この度はご返信ありがとうございます。書き上げる私の方も大変でそろそろ潮時かなとも考えています。ただし、「査問事件」に関連した前後のところまでは完結しておこうと思っています。この間政治的影響も考慮しつつ投稿が上滑りせぬよう進めてまいりたいと思います。今後とも忌憚のないご交流をさせていただけますよう私の方からもお願い申しあげます(ちょっと一言。私の理解による木村さんの出足の文章はいつも感性的に私と同じです。ところが後半になるとよれてくるというか党の公式論に寄り添った傾向になります。私は木村さんの前半の問題意識を意固地に拘り続けてきているということになりますが、お互いこの辺りは時局認識等でご意見交流させていただきたく存じます)。
「査問事件」の考察は本来党外の私がせねばならない必然性はないのですが、宮本ご神体無条件護持派と興ざめ派と罵詈雑言派とが感性一つ頼りに混在しているだけという状況が今日まで続いており、いずれにも共通するのは没実証性です。これは不真面目な精神と考えています(私が真面目だという意味で言っているのではなく、とかく人のことは批判しやすいというただそれだけのことですが)。日本左翼の再生があるとしたら、こういう不毛な対立手法を終焉させることであり、少なくともその役割の一つを私のレポートで果たすことが出来たらという思いを込めて発信しています。なお、この私の投稿につき「さざ波通信」誌上でなされていることを評価していただきたいという思いもあります。もしこれが反党派のどこかの掲示板でなされたとしたら、そして私の指摘が事実に近いものであればあるほどこの問題につき各党員の党派的立場は苦戦を免れ難いと考えています。少なくとも「さざ波通信」誌上であれば、党の自浄能力の範囲として受け止められうるのではないでしょうか。私はそのように考えています。同時に私の政治的立場も自ずと明らかにしているということにもなります。党のダメージを狙っての伊達酔狂で投稿しているのではありません。その辺りのことをご理解賜れば本望と申せます。
「査問事件」に関わる没検証性は党の存立根拠に関わる重大欠陥と考えています。ある時に党の中央委員が別の中央委員に査問され死亡しており、死亡した方に冤罪の余地が残されていながらほおかぶりさせられたまま経過しており、死亡させた方が今日の党中央に君臨し続けており、その言いぐさが私が明らかにしつつある通り今日までまるでなっていない言い分で居直っているという状況があるわけです。このことをうやむやにして社会の恥部を暴くだとか変革を呼びかける精神は偽善ぽいというか無茶苦茶であると考えています。外に対する要求は同時に内に対するそれでなくては世間が信用しない、世間はそういうところを見ており、このあたりを未切開のままきれい事ばかりを云う者を警戒します。世間はそうは愚か者の寄り集まりではなく、各自が自身の生活体験を元にして常にその真偽を判断しているように思います。話がずれますが、身近に自民党の議員がおりますが、連中は政治も利権もエロ話も結構あけすけです。建前よりも本能本意とも云えるバイタリティーを特徴としています。金の力でモテルるのではなく裏表のないエネルギッシュさが支持者を形成しているという面があるように思うわけです。これは選挙レベルのことであり、自民党を党としてどう見るのかというマクロの認識とはずらしたところでご理解ください。私は、党の運動もまた同様にそうあるべきではないかと考えています。もっと自由にこうあるべきだという主張を自身で作り出していけば良いのではないでしょうか。その結果が党の政策・方針と一致すれば党執行部の指導性が機能しているということであり、ずれてくるに従ってどちらかがあるいは双方が変調だということになるのであって、それでよろしいのではないでしょうか。福祉だ医療だと言っておりさえすれば、こっちが先だそっちが後だとか言い争っているうちに票がころがり込むだろう的運動は我々を馬鹿にしていると考えています。
宮本批判については次のように考えています。世界の共産党運動史の上で、トップ指導者は死して後功罪が暴かれるという不幸な歴史が目につきます。レーニン、スターリン、毛沢東その他ほとんどの各国の指導者の公然批判は棺を閉じて後はじめて生み出されてきたという傾向があります。左翼世界に鎮座するそういう中世的神聖化傾向を打破してみたいという狙いをも併せて持っています。宮本氏の生存中にこそその批判を生み出し、釈明を聞いてみる値打ちがあり、おおよそそれは近代民主主義精神の精髄に関係していると私は考えています。
私の立場も恐らく党員の皆様の本来の立場も、元々を考えてみれば、みんな命に限りある者が何とか努力し合ってよりよい社会の創造を目指そうとして左翼理論にかぶれたのではなかったのでしょうか。そういうボチボチでんなというお互いの限界をさらけ出したところから左翼運動をも再出発させたいというのが私の願いとなっています。本来誰も偉そうにする必要のない党運動に再生させたいと考えています。宗教であれ政治であれ「真理の体現者」的物言いが現れたら警戒する必要があると考えています。組織の幹部あるいは機関の役割でさえ、各自の能力・適正・関心度・人と人との相性度等何らかの合理性に裏打ちされたものを根拠にしてお互いがブリッジ的に繋がる組織論で党組織の再構築が出来ないのかどうかに関心を持っています。党運動の中に絶対的君臨者を生み出す必要が私には判らないのです。みんな人生50年の中である種まじめに、またある種いい加減にそれぞれの生命燃焼しつつ次世代へバトンタッチしているというのが実際なのではないでしょうか。
私は以上のようなこだわりを持ちつつ宮本氏を解析しようとしています。そういう私の思いの対極にいる人物であるからです。指導者の組織内影響を考えることは唯物論的ではないという考えは解せません。そういう認識は平板な唯物論であり、ミクロの現場においては随分と作用力が強いと考えています。宮本氏の場合、彼もまたスターリン的な影響力の強い党運動の「時代の子」であったのか、野坂氏同様当局の意をていして進入してきた元々スパイであるのか判然とはしません。但し、彼が一貫して党内の清掃事業として有能な活動分子を排斥してきた事実は隠しようがありません。おおよそ彼が対権力闘争指導において党内統制で見せる以上の獅子奮迅ぶりの記録があったというのであれば教えてください。田中角栄氏政界追放以外でお願いいたします。あの事件は少々も多少もそれ以上に複雑な事件ですので。仕事の途中なのでまとまりをえませんが、「さざ波通信」を党運動発展を観点に据え、こうして見知らぬ人との幅広い社交場として引き続き活用させていただけましたら冥利です。今後ともよろしくお願いします。