投稿する トップページ ヘルプ

「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その5.大泉のその後について

1999/11/18 れんだいじ、40代、会社経営

 第8幕目のワンショット。もはや大泉の査問は中止されたも等しかった。12.25日の朝は、秋笹・木島・木俣の3人が二人ずつ交替でピストルを持って監視したようである。「大体二日に亘る取り調べの結果、我々の予期していた通りのスパイの確証を握り、警察のスパイ政策も大体に於いて聞知したので、これ以上大泉を追及する必要も無し、仮に追求しても党にとって必要な事実も新たに出ないと考え」(袴田16回調書)られたのである。私は、この点につき少々疑惑がある。この言いまわしに見られる悠長さは何なんだろう。この言い回しもまた、そもそもこのたびの査問が大泉には主たる目的が無く小畑の方にこそあったことを示唆しているのではなかろうかという疑惑である。故意か偶然かは別にして、小畑の殲滅がなされた以上大泉はこの時点で厄介なお荷物になってしまったのではないかと推測する。それかどうか、大泉は、直ぐに放免するわけにもいかずという中途半端な状況に放置された。「ほとぼりが冷めて釈放しても党に被害が無いと云う見極めが付いた頃釈放することにし、それまで暫くどこかに監禁することに方針を決定したのであります」(袴田16回調書)。呼び出されていたハウスキーパーの熊沢は、奉仕した相手がスパイであることを知らされ、我が身を恥じた。12.30日頃から専門のピケとして林鐘年がやって来た。
 次のショット。「監禁中大泉夫婦が自殺を申し出たので、中央委員会で協議の結果、その申し出を採用して自殺せしめる事になったのであります」、「大泉が自殺して死ねば事件の後始末も好都合に運ぶし、それによって党が新たに被害を受けると云う危険もありませぬでしたから自殺するなら自殺させようと云う気持ちで自殺させることに決定したのであります」、「(熊沢が)大泉に繋がる縁で自殺しようと云うならどうでも勝手にするが良いという気持ちで大泉と共に自殺させる事になったのであります」(袴田16回調書)。こうして、大泉夫婦は心中を試みようとし始め、査問者側もそれを期待し、偽装自殺の「遺書」まで書かせられることとなった。大泉にとって小畑殺害におびえた窮余の一策だったことになる。秋笹らがいろいろ注文付けて書き直させている。この経過は、「監禁中大泉夫婦が自殺を申し出たので、中央委員会で協議の結果、その申し出を採用して自殺せしめる事になった」、「(熊沢の方はスパイである確証はなかったが-要約)大泉に繋がる縁で自殺しようと言うならどうでも勝手にするが良いという気持ちで、大泉と共に自殺させる事になったのであります」(袴田16回調書)とある。
 次のショット。「私は、大泉夫婦に自殺させる場所の選定、その方法等はすべて木島に一任してありました」(袴田16回調書)。1.9日頃からアジトを他に移すことに決定したようである。こうして、木島が目黒方面に一戸建てを借り受け、その新しいアジトに大泉夫婦の身柄を移すことを取り決めた。1.13日熊沢が大泉の髭を剃ったり、洋服の塵を払ったりした。1.15日夜殺害することを取り決め、1.14日夜目黒の木島宅に移動させた。二階6畳の間に監禁した。木島・横山・林鐘年の3名で監視した。「いよいよ同人等が自殺を決行すると云うのでその前夜一緒に寝かせてやったと云う報告を受けました」(袴田16回調書)。この日の夜大泉と熊沢が逃亡の是非の相談をしていたことを明らかにしている(大泉17回予審調書)。ところが、熊沢が反対したためいよいよになると実行されなかった。翌1.15日午後大泉は脱走に成功した。その経過はこうであった。「木島も又見張り役として動員されていた林鐘年もアジトを出て居た留守に、大泉は木島のハウスキーパー横山操の監視の隙を窺い逃亡した」というものであったが、「本来ならば当日木島は見張り役の林が所用の為外出する事を知って居り、木島自身も外出すれば後は当然横山一人となる事を知りながら外出してこの失態を惹起したのです」(袴田16回調書)という不自然なものであった。この時木島と林はわざわざ大泉に聞こえるように出かけていくことを伝えており、仕組まれた芝居臭さがうかがえよう。この時か前の晩だったか木島のハウスキーパー横山操が大泉等に餞別の玉子丼をつくってご馳走している。この後大泉はトイレを口実に足縄を解かせ、結び直しの際に横山に組み付く事になる。横山を押さえ付けながら、大声で「人殺し」と数回叫んだ。熊沢が大泉の口を塞ごうとして逆に噛みつかれ、傷つけられた。おおよそ30分ほど横山とピストルの争奪戦を繰り広げた。この間熊沢は呆然自失のていで傍観した。こうしているうちに巡査がやって来て横山を逮捕した。この後タクシーを拾って麻布鳥居坂署に駆け込むことになった、という。こうしてみると大泉のこの一連の脱走劇は仕組まれたような逃げ出し方であるとも言えるであろう。「この失敗によって、木俣鈴子・林鐘年・横山操・大泉兼蔵・熊沢光子等は一網打尽的に検挙」(袴田16回調書)されることになった。
 次のショット。麻布鳥居坂警察署に着いた大泉の行動について17回調書は次のように明らかにしている。大泉は、署に着くなり概要「自分は警視庁の人間だ。共産党の殺人事件が有る。警視庁特高課長を呼んでくれ」と要求した。間もなく警視庁から庵谷警部以下数名の者がやって来た。簡単に事件の経過を説明し、小畑の査問死を始めとする諸事実を暴露した。興味深いことは、予審判事の「被告人はその後警視庁の毛利特高課長に会ったか」という問いに対して、「私はそれきり会いません」と述べている。わざわざの設問のようにも見えるし、実際だったとしたらどういう事情によるのか不明であるが不思議なことである。
 次のショット。1.19日麻布鳥居坂警察署に於いて警察医中村康が「検診書」(「中村検診書」.昭和9年1.19日付け)を作成している。この「検診書」を一見して判ることは、小畑の遺体鑑定書に記載された内容に比して暴行的痕跡が妙に少ないことである。手足に縛創性痕跡がそれぞれ位置、径、長さ、特徴別に記されている。大泉は、「その通りか」と問う予審判事に対して「その通り間違い有りません」と答えている。ただし、補足として概要「傷を受けてから20日以上も経過しており、又秋笹等が傷のアルコール消毒をしてくれたこともあり、そのお医者さんに見て貰った頃には治癒しその後だけが残っていました。その後3年以上経過した今日なおいろいろ後遺症が出ている」と陳述している。秋笹第二審判決文では「大泉の手足に数カ所の縛創を蒙らしめ」とある。そのまま受け取れば、査問によって蒙った暴行は相当程度回復していたため「検診書」に記載されるほどのものでなくなっており、わずかに縛り跡傷が残っていた程度であったということである。大泉の暴行ハイライトシーンである「遂に錐であったか斧の峯の方で私の口の辺りを殴った為に前歯一本、奥歯一本が折れ、又斧の峯で頭を殴られた為か私の顔を伝って落ちるのを覚えました。又私の背中を斧で殴られたので気絶した様に思いますが判然しません」(大泉19回調書)中の前歯・奥歯の毀損についての所見はない。中村医師が検診しなかったのか、大泉陳述が過剰であったのか判明しない。いずれにしても妙なことである。
 私は次のように理解している。大泉のこの部分の被暴行陳述は大泉が小畑死亡時に失神していたことを説明する下りで述べられていることを考えると、このシーン全体が失神経過を作為するための過剰陳述であったのではないかという可能性が考えられる。ということになると、大泉に対する極端な暴行シーンはこの部分以外には無いことからして、今回の「査問事件」の遂行意図とリンチ的暴行は小畑にこそ照準が合わされ集中していたのではないのかということになる。そういう観点から予審調書を読み直していくと実際宮本-袴田ラインの訊問・暴行が主として小畑に向けられていた様子が見えてくる。逆に逸見のそれはほぼ大泉に向かっており、秋笹・木島のそれは気まぐれに双方に向けられているという構図が見えてくる。
 大泉の「検診書」の記載内容からこのたびの「査問事件」に暴行が極力無かったことを推測させることが可能であろうか。私は次のように考える。そういう見方も理論的には成立するが、実際にはやはり難しい。なぜなら、この後で考察することになるが、小畑の遺体に痕跡されている多数の被暴行的損傷(医学的所見から見て腐敗の進行とは認められない多数の痕跡)と胃袋内に内容物がないという絶食査問とか、これは触れられず見過ごされているところであるが指爪にリンチ跡らしきものがあるとかを考えると、小畑に対する暴行もまた大泉程度のものであったとみなすことは困難である。むしろ、真相は小畑にリンチが集中していたのではないのか、大泉にも殴る蹴るはなされたであろうがかなり加減されていたのではなかろうかという可能性が高いということになる。
 次のショット。大泉の駆け込みによって事件が明白となり、警視庁は直ちに捜査に入ることになった。同時に新聞発表され、各社は「赤色リンチ事件」として大々的に報道することになった。(宮本はこの当時「白テロ」と認識していたようであるが、どういう位置づけによって「白テロ」としていたのかは解せない)昭和9年1.16、17、18日にかけて、朝日新聞を初めとする各紙は一斉に共産党の赤色リンチ事件なるものを報道した。当時の朝日新聞は、1.16日に「共産党の私刑暴露/裏切り者惨殺さる」という見出しでまず事件の輪郭を伝え、1.17日には「殺された小畑達夫」と「私刑された大泉兼蔵」と「大泉の妻熊沢光子」の顔写真と共に、「加害者秋笹正之輔」と「秋笹の妻木俣鈴子」の顔写真が掲げられ、リンチ事件の首謀者として宮本顕治、秋笹正之輔の名前が挙げられた。
 この時の袴田の心情が次のように語られている。「1.16日各新聞の朝刊に右査問事件が発覚し、党の残酷なリンチ事件として報道されていたので非常に驚きました」(袴田16回調書)。報道の基調は、「このリンチが党中央部の指導権を握るためインテリ分子が労働者出身の者を排撃したのである」というものであった。この日「この事件が全国一斉に諸新聞に報道されたのでありますが、其処に表れたものは日本共産党は相次ぐ党員の検挙により、党内には疑心暗鬼が生じ且つ少数のインテリ分子が党中央の指導権を掌握せんとして反対分子を殺害したものであると云うことでありました」、「かく日本共産党は醜悪なる陰謀団体であると報道されたのを見たときは、私は例のブルジョワ新聞一流のデマと思っていたのであります」(袴田1回公判調書)。袴田がこの報道をデマと思う感性が頂けないが、「我々のやった事は決して個人的な野心からではなく日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃であった」(袴田1回公判調書)として認識していた氏の事件が発覚した当日当時の様子が伝わってくる。袴田は、「その日の夕方木島と連絡した際に」前日の午後の大泉逃亡のあらましの報告を受けたという。
 こうして「小畑査問死事件」は、検挙された宮本の取り調べの際に特高が、「『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た」とあるように、そのような意図の下に大々的に喧伝されていくことになり、実際にその後の党運動にはかりしれない衝撃を与え大打撃を蒙らしめることになった。これに対し、袴田は、いやそうではないのだ「日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃」闘争であったのだと言う。そう思わねば自身が納得できないほどに深く手を染めたということであろうが、実際は仮称「東京市委員会宮本グループ」によるどす黒い党中央簒奪劇であったのではなかろうか。