35年3月袴田が逮捕された。後を継ぐべき中央委員も決められていなかったので、こうして中央委員会は消滅した。ここまで見て判ることは、何と袴田の動きが特高の意向通りに誘導されていたかと言うことである。詳細は別途の機会に譲るが、戦前の袴田の党活動の経過とは、共青、全農をつぶして、党中央をつぶして、全協、ナップをつぶして、多数派をつぶして後入獄していくことになった。してみれば袴田が拷問に会わなかった不自然さは不思議でも何でもなく、特高からの感謝状勲一等に値していたということになろう。こうして考えると、袴田の予審調書と公判調書での饒舌は、事件の真相を隠蔽し、袴田の語るが如き「宮本-袴田的正義」のプロパガンダを党内に浸透させんがために袴田と特高のあうんの呼吸で合作されたものではないのかという構図が見えてくることになる。手の込んだ罠と言える。ただし、袴田という人物をそういうセンテンスでばかり読みとることもないようにも思われる。期せずしてか袴田の陳述が「査問事件」ばかりか当時の党の動きを克明に語った第一級の歴史的文書となっているという点で重要な功績を果たしている。宮本流の予審調書一つ取らせなかった式の対応ではこうした意義が生まれないことを考え合わせると、袴田がいればこそ今日私式のアプローチが可能となったということから見ても袴田という人物の奇態な面白さがレリーフされてくることになる。ある意味で袴田を最大限善意に評価した場合、権力側の謀略に身を委ねることによりそうした権力側のシナリオを後世に残すため党が放った逆諜報者と言えるかもしれない。それが証拠に宮本の懐の中に入り込むことにより時々の宮本の生態を適宜に伝えている節がある。歴史のまか不思議なところと言えよう。
ところで、「査問事件」は党の信用あるいはまた、その権威を失墜させんがために大々的に喧伝されたこともあって、被告人たちのその後の動きも注目されることになった。すでに用済みとして闇に葬るわけにもいかなかったのであろう、延長戦として法廷の場での審判もまた世間に晒さねばならないこととなった。この経過を調査した資料が手元にないので伝聞調でお伝えさせていただくことにする。被告人達の公判は、それぞれ予審終結を経て、宮本を除いて1939年(昭和14年)より開始されたようである。宮本はもっとも早く逮捕されてはいるが、病気で裁判を受けられない状態にあったとされていることもあって、38年(昭和13年)10.10日予審調書のないまま予審終結決定、公判に移ることとなったとされている。他の被告人達より一年遅れて1940年(昭和15年)4月18日から7月20日までの6回開かれており、今日その「公判速記録」があるとのことである。この宮本公判には袴田、秋笹も併合で出席し、「転向」していた逸見、木島の出席問題について被告と裁判長とのやりとりなどが記録されているとのことである。どういうやり取りがあったのか知りたいが私の手元に資料がない。この公判の途中で宮本顕治の病状が悪化し公判は中断された。その後、被告たちは分離公判となった模様である。こうして、宮本を除く被告人たちは事件後の8年後辺り1941年(昭和16年)中になされているようである。一斉であったかどうか判明しないが1941(昭和16年)4月第一審判決、1942年(昭和17年)7月18日に東京控訴院第二刑事部で第二審判決がなされ、12月上告棄却で刑が確定しそのまま下獄したということである。秋笹はこの公判途中で「転向」し、1943年(昭和18年)獄死したという。今この量刑を見るに、刑の軽きより木島が懲役2年(早期転向)、大泉が懲役5年.未決通算700日(スパイ)、逸見が懲役5年.未決通算900日(早期転向)、秋笹が懲役7年.未決通算900日(公判で転向)、袴田が懲役13年.未決通算900日(非転向)という順になっている。
宮本の公判再開は、他の被告人達の確定判決を見届けるかの如く刑が確定した後の、また秋笹獄死後の1944年(昭和19年)6月13日から11月30日にかけて15回開かれた模様である。ここでも速記録はつくられたが、原本は空襲によって消失したとのことである。今日残されている公判記録は速記録を参考にしてつくられていたものということである。同年11.25日結審、12.5日東京刑事地方裁判所第6部で判決。無期懲役を宣告された。「宮本氏の場合は、裁判が遅れたことにより戦時特例法によって控訴権はうばわれており、大審院への上告のみで」(意味がよく分からないが……私の注)直ちに上告したが、翌45年(昭和20年)5.4日大審院で上告棄却、無期懲役刑が確定し、6.17日網走刑務所に服役したようである。党活動歴2年7ヶ月、獄中11年10ヶ月、麹町署、市ヶ谷刑務所を経て10年6ヶ月を巣鴨拘置所で未決囚として過ごし、網走刑務所で最後の4ヶ月間を過ごしたようである。宮本氏の獄中の様子については次稿で見ておこうと思う。
大泉に同様の処分がなされていることが奇異に思われるが、本人のスパイ告知による無実の主張にも関わらず治安維持法違反で問われたということでもある。この辺りを考察すれば一稿出来るが割愛する。簡単に言えば、大泉は、裁判を通じて本人が特高のスパイであったと頻りに告白したにも関わらず公式には認められず、治安維持法違反で5年の懲役刑に処せられたというわけである。控訴したが却下され、45年(昭和20年)8月まで入獄し、敗戦で釈放されるまで獄中に置かれた。しかし、そうはいっても大泉の主張は実質的に担保されていたようであり、実際には予審終結決定後ただちに保釈になっており、長期の保釈期間が与えられ、また確定判決後入獄してからも特別に待遇されていた。普通累進処遇が適用されるのは入所後はやくて6ヶ月以降であるのに、彼は入所後すぐ4級となり、それから3級を飛び越して2級、1級、補助看守となり、例外的な出世をして、その優遇ぶりは伊藤律と共に豊多摩刑務所の双璧だったと伝えられている。仮出獄したのも敗戦の年の8.24日、伊藤律の出所の翌日だった。しかし、いずれにしても数奇な運命を歩んだと言える。
木島のその後のことは分からない。大泉は戦後健在していた由である。秋笹は発狂し獄中死している。発狂の様子、獄中死がいつどこでのことであったか強く関心を持っているが私の手元にはその資料がない。どなたか詳しく教えて頂けたら助かります。逸見についても分からない。無事出所して既述したように野呂全集
の編集に参加していたことまでは分かるがその後が分からない。袴田・宮本のことはご存じの通りである。以上が「査問事件」の全貌である。お読み頂いた方には改めて御礼申し上げます。字句の訂正個所等々目に付いておりますが、いずれ訂正したいと思います。このドラマ構成の責任は当然私にありますが、見てきたような嘘と言われても困る面もあります。もし内容において記述間違いが指摘されれば検討にはやぶさかでありません。ただし、基本的な構図としては、私の得手勝手な推断ではなく、見てきた通りほとんど全てを予審調書に拠っていることをご理解賜りたいと存じます。「調書」の誰の言い分が絶対的に正しいとか間違いであると言い合うことは不毛であると思われます。それぞれ保身的な言い分も付加されていることも踏まえつつ真実により一層近づくこと、ここから貴重な教訓を引き出すことこそが、小畑の真の名誉回復になるのではないか、ひいては党の再生に向けてのベクトルを打っ立てられるのではないかと思うわけです。今思うに、宮本氏は、大泉・袴田らの予審調書全文が開示されないことを前提として公判でも回想録においても言いたい放題言っていると言う感じがしています。ところが好事魔多しそうはならなかったということだと思う。大泉・袴田予審調書の全文が竹村一氏に戦後の古本屋で入手され(真偽はどうでも良いと思うが……私の注)、長い間平野謙氏の手元に保管されていたということである。立花氏の「日本共産党の研究」で一級資料が漏洩されたことにより、もはや秘匿の意味が減じ正確を期すという観点から公開されることになったようである。まだまだ解明したいことは山ほどありますが次稿でもって一応この辺りで締めくくりしておきます。
最後に報告しておきたいことを以下記す。戦後の党の第5回大会(1946.2.24-26日)において宮本顕治らの「査問事件」についての徳田の態度を伝える次のようなエピソードが残されている。この大会の頃徳田書記長と宮本顕治との間で戦前の「査問事件」についての次のようなやりとりがなされていたと伝えられている。例によって袴田氏が明らかにしている。「徳田は、小畑達夫を死亡せしめた査問の仕方を激しく非難し、『不測の事態が起こり得るわけだから、あんな査問などやるべきでなかった。第一あの二人がスパイだったかどうかもわからんし、たとえスパイだったとしても、連絡を断てばそれですむことではないか』と。宮本と袴田は、このとき徳田に食い下がり、『連絡を断ったくらいですむことか』と激論となった」(袴田里見「私の戦後史」)ということがあったと伝えている。このような二人の対立が延々と「50年問題について」まで続いていったというのがもう一つの党史でもあったのではないでしょうか。