第10幕目のワンショット。こうして我々は「査問事件」における小畑死亡を見てきた。宮本の逮捕も見てきた。驚くことに、この後査問は中止されるどころか一層拍車をかけて進められたという事実がある。つまり、小畑の死亡は「不幸な事件」であったのではなく、党内労働者派もしくは残存戦闘的活動家駆逐の狼煙となったということが分かる。既述したように12.24日の赤旗号外は、「革命的憤怒に依って大衆的に断罪せよ」なる題下で、断固としたスパイ摘発の推進を指令していた。これを指導したのが袴田であり、実行したのが木島ラインであった。34.1.10付けの「赤旗」は国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の署名付きで「全党の全機関組織を挙げて決起せよ!挑発者を執拗に追撃し奴らを全部的に清掃するために闘え!プロレタリアートの闘争を破壊せんとした裏切り者を組織の隅々から引きづり出して革命的裁判、大衆的断罪によって戦慄せしめよ!」なる激越字句を以てさらなる党内スパイ摘発の続行を煽っている。「さし当たり中央委員会としては、これら不純分子を一括して除名処分に附する旨を決定し、これを当時発行の『赤旗』紙上に発表した」(袴田第15回訊問調書)というのである。こうして前年末の荻野査問未遂事件、翌34年(昭和9年)1.12~2.17日大沢武男査問事件、同1.17~2.17日波多然査問事件などが引き起こされることになった。大沢は党中央財政部員であり、その査問は木島と富士谷真之介を中心として行なわれた。波多は党東京市委員会江東地区委員であり、その査問は木島と加藤亮を中心として行なわれた。大沢・波多事件の場合いずれも激しい暴力が行使されている。これら二つの査問は、「査問を中央委員会に於いて承認し、木島をして指導統制に当たらしめ実行せしめたのであります」(袴田第15回訊問調書)、「具体的に査問の状況の報告は無かったが、波多についても又大沢についても彼らは自白こそしないが、スパイである事は客観的に認められたと言う趣旨の報告がありました」(袴田第3回公判調書)とある。この査問が如何にいい加減なものであったかは、「しかし、波多、大沢の両名が警察と連絡のあるスパイであったか否かの点については大泉等ほど明瞭でなかったと思います」(袴田第15回訊問調書)ということでしれる。この後「全協」責任者小高保の査問が計画されていたが、その途中で木島が逮捕されたので中止のやむなきにいたった。小高については「査問は中止されたもののスパイ嫌疑濃厚だったので除名しました」(袴田第3回公判調書)とある。こうなると滅茶苦茶であるがこれが史実である。ここで、木島は「査問事件」に関わる貴重な陳述をしている。「初め私は、査問という事はよく分からず、喫茶店で皆で聞くくらいに考えておりましたが、小畑及び大泉等に対する中央委員会の査問を親しく見聞きするに及んで、党の査問と云うものがどんなものであるかと云うことを知りました。小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまったのであります。しかも大泉に対する場合もあれ程のテロをやり、漸くスパイである事実を白状しました。従って、私もスパイに対してはあれぐらいのテロはやらなければなるまいと考え、波多の査問についても、右の如くテロをやる決心でありました。スパイは万死に値すると徹底的に憎んでいたので、テロの結果あるいは波多が死ぬかも判らない、しかし死んだって構わないという考えは胸中にありました」(木島予審調書)。つまり、木島は、対小畑・大泉の「査問事件」を手本として「小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまった」やり方を真似たと言っていることになる。
ちなみに波多然は、手記「リンチ共産党事件について」(経済往来昭和51年5月号)でリンチの様子を次のように明らかにしている。「査問は、実際は、嫌疑ではなく、スパイであることの自白の強要であり、数日間ではなく、数ヶ月間であり、……残忍なテロによる強迫であった」云々。してみれば、小畑・大泉の「査問事件」はこういう党史的背景において捉えられねばならないということになる。「政治というものが避けようもなくその底に秘めている暴力性に目を閉ざして、うわべのきれいごとで身を装うことの欺瞞性を強く指摘したい」(栗原幸夫「戦前日本共産党の一帰結」)という栗原氏の指摘は史実を的確に踏まえた提言であると言えよう。なお、この査問前後の頃からと思われるが、木島と袴田との折り合いが悪くなっているようである。これが木島転向の伏線となる。私の推測であるが、「さすが労働者だ」とおだてられながら便利に使われてきた木島が、この時点に至ってようやく使い捨てのテロリストとして扱われている己の存在と、スパイとされている被査問者こそが戦闘的活動家であるのではないかと気づきはじめたということではなかったか。これら一連の経過を見たとき、党内査問の黒幕に宮本が位置し、袴田を矢表てに立て、木島を特攻隊隊長として利用していた様が見えてくる。既述したが、宮本氏が中央委員に登場して以来「査問事件」が党内に発生してきており、「査問事件」以前以降に宮本ラインの影が見えており、党内の戦闘的活動家に照準を合わして遂行された気配があるということも又見えてくる。なお、党内査問についてはもう一つのラインも見えているが本筋から外れるので割愛する。
次のショット。袴田の動きは意図的か結果的にかは別にして至る所変調にしてアヤシイ。「この間両名とも週2回くらい各別にあるいは一緒に連絡を採り、大泉・小畑両名に対する査問終了後の党当面の方針、党員再審査の件につき協議決定しておりました」(袴田15回調査書)とある。党内の清掃事業としての査問事件と並行して彼が手がけたのは、「党員の再審査及び党員の細胞への再編成」(袴田15回調書)であり、「しかし、爾後党中央部並びにその全組織に加えられた弾圧のため、この事業を完成することが出来なかったのははなはだ残念であります」(袴田15回調書)、「これらの任務を遂行する為の基礎工作として且つ党を真のボルシェビキー党足らしむる為その組織整理の必要と不純分子の排除掃討を行いこれによって党を防衛する為、昭和9年1.10日頃逸見、秋笹等と会合して、私の提案に基づき党員資格の再審査を実行することに協議決定しました」、「優良分子のみを党員として再登録することにしましたのであります」、「この整理事業が略完成したのは同年2.20日頃でした」(袴田16回調書)とある。党員の再審査とは、全党員に可及的急速に経歴書を再提出せしめるということであり、これが官憲に奪取される危険を思えば無神経極まりない提議であったことになる。袴田が「私の提案に基づき」と言いなしてはいるが「党内査問の強化」とこの「経歴書提出」が宮本の指示であったことは既述した通りである。
「経歴書提出」は、、当時の状況からしてあまりにも無謀な方針であったが、強権的に発動され、袴田執行部に対する信任の踏み絵的に取り扱われたようでもある。これを裏付ける次の様な陳述がなされている。「党員再審査に当たり、中央部では、一応彼(山本秋-反中央派であった)に会って意見を聞き警告を発した上、彼が中央部の方針を承服するなら再登録を許し、もし承服しなければ資格停止その他の処分をしようということになり」云々(袴田17回調書)とある。これが本人陳述の史実であることをしっかり銘記せねばならない。つまり、袴田執行部は、一方で公然とスパイ清掃事業を遂行しつつ他方で特高直通の機密漏洩になりかねない背信行為に血眼になっていたということになる。但し、「経歴書提出」はさすがに党内の抵抗があってうまく運ばなかったようである。後日押収を考えると危険極まりないこととされ、会議の席上逸見・袴田・秋笹3名立ち会いの上焼却廃棄処分として粉塵に帰した模様である。この間機密が漏洩されていた可能性は充分考えられる。
次のショット。1月上旬頃、袴田執行部と「全農」(又は「全会」とも表記する)との会合が持たれ、「査問事件」の経過について説明の会合が持たれた模様である。「全農」は小畑・大泉系の農民運動組織であったから無関心ではおれなかったということであろう。袴田と秋笹・逸見の3名は、党のフラクションであった「全農」の責任者宮内勇と日本消費者組合連盟の元書記長であった山本秋と会見した。この二人は、その場では納得したようであったが、後日分派的動きを始めることになる。ここで貴重な証言がなされている。「(宮内は)爾後全会の指導を担当せる逸見と連絡を執り、なお赤旗編集への協力の為秋笹とも定期連絡を執ることに決定したのでありますが、その後逸見とは連絡を執りましたが、秋笹との連絡は逸見を通じて拒絶して来、逸見以外の者とは連絡することを欲せずと云う態度を表明しました」、「その頃既に宮内が党中央部に対して何ら根拠のない不信を抱いて居ることが窺われたのであります」、「彼は、それから逸見と連絡を執る度ごとに大泉・小畑に対しては党中央部から除名処分の外に死刑の判決が下ったのだろうと云う意味の質問を逸見にしていたとのことで、これに対し逸見も大いに憤慨し私たちも宮内のこの行動に対しては甚だしく不満でありました」(袴田16回調書)とある。会談の結果、宮内・山本らが納得せず、大いに不満を覚え党中央と袂を分かつことになった、連絡線として唯一逸見のラインだけを残したと読みとれる。
次のショット。2月頃宮本のもう一つの指示であった「全協」解体が策動されている。2.17日赤旗は、「全協内における挑発者の存在を大胆に確認し、彼らに対する断固たる公然の闘争を開始せよ」と呼びかけている。3.8日赤旗は、「全協フラク責任者オッチャン事小高保は全協内に挑発者の元凶で、小畑・大泉の告白によれば、全協関係一切の報告、公文書等を秘密警察に渡しているスパイ」だとして除名広告を出した。「全協と東京市部協議会とが対立しておりましたので、党中央部としては東京市部協議会を中心として全協を再建し関東地方協議会を結成し更にこれを全国協議会に迄発展せしめんとする方針を決定したのです」袴田3回公判調書)とあり、東京市委員会川内唯彦、江東地区委員古川らにこれを命じたという。この背景には、党と「全協」中央との激しい対立があった。小畑がこの「全協」出身であったことは既に見てきた通りである。これに対して「全協」側は、「労新」で、党の方こそ「全協」分裂を策す挑発者だと反論している。以降互いを挑発者呼ばわりするキャンペーン合戦が続けられた。ことここにいたって袴田ら党中央は前述の如く第二全協をでっちあげ「再建」に乗りだそうとしたということである。労働組合に対する党の介入というレベルを越した完全なる分裂策動であったことになろう。他方で、この間「全協」に対する当局の弾圧が苛酷さを増して、1月から4月までの間に専門部員がほぼ全滅、5月には小高委員長を始め残りの中央委員が検挙されて、壊滅状態となった。内から外から「全協」つぶしがなされたことが歴然であろう。
次のショット。逸見・木島は昭和9年2月下旬、秋笹は4月上旬頃検挙された。秋笹が検挙された後、「宮内勇・山本秋らが中心となっていわゆる『日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会(通称多数派)』なるものを結成して、党中央部に対立し分派活動に出ている」(袴田16回調書)。この年4月以降の袴田執行部時代とは、この新たに形成されつつあった潮流との戦いが専らとなり、「私は、爾後闘争の重点を同派の徹底的粉砕に置き、これに対し検挙に至るまで断固として闘争して居りました」(袴田16回調書)とある。「党の鉄の規律蹂躙」、「挑発的分派的行動」、「党の機密事項を党外大衆に暴露」という非難を浴びせて封殺に血眼になり、「私の態度が正しいものであるあると信じて疑わない」(袴田17回調書)というのが袴田の癖でもあった。もはや、ほとんど吐き気がするが、宮本-袴田ラインはこうして残存していた党内の戦闘的活動家に対して内から仮借無き闘争をしかけていたということになる。党内的な戦いにのみえらく戦闘的になるという戦前戦後の一貫した特徴の現れがここでも見て取れるであろう。
私には、この多数派の主張に数々の評価点が認められる。最大の指摘は、「(査問事件とは、)大泉・小畑の査問当時から党中央部に巣くっていた挑発者一味が組織せるテロであるに違いない」(袴田17回調書)、「党中央部はプロパガートルによって占領せられ、それが為に不祥なる査問事件を惹起し、現在その中央委員として残留せる袴田もスパイである」(袴田18回調書)というものであり、「故に、我々多数派は現在党に中央部が存在するもこれを信頼することが出来ない」、概略「もし、仮に健全なる中央部が存在するとすれば、次の5項目に付き政治的回答を与えよ。……その2番目は『査問真相』の発表である」(袴田17回調書)云々と詰問したことに認められる。つまり、多数派の主張は、宮本-袴田ラインが党内スパイを摘発したのではなく、党内スパイラインによって小畑がテロられたのではないかとみなしていることが判る。こうしてお互いが挑発者呼ばわりすることとなった。概要「最初いわゆる多数派は、宮内等数名より成る党内の一派として結成されたのでありますが、我々との闘争の発展過程において非党員のみならず、党籍を剥奪された者を結合するに至り、最後には党と対立抗争する党外の者とも結託してしまっていました」(袴田17回調書)。つまり、「党中央奪還派」は次第に支持の環を拡げて行き「多数派」になりつつあったということである。この当時の残存活動家の多くが「党中央奪還派」の主張の方を支持していたということになる。このような声明は約4回にわたって発表されたということである。
袴田は、「最初彼らは、宮本が検挙される前からの中央委員会の行動方針を挑発的なものとして非難したにも拘わらず、後にはその全責任を私にありとして私をスパイあるいは挑発者として取り扱ったのであります」(袴田17回調書)と妙な陳述をしている。つまり、それを言うなら宮本に言え、私だけを挑発者呼ばわりしないでくれと言っていることになるが、検討に値する。袴田はこうも言う。「仮に彼らの意見が全く正当なりとすれども、彼らの提起せる方法が党規約を無視し、党破壊の方向へ進むものであつたが故に云々」(袴田17回調書)。つまり、たとえ「意見が全く正当なりとすれども」規約を守って手順を踏んで欲しいということのようである。「これが党中央部に対する上申書の形式で提出されたものならば解答もするが、右声明書と党員のみならず合法的ないし非合法な広範組織に対し配布された形式であるので、これに対しては党の権威・中央の信頼を傷つけるものであるので何ら解答をせずなおその出所を調査したところ云々」(袴田3回公判調書)。つまり、そういう手順を踏まずにビラを撒いた行為がいけない、そうした行為は「党の権威・中央の信頼を傷つけるものである」というのである。どこかで耳にたこができるほど聞かされているセリフの様な気がするではないか。
次のショット。こうした党の分裂状態に対する折衷案として、昭和9年7月頃、コミンテルンにいた野坂よりいかにも野坂らしいコメントがなされている。「インプレコールに『党の分裂を防止せよ』と題する論文を発表しておりますが、彼は、この多数派の運動を党下部組織大衆の愛党的精神より出発する一つの革新運動であると見、しかもその運動の手段手法は分派的形態を採るがゆえに誤っておるとしております。しかしてその解決方法として中央委員会と多数派とを融和させる為に双方から信頼され得る同士を以て委員会を構成しそれに総てを一任せよと提案しております」(袴田17回調書)とあるように、野坂は、日本のブル新の報道により材料を得たのであるがと前書きした上で、「かような事が分派的闘争であるならば誤りである。党に分派は許されぬ」(袴田3回公判調書)という立場から、コミンテルンの権威をもって「党中央奪還多数派」の動きの封殺に乗り出していることがしれる。今日、この時点で野坂がスパイであったことが明らかになっている。ということは、このような一見和睦的な仲裁案こそがそうしたスパイ野坂にとって好ましい解決の仕方であったことが知れることになる。それはともかく、「しかし、我々は、コミンテルンの決定ではなく、真の事情を知らぬ誤った前提に基づく野坂の誤った結論であるので之に承服せず、徹底的に多数派の粉砕に努力する事を決定したのであります」(袴田3回公判調書)、「その後コミンテルンが党中央部からのこの運動に関する資料を入手するに及び、コミンテルンは岡野の意見を訂正し、多数派を徹底的に否認するという方針にでるにいたったのであります」(袴田17回調書)とある。心しておかねばならない。このように最初は中立を装いながら介入し、時間を稼ぎながら反対派封殺を画策し、相手の動きを止めたところで除名処分他の極統制的な動きでとどめを刺しにくるということだ。事実「昭和9年9月頃多数派に下った弾圧と共に多数派も全くその勢力を失墜し、その本体を関西地方に移すに至ったのであります」(袴田18回調書)とあるように、こうして「党中央奪還多数派」もまた内から外から弾圧され解体を余儀された。