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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

その5.小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定結果について

1999/11/19 れんだいじ、40代、会社経営

 第9幕目のワンショット。こうして小畑の遺体が発掘されることになったが、その時の状況について次のように明らかにされている。小林五郎が書いた「特高警察秘録」(昭和27年7月に生活新社から出版)に次のように書かれているということである。「玄関の次の部屋の畳を上げて見ると、新しい釘が打ち付けてある。素人が慌てて打ったらしく、曲げて打たれている。ねだを上げたが土を掘るものがない。土は柔らかい。勝手元から木炭用の十能を見つけて少し掘ってみるとシャベルが出てきた。シャベルで三尺程掘ると、むき出しの人間の膝が先ず現れた」という描写がなされている。
 この時の小畑の遺体の検診書が残されている。「村上次男及び宮永学而協同作成に係る小畑達夫に対する死体解剖検査記録並びに鑑定書」(以下「村上・宮永鑑定書」と略す、昭和9年1.30日検診)がそれである。他に8年後の昭和17年6.3日に古畑種基作成の鑑定書(以下「古畑鑑定書」と略す)が出されている。両鑑定書の医学的解説をする力は私にはないので素人の私が判る範囲で大筋のところを整理してみる。ところで、「古畑鑑定書」の出された時期が秋笹第二審判決(昭和17年7.18日)直前であることは判るが、その他の被告人判決との絡みとか宮本の公判の接近との絡みが今一つ解明できない。私の手元に資料がないということであるが、どなたかこのあたりの事情をお伝えしていただければ助かります。それと宮本氏お気に入りの鑑定書も出されていると聞いていますので内容付きで合わせてお伝えしていただければ助かります。
 一応ここで私なりに「宮永、村上鑑定書」に目を通して見ることにする。判る範囲で両鑑定書の鑑定評価とそれぞれの特徴を解析することにする。ここをしっかり確認しておかないと、宮本の弁論はいつも巧妙なので、概要「『宮永、村上鑑定書』は、小畑の死因についても『警察べったり』であり、『でたらめな鑑定』であるとか、『私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった』とか云われているものである」という語りを真に受けてしまうことになる。宮本話法にかかっては批判されている当のものを熟知していなかったらすっかりその気にさせられてしまうという、狡知術的な罠が敷かれているからして、先入観抜きに踏みいらねばならない。「日本共産党の研究三285P」を参照する。
 やはり聞くと見るとでは大違いであった。鑑定人の宮永学而と村上次男は東京地方裁判所医務嘱託医師であったようで、同鑑定書は、昭和9年1.30日に非常に精密に小畑の遺体について書き記している。「今日午前10時30分より、東京帝国大学医学部法医学教室解剖場に於いて、同予審判事裁判所書記渡部正志、検事戸沢重雄立ち会いの上、村上次男執刀、宮永学而補助これを解剖するにその所見左の如し」とある。私はこうした医学的且つ専門的な用語を理解する力がないので、「暴行」と「死因」に関する目についた理解し易いところを書き出してみることにする。同鑑定書はまず、小畑の遺体が死後20日以上(24日)を経過しており、遺体に土砂が付着し汚染されており、体表面の一部にはかびが発生しており、皮膚の表皮のみならずその下部の真皮まで露出する等損傷が有り、そういう状態での鑑定であることを冒頭で明記している。つまり、「本屍の解剖の当時は死後変化がかなり顕著に現れていた」(古畑鑑定書)ということであり、暴行的損傷か腐敗的損傷かまでは判りにくい部分もあったということであろう。次に体の頭部より下肢に至る部位ごとの解剖時の状態と損傷と出血ないし血流の様子別に詳細に鑑定をしている。次に体の内景鑑定に移り、頭蓋骨及び脳から各内臓器の解剖時の状態と損傷と出血ないし血流の様子別に詳細に鑑定をしている(恐らく、当の鑑定が日本共産党の中枢幹部の奇異な変死事件であることを踏まえて後日に問題を生じぬよう余程留意しつつ解剖し鑑定したのではないかと思われるほどの精密なものとなっている。そこまで留意しつつ鑑定しても「でたらめな鑑定」呼ばわりされてしまったが。私のこの言い方が不審であれば、実際に目を通されるよう希望する)。以上を踏まえて、説明の項目にて暴力と死因に関係した内容を抽出し、最後に鑑定の項目で死因を特定するというおおよそ模範的とも言える学問的手法で鑑定している。
 「宮永、村上鑑定書」の真の意義は、小畑の遺体に実際に接したのはこの両名の鑑定人のみであることによる小畑の遺体の具体的な所見部分にこそある。繰り返すが、余程優秀な医師でもあったのであろうが、後日の争いの元にならぬよう精密を極めた検査をしている。その内容を記したいがとてもではない専門的な分析であるということと、かなり長大なものであることにより紙数が足りなくなる。今日においても、この解剖検査記録のほうは、別に「特高の筋書きに従って」「ない傷をあるとしたわけではなく」、袴田も「解剖の事実にはあまりウソを書いていない」、「解剖の調書にはどこの部分がどうなっているかということは明白に書いてある」と証言している当のものである。従って、詳細は「日本共産党の研究三285P」に各自で目を通していただくとして、私なりに意外に論議されていないにも関わらず重要と思われる事項を抽出してみる。第一点、概要「胃は、小にしてその襞厚く、内に食物残滓を含有せず」とある。つまり、小畑は腹ぺこ絶食状態に置かれていたことを指摘していることになる。「食事を供せず」の被告人陳述が具体的に裏付けられているということである。第二点、概要「左右の指爪及び跡爪は著しく深く煎断せられて、爪床面の前側を露出し、左右の拇指(おや指)端にありては淡赤色にして血液を滲潤す。かく状態は普通の場合多く見ざるところなり」とある他、人差し指、中指等にもほぼ同様の出血・変色・深く煎断した爪跡について記載されている。つまり、「指先リンチ」の可能性があると指摘しているということになる。事件関係者の誰からの陳述にも「指先リンチ」の指摘がなかったことを考えると、このたびの「査問事件」にはまだまだ隠されたリンチの様子があるのではないのかということになる。思うに、実際のリンチはもっと凄惨なものではなかったかとさえ思わせられる。他の部分にも同様な記述が見られるが、例え出血とか異常の有無の記載を転記してみても水掛け論にされてしまうであろうからこれら二点に注意を喚起しておくことにする。
 「宮永、村上鑑定書」はこうしたおおよそ詳細な鑑定に基づき、概要「これら出血は、本死の生前の顔面前ひたい部及び頭部に鈍体の強く作用したる証拠とす」、「脳内損傷のあれこれは暴力の結果とす」、「心臓並びに大血管内の血液は流動性にして急死の像を呈す」、「かく暴力は、『脳しんとう』を惹起し、『急性死』に致すに足るものとす」、「首の鑑定については、外表所見のみにては判断し難し」、「胸部において約あずき大の淡紫色、腹部において約だいず大の淡赤色、変色部あり」、「その他背面部、指、下肢等にいずれも出血を伴なうを認める。すなわち、これらの表皮剥離並びに皮下出血もまた本屍の生前の鈍体によりて生じたるものとす」、その他「本屍の生前に布の類、紐の類をもって緊縛したるものと認める」等々と鑑定した。これを「古畑鑑定書」は次のように纏めている。「被害者小畑達夫の死体顔面前ひたい部、頭部、胸部、上肢、下肢及びその他に大小多数の皮膚変色部、表皮剥脱、皮下出血、筋肉間出血、骨膜下の出血等があり、又頭蓋腔内において約鶏卵2倍大、クルミ大薄層の硬脳膜下出血、約クルミ大、エン豆大各一個の軟脳膜下出血、左右同頭蓋カに約クルミ大の部分にだいず大数個、左右○○骨岩様部にあずき大数個の骨質間出血があったよしである。又心臓並びに大血管内の血液は流動性であったと云う」(後の絡みでここで補足しておけば、以上のような鑑定所見に対して、宮本は、「小畑の身体にあったという軽微な損傷というものが事実とすれば、それは大部分彼が逃亡をこころみて頭その他で壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」とコメントしている。この「宮永、村上鑑定書」から「相当な暴行跡」を読みとるのか「軽微な損傷」と読みとるのか、同じ文面を見て人は判断が違うということになるようである。こうなると法医学医師と国語の読解力の講師連合で説明して貰わねばなるまい。それと、仮に宮本発言に従って小畑が自傷行為をしたとしても、小畑は手縄・足縄・猿ぐつわのままどうやって逃亡しうるのだろう、小畑はそれさえ判らずめくら滅法押入内で暴れたのだろうか。小畑殺害に関与したのみならず、こういう物言いで死人を更に愚弄しようとする宮本氏って一体どういう御仁なんだろう。そういう詐術で我々を煙に巻こうとする物言い根性が不埒である、と私は思う)。
 「宮永、村上鑑定書」は以上のように所見した上で、「本屍の死因は、頭部に加わりたる暴力による『脳しんとう』と認める」のが相当とした。これが最初の死因鑑定となった。こうして「宮永、村上鑑定書」は小畑の死因を「脳しんとう死」とする判定を法廷に提出するところとなった。この「脳しんとう死」をめぐって、袴田の第一審公判法廷で、鑑定人宮永と被告人らが鑑定結果をめぐって争ったようで、「デタラメな鑑定をした最初の鑑定人が法廷に出たとき、わたしがかれにたいして、そのデタラメさを指摘し、追及したときに、彼は最初からひじょうに興奮して共産党員なんかと口をきくものかといわんばかりの態度でした。かんで吐き出すように、一言二言いっただけで、あとはわたしのいうことに返事もしない態度でした」、「宮永が私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった」と袴田は記述している。この時の主張は、「解剖の事実にはあまりウソを書いていない」が、結論部分の「脳しんとう」鑑定が「木に竹をついだようなデタラメな結論をくだして」おり、「思想検事や特高警察のいいなりになって書いたもの」であり、殺人罪として起訴しようとする不当なものであると主張したようである。
 次のワンショット。その後のつなぎの経過は良く判らないが、こうして、袴田ら被告人は、最初の鑑定結果から8年後に、新鑑定人として東京帝国大学医学部教授であり法医学教室主任であった古畑氏を登場せしめることに成功したようである。この古畑氏の登場は被告人側の法廷闘争の結果のそれであるというほど単純ではないと思うが、推測部分になるので差し控えることにする。その政治的意味は、殺人罪で起訴されることを結果する「宮永、村上鑑定書」を到底容認できないという立場からの被告人による新たな鑑定要求が裁判長に受け入れられ、その結果新鑑定人として古畑氏に白羽の矢が当たりこれを裁判長が認めたということにある。(「査問事件」に関して暴力は無かった説の者が得手として主張する「暗黒」法廷にしてはなかなか物わかりが良いではないか、と思う。一体どこまでが「暗黒」で司法の健全さになるのだろう。暴力なかった派の人たちは、この辺りを解析して見せて欲しい)。
 話が横滑りするが、「暗黒」に関しては私は次のように思う。戦前の法制度が全て「暗黒」であったとか、江戸時代が厳しい統制社会一色であったとかみなすのは少々漫画過ぎるのではないのか。いずれの当時にあっても「時代の器」の中で人は懸命賢明に仕事をしているのであって、やはりある種その人次第の裁量の部分もあって、「お上」といえども現場においては当時も今も仕事は仕事としてきっちりこなす人もいれば逆の人もおり、情実に弱い人もいれば当局におもねる人もいるというのが実際であって、それらの一切の最終結論が、この場合は予審判事・鑑定人であるが、実効部分について当局奥の院からの最高意思指示が出された場合、これには従わねばならないという政治的組織的解決傾向にあるというのが歴史の実際ではないかと思う。言いたいことは、宮本流の二元的な「暗黒」史観は、現場の実際を知らない者の単に御都合主義史観であって、マルクス主義的歴史観はそうは平板なものではないと思う。
 さて、古畑鑑定人は、鑑定に当たってまずは法廷に登場したようでもある。その際袴田から「共産党、共産党員にたいする先入観によらないであなたはあくまで学者として科学的にこれを検討して結論を出してもらいたい」との依頼を受け、それに対し古畑氏は、「わたしのほうになかば向いて、たいへんに紳士らしい態度で聞き」、「あなたのいわれることはよくわかりました。わたしは先入観やそういうものでこういう問題を検討しようとするものではありません」と述べたという。袴田はこの時の印象を「わたしはこの古畑氏と前の宮永鑑定人とくらべて、同じ学者でありながら、こうも態度がちがうものかと思いました」、「古畑氏のわたしの裁判の鑑定人としての態度は一審の鑑定人とくらべてひじょうに違(った)」と述べている。
 次のワンショット。こうして、古畑種基医師による再鑑定がおこなわれることになった。既に8年の月日が経過してはいるものの、「宮永、村上鑑定書」には詳細な解剖所見が記載されていたので再鑑定されるに充分なものであったということになる。袴田にも「少しもさしつかえなかった」と認知されている。古畑医師は、昭和17年4.30日鑑定に着手し、同年6.3日に終了し、いわゆる「古畑鑑定書」を作成し法廷に提出することとなった。概要「先の鑑定書が『本件被害者小畑達夫の死亡当時の状況に基づく』点が弱かったので、これに留意しつつ『許可せられたる鑑定資料を閲読して本件の概要を知るたる上鑑定事項につきそれぞれ熟考按の上、本鑑定書を作成しました』」と冒頭で述べている。なるほど、「宮永、村上鑑定書」は、遺体発見時直後に解剖所見を出した関係で、「査問事件」の全貌が判らぬままに、遺体に痕跡している暴行的様子をそのまま直接的に死因に結びつけたという鑑定上の欠陥があったようにも思われる。しかし、このことは宮永、村上両医師が不誠実ないい加減な人物であったとは思えない。「査問事件」の経過も判らないままに解剖所見を出せと言われて無理矢理鑑定すれば「脳しんとう死」を結論せざるをえないほどのおびただしい暴行の後があったというのが真相ではなかったかと、私は受け止めている。同時に、この時点では、当局奥の院の御都合が「日本共産党内党中央の凄惨なリンチ事件」を世間に喧伝することに重点があり、こうした鑑定結果は好ましいものでもあったということでもあろう。この点につき「古畑鑑定書」作成時には、ほぼ「査問事件」の全貌と小畑死亡時の調書が出されていた時点であったから、古畑鑑定人は遺体の痕跡に認められる暴行跡をそのまま小畑の死因に結びつける間違いは起こさなくて済んだという事情があったように思われる。同時に既に党中央壊滅後であったから「日本共産党内党中央の凄惨なリンチ事件」の喧伝に力を入れる必要も無くなったという背景もあったものと思われる。
 こうして「古畑鑑定書」は、まず「宮永鑑定書」の損傷鑑定部分に対して「上述の変化の大部分は同被害者の生前暴行を受けた結果生じたものと推測せられます」とした。続いて「ここに於いて小畑達夫の死因として、『脳しんとう死』と『絞頸死』と『ショック死』が問題となって来ます」とした上で、「脳しんとう死」の可能性に対しては、「本件においては、頭部にかかる強大な鈍力が作用したと言う証拠がありませんから、本件被害者の死因としては『脳しんとう』は適当しません」とした。「絞頸死」の可能性に対しては、「前記索溝を絞溝と確定するだけの確かな証拠が無く、且つ本屍には『絞殺死』に見られる病状が顕著に現れていません。よって本屍の死因を『絞頸死』と見るにはその根拠がかなり薄弱であります」とした。以上から考えられることとして、「本件に於いては、被害者は肉体的にいろいろの外力の作用を蒙って居たこと、空腹、渇きの状態にあった事、精神的苦悶(脅迫、暴行によって)を受けていたと思われる事、且つ死亡の直前に於いては、壮年の男子4名と必死の格闘を為し、その間絶えず大声を出していたと言う事により、肉体的にも精神的にも疲労困憊の状態にあったと認められる事等は、『虚脱死』を起こすことを容易ならしめる様な状態にあったものと推測せられます。私は、本件の被害者小畑達夫の死は私たちの言うところの『虚脱死』であると考えます。但し、これは従来『外傷性ショック死』と称せられていたものと同義のものであります」とした。こうして「古畑鑑定書」は「外傷性ショック死」判定を行った。
 こうして、古畑鑑定によって「宮永、村上鑑定書」の「脳しんとう死」鑑定がくつがえされたことになった。この鑑定結果の違いは、はじめの「村上・宮永鑑定書」の「脳しんとう死」判定は殺人罪につながり、「古畑鑑定書」の「外傷性ショック死(虚脱死)」の判定は傷害致死罪につながるという意味で大きな訴因事由の変更につながることを意味していた。この鑑定結果に対して、袴田は次のように述べている。「同僚ともいえる人の鑑定を否定する結論を出すわけですから、やはり勇気がいったと思います。しかも、戦争がひどくなり、日本が戦時体制にはいり、暗黒な反動の真最中におこなわれている日本共産党の幹部にたいする裁判で、その裁判の鑑定人に指定され、それを引き受けて、前の鑑定人とまったくちがう、学問的に良心的な鑑定書を書くということは、わたしにたいして公判廷であらわした態度ともあわせて考えてみて、ほんとうに学者として、良心的な人だと思います」。
 ここは非常に大事なセンテンスなので別段落で確認する。古畑鑑定は、概要「暴行、空腹、渇き、精神的苦悶、格闘」等の具体的事由を挙げて「外傷性ショック死」と鑑定しているということである。にも関わらず、ここの部分が、袴田・宮本により、あたかも古畑鑑定が漠然とした「ショック死」を鑑定結果させていたかのような詐術が行われることになるので、あえて段落替えで明示した。次稿で、この新鑑定結果に対して、袴田と宮本がどういう態度を取ったかを見ていくことにする。