928.3.15日」の文中はその実態を暴露した名著ではないのか。この当時皆なぶり殺しか気絶するまで激しい拷問がなされ続け、彼らの意に従うまで何日も続けられたというのが当時の関係者の一致して明らかにするところである。まして中央委員ならどうなるか判りそうなものではないか。野呂の例を見てみよう。野呂こそはと言うべきか最後まで調書を取らせなかったが、彼は明らかな肺炎性病弱を見せていたにも関わらず各署をたらい廻しにされて厳しい取り調べを受けた。獄中で健康状態が急激に悪化し、流動食しか取ることが出来ないため、看守にオートミルを作らせ、移動する時は他の者に担いで貰わなければならぬほどだった。34年2.19日病状があまりに悪化したため、品川書から北品川病院に入院させるため運ばれたところで絶命した。32才の若さであった。
 宮本は、この時の拷問の様子について次のように語っている。「特高課長毛利や特高警部の山県、中川らが来て、『世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らしてやろうか』、『この間良い樫の棒があったからとってある』と云いながら、椅子の背に後ろ手にくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水を掛けた。そして、『岩田や小林のように労農葬をやってもらいたいか』とうそぶきながら拷問を続けたが、私は一言もしゃべらなかった。歩けなくなった私を、看守が抱えて留置場に放りこんだ。12.26日で、監房の高い窓からは雪がしきりに吹き込んだ。一切の夜具もなく、拷問の痛みと寒さのため私は眠ることが出来なかった」(宮本「私の50年史」.「日本共産党の65年」73P)。私には具体性の乏しい非常に嘘っぽい文章であるように思うがこれ以上は控えることにする。
 この時のことを宮本はこうも語っているらしい。「追憶談」(週刊読売)で、「(彼の追憶によると)はじめは、猛烈な拷問を加えられたが、そのうち向こうが、『こいにつは何をやっても無駄だ』とあきらめて、持久戦に入った。寒中でも夜具を与えず、寒さで眠らさないような悪どい拷問に出てきた」、「それも一年ほどして切り抜けると、府中警察に、足錠、手錠をかけたままの姿で、二ヶ月置かれた」、「警察にいる期間は、ほとんど風呂にも入れず、本も全く読ませないで、一年間ただ座らされていた」という。宮本は、これを称して「原始野蛮による人間への持久拷問」と言っており、この記者も「信念のない者ならたちまち拘禁ノイローゼにかかり、警察側の思い通りにされてしまったことであろう」と妙な感心の仕方で提灯している。これでは宮本が受けたそれの方が虐殺拷問よりしんどいみたいに受け止めてしまうではないか。宮本の場合、他の多くの党員になされた虐殺もありえた即日拷問を、なぜ持久戦にまで持ち込めえたのかその丁々発止の様?を問う方が自然ではないのか。提灯持ちは何人いても役に立たない。