投稿する トップページ ヘルプ

「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

「宮本顕治論」その5.宮本の獄中闘争について

1999/11/23 れんだいじ、40代、会社経営

 宮本は、治安維持法違反、殺人、同未遂、不法監禁、死体遺棄、鉄砲火薬類取締法施行細則違反という罪名のもとに起訴された。この間の獄中移動は、まず33年(昭和8年)12.26日検挙され、検挙された後麹町署にて留置され、一年ほど経て市ヶ谷刑務所へ移された。「昭和9年の12月初めに、夕刊で顕治が市ヶ谷刑務所に送られたことを知った時は嬉しかった。いそいそと綿入れを縫って面会に行った。それからは一週間に一回ずつ面会差し入れに行って、まずは(百合子の)憂悶の心も落ち着いた」(平林たい子「宮本百合子」233P)とある。百合子は、この年の12月宮本の面倒を見る必要から宮本家に入籍したようである(この「獄中結婚」 は商業新聞にも取り上げられ話題を呼んだようである)。この語りによると、割合早い時期から百合子の面会がなされていたことになるが、流布されている「それから5年間、原則的に接見、通信禁止の状態に置かれたまま、予審でさらに黙秘の戦いを進めた」説と整合しない。百合子との往復書簡から推測すると「面会が許されるようになったのは34年(昭和9年)末のことである」の方が正確なように思われる。宮本はこの後巣鴨拘置所で未決囚として「11年6ヶ月」(正確には10年6ヶ月になると思われる)を過ごすことになった。宮本は逮捕された直後猩紅熱、その後脚気、36年(昭和11年)には肺病を発病、長い病舎入りがあったとも、37年(昭和12年)夏には腸結核にかかり危篤に陥ったものの奇跡的に生還したとも言われている。この時百合子の面会は拒絶されているので実際の様子は分からない。以上面会許可時期、病気の様子等々について各書において記述がまちまちであり一定していない面がある。この間未決囚であったためか弁当から書籍の差し入れまで割合と自由であったとも言われている。宮本は統一裁判を拒否した形跡があるとも言われているが、逆に本人はそれを望んでいたかのような第10回公判陳述もあり、これを具体的に明らかにした著作がないのでそのいきさつが分からない。こういうことを書くと熱心なタフガイ宮本神話の崇拝者の憤慨を招きそうであるが、であるとすれば逆に真実を教えて欲しい。封印はよろしくない。宮本の深紅の獄中闘争が事実であるとすれば、世界の獄中闘争史に燦然と輝く道しるべになるはずであるから積極的にこれを明らかにして欲しい。
 それはともかく、38年(昭和13年)10.10日予審終結決定。何の陳述も得られないまま予審終結決定書が出され、公判に移ることとなったとされている。「39年(昭和14年)5月母上京し、巣鴨拘置所に宮本を訪ねた」と言われているが、もっと早く百合子の最初の面会時に母を連れ立って行った様子も明らかにされており、してみるとこの辺りの記述も一定されていないということになる。党史では、「その後も拷問は続けられたが、私が一切口をきかないので、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせ無いという持久拷問に移った。外では皇太子誕生ということで提灯行列が続いていた。その頃、面会に来た母親が私の顔を見て『お前は変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問で腫れ上がって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった」(「日本共産党の65年」74P)とあることからすれば、もっと早くの麹町署での面会もあったのかもしれない。それならそれで事実を列挙するのに何の躊躇がいるのだろう、と思う。
 宮本の公判は、「40年(昭和15年)4月から7月まで6回、宮本重病のため一時中断した後、44年(昭和19年)6月から11月まで15回行なわれた。11.30日最終陳述」(党史要約)という記述がなされているが、ここの部分も一定しておらず、平林たい子著作「宮本百合子」239Pによれば、「顕治の公判は昭和18年に始まったが、裁判所側の官吏と看守の他は弁護士と傍聴者として百合子が一人という裁判がずっと続いた」とあることからすれば、43年(昭和18年)頃に法廷で「正義の単独陳述」が滔々と為されていたことになる。昭和18年は19年の間違いかも知しれないが、いずれにせよかように奇妙な法廷開陳であったことは事実のようである。弁護士のこの時の回想録的なものがあれば一級の資料になると思われる。44年(昭和19年)11.25日結審、12.5日東京刑事地方裁判所第6部で判決。無期懲役刑が宣告された。直ちに上告したが、翌45年(昭和20年)5.4日大審院で上告棄却、刑が確定した。この法廷闘争時期を巣鴨拘置所で過ごしたことになる。未決囚であったから比較的自由があったようである。網走刑務所に送られたのは空襲下のあわただしい時期の45年(昭和20年)6月16日、6.17日網走刑務所に入獄した。宮本は、網走に出発する前、面会の百合子に、「まぁ半年か十ヶ月の疎開だね」と言いなしたとある。戦局の帰趨を的確に掴んでいたことになる。10.9日敗戦により「GHQ」の政治犯釈放指令がなされるまでの4ヶ月間をここで服し、この間完全黙秘、非転向を貫いたとされている。獄中11年10ヶ月。
 45年(昭和20年)10.9日午後4時網走刑務所を出所した。宮本37才、百合子46才の時であった。百合子は「9ヒデタソチラヘカエルケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。こうして宮本は百合子の元へ帰ってきた。国分寺の自立会を訪れたのは10.21日と言われている。すでに全国から党員が参集し始めており、再刊赤旗の一号を背負って全国に飛び立っていたあわただしい頃であった。百合子はこの頃、宮本に「後家の頑張りみたいなところができているんじゃないか」と言われたようである。これが百合子の12年にわたる心労に報いた宮本の言葉であったらしい。
 この間の獄中闘争として、「宮本顕治は、警察から予審を経て公判開始までの7年近くを完全黙秘で戦い抜き、公判でも原則的に闘った」、「宮本は、1940年4月から公判廷にたったが獄中で発病し、公判が中断していたが、その後、単独で、戦時下の法廷闘争を続けた。宮本は、あらゆる困難に屈せず、事実に基づいて天皇制警察の卑劣な謀略を暴露し、党のスパイ・挑発者との闘争の正当性を立証しただけでなく、日本共産党の存在とその活動が、日本国民の利益と社会、人類の進歩にたった正義の事業であることを、全面的に解明した」(「日本共産党の65年」85P)と評価されている。「戦前の暗黒裁判においても、結局、宮本を殺人罪にも殺人未遂罪にもひっかけることができなかったという事実」、黙秘権などの認められていなかった戦前において、宮本氏が警察でも予審廷でも一言も口をきいていないとされており、「事件に対する私の陳述は公判廷以外では一切していず、警察調書も予審調書もなかったので、公判陳述が最初で、最後の陳述となった」と記述されている。平野は、こうした宮本氏の不退転の獄中闘争に「心から頭をさげる」、「恐らく自己の姓名さえ承認しなかっただろう。宮本顕治の驚嘆すべき不退転の態度」と感心している。
 この間の獄中の様子として、宮本自身の手になるものとして宮本と中条百合子の間で交わされた往復書簡集「12年の手紙.上下2巻」が出版されており、宮本が検挙されてほぼ1年を経過した時点の34年(昭和9年)の末から、敗戦により宮本が出獄するまでのおおよその様子が伝えられている。この書簡集で気づいたことをまず書かしていただく。二人はナップで知り合い、二人とも他のプロレタリア文学及び文芸評論で、諸作家のプチブル性またはプロレタリア的視点の半端性等々に対して公式論的立場から厳しい批評をなしたという共通項が見いだされる。そのような二人の往復書簡であるから戦闘的左翼の見本になるような通信がなされているものと期待される。が、実際は、そのような二人の書簡集にしては奇異なほどに封建的ないしブルジョアなとも言える精神を横溢させて通信しあってる様がうかがえることはどうしたことだろう。獄中党員は、転向者も非転向者もそれぞれに獄中にあってもコミンテルンの発する新テーゼ、党及び党員の現況と動き、社会情勢の推移について並々ならぬ関心を寄せて探り合っていたのが通例である。例えば、1944年(昭和19年)の頃の巣鴨の東京拘置所のことのようであるが、「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282P)によると、伊藤律とゾルゲ事件の当事者尾崎秀実は「(定時の屋外運動の僅かな隙を窺って、伊藤と尾崎は小声で話する機会が二度会った)私はできるだけ外の情勢、ことに誰が捕まり、だれが無事だとか、家族のことも伝えた。尾崎はあまり話さなかった」という会話をなしていたことを伝えている。が、宮本と百合子の間にはこのようなやり取りの部分は皆無であることに気づかされる。検閲がそうさせたというのであろうが、文芸作家ともなればいかようにも工夫はなしえたのでなかろうか、と思うけど。二人が語り合うのは、専ら宮本の歴史法則的世界観における確固不動の信念の披瀝と相互の古今東西の文芸論の知識のひけらかしばかりである。残りの部分は、それぞれの家族の現況と専ら宮本からする山口の実家に対して百合子が嫁としての孝行を尽くすようにという下りである。もう一つ気になることがある。「査問事件」の真相をめぐって二人の間には箝口令が敷かれていたのかと思うほど触れられていない。二人とも時事社会問題に関心の強い文芸作家である。当然の事ながら宮本が関与した事件の真相をお互いに伝え合うことに何のためらいがいるであろうか。なぜ百合子は尋ねていないのだろう。百合子は法廷にも出ているわけだから確かめることは多々あったと思われるのに。これも検閲のなせる制限であったのだろうか。
 宮本と百合子が唯一衝突した場面が記されている。宮本は、百合子38才記念の贈り物として、第一の贈り物は堅固な耐久力ある万年筆、第二の贈り物はマルクス・エンゲルス二巻全集、これらをどうやって送り得たのかは判らないが贈呈している。この時併せて中条の名前で小説を発表するのを止め、今後は宮本姓にしてはどうかと最大のプレゼントをしたようである。宮本の大変な自信家というかいやはや何とも言えないものがあるが、この時初めて百合子は抵抗を見せている。百合子は「中条百合子」に愛着を示したのである。「あなたはご自分の姓名を愛し、誇りを持っていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ言えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自確固としていてこそはじめて比類無き妻であり得ると信じます」と反発したのである。結局、宮本は、百合子の反対の前にこの提案を取り下げた。が、8ヶ月後に百合子は自分から宮本姓を名乗ることを公にした。既述したように戸籍上だけの姓の変更はすでになしていたが、この度ペンネームもまた中条から宮本へと改めることにしたということである。百合子の無期囚の夫に対する思いやりであった。10.17日始めて宮本百合子名で作品発表する。
 以降彼女の身辺も忙しく、検挙・拘留を繰り返す。最終的に保護観察処分に附されるが、担当主事は特高課長毛利基であったようである。偶然かも知れぬが、こうして宮本も百合子も毛利氏の掌中に入れられることになった。ここでも不思議なことが明らかにされている。前掲の平林たい子「宮本百合子」236Pによれば、宮本は獄中で、百合子の予審調書を手に入れて読んでいる節があるとのことである。後になって、百合子がよく闘ったところや、守るべきとき守れなかったところを指摘している、ということである。宮本は、どうして百合子の予審調書にまで目を通しえたのだろう。
 この間百合子は可能な限り面会に出向きまたは手紙を書き上げており、宮本の健康を案じて言われるまでもなく差し入れ弁当を業者手配で届けており、冬着・夏着・布団と時期に応じて届けている様もうかがえる。言われるままに幾百冊の本と薬と栄養剤を届けてもいる。家計の心配をほとんどすることなく、百合子に注文することができたということであったように思われる。実家の面倒を見ろ云々も半端なものではない。病める体を無理して顕治の要求するままに顕治の実家へ何度も出向かせ、親孝行させるのみならず親戚中にも金払いを良くさせてもいる。こうした百合子が宮本の実家で見せる心配りは封建的賢婦の鏡を彷彿とさせるものがある。書籍に対してあれを探せ、これを送れも次から次ぎの注文であり「甘え」というレベルのものではない。実際に確かめられたら良いかと思う。どうやら百合子の父の財源が頼りにされていた節がある。時に躊躇を見せた百合子に送った手紙の文面は、「金の具合はどうなのか。ユリのゼスチュアはいつもピーピーらしいから-今月はないとか、不定期にしたり、少なくしたり-無理は頼みたくないから本当のところを知らして欲しい云々」というものであった。嫌らしい婉曲話法で百合子の躊躇を叱咤しているように窺うのは穿ちすぎだろうか。
 こうした獄中生活は、他の同志のそれと比較してみた場合いかほど奇異な豪奢な生活であったか、と私は思う。他の共産主義者たちは検挙されたその日から我が身に仮借無い拷問が浴びせられ、残った家族の生活を苦慮していたのではないのか。面会人が訪れることもなくあったとしても世間体を憚りながらの僅かにあるかなしかの身の者が通常であったことを思えば、宮本はいかほど幸せ者であったことであろうか。ちなみに、宮本は百合子の差し入れる弁当により、同じ獄中にある共産主義者もうらやむ上等な食事をとることができたとも、「他方で、宮本は、11年間過ごした巣鴨について、そこでは収容者を殴ることを日課のようにしていた看守たちから、彼自身は殴られたことはなかったと書いている。宮本が巣鴨刑務所に服役中、隣の房に入れられていた運動家が証言しているところによると、宮本はいつも上等の差し入れ弁当を食っていた、という。官給のモッソオメシと云われた臭い飯しか食ったことのない者からすれば羨ましい限りであったとも云われている」とも書かれている。(中村勝範「宮本顕治論」217P)。
 ここに貴重な証言がある。前掲の「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282P)によると、「尾崎と4、5房先に神山茂夫がいた。この二人は顔が利くので、めったに買えない獄内売りのあめだまを手に入れられた。神山は時折房を出て勝手に廊下をよぎり、私の房の扉を開け、『おい、伊藤律がんばれ』とあめだまをくれたりした。その丁度真上に当たる二階の独房に宮本顕治がいた。三度とも差し入れの弁当を食べ、牛乳を飲み、尾崎の薄着とは違いラクダ毛のシャツや厚いどてらを着ていた」とある。屋外運動の時には党員同志顔をあわすこともあったものと思われるが、この辺りの回想も伝えられていない。
 いわゆる宮本の「網走ご苦労説」も正確に理解する必要があろう。宮本が網走刑務所に服役したのは、6月から10月までの割合と過ごしやすい4ヶ月の間である。この頃の様子については、宮本自身の「網走はそう長くないんです。戦争が終わる年の6月に行って、10月に出ましたから、一番気候がいい時期にいた訳です」(「宮本顕治対談集」116P)、「(網走には春、夏、秋と一番いい気候のときにおった)網走というのは農園刑務所と云いましてね。農作物を作る刑務所なんですよ。ここでジャガイモがうんととれる。東京の刑務所ではおみおつけの実が何もない、薄いおつゆでしたが、網走ではジャガイモがゴロゴロしていて、ジャガイモの上に汁をかけるようで、食料条件がよかった訳です。(中略)それで体重が60キロぐらいになったんですよ。60キロというのが私の若い頃の標準でね。(中略)そういう訳でむしろ健康を回復したんですね」(「宮本顕治対談集」376P)という回想録がある。
 いよいよ最後になった。袴田は、第7回調書で貴重な「袴田式スパイ判別閻魔帳」を開陳している。参考になると思われるので以下記す(要約)。「4つの基本方針」があると言う。「共産主義的人物道徳観」を聞かされるよりよっぽどためになるように思われる。主に小畑のスパイ性を意識して言ったものであり、袴田が言うのもどうかと滑稽な気もするが本人はマジで言っているようである。その一、その人物が革命運動に対し熱烈な信念を持って行動しているかどうか。この信念を全然欠ける党員ありとすれば、それは不純な分子として先ず目星を付けなければならない。その二、物事を誇張して言いふらすことや偽りを云う様なことはないか。軽い程度の範囲なら見逃すことができるが、これが特にひどい様な場合あるいは重要な事柄をしばしば偽って云う様な場合には常に警戒を要する。その三、言行が一致しているかどうか。スパイはスパイの行動があまりにも明白な非党員的である場合には直ちに摘発されるからして彼らは時には最も真剣に働く者であるというような態度を採る。あるいは或る会場の席上に於いて優れた意見等を提出して他の同志の信頼を深めようとするけれども、いざ実行の段になると彼らはその席上に於いて述べた優れた意見通りに活動せず、且つその意見が他の同志等によって遂行されることを極力妨害したり或いはさぼったりすることは彼らの常套手段である。その四、他の同志に対して同志的であるか或いは冷淡であるか。これはスパイを摘発する場合に重要な事柄であります。弾圧の激しい日本の革命運動の中に於いて活動する共産党員は相互に相扶け合うと云うことは絶対に必要なことであります。スパイは党組織の発展の為に身命を放擲して働く共産党員に対して同志的気持ちを持たない。そしてそのことが意識的に彼の党員に対する非常に冷淡な態度となって現れたのであります。
 最後に。一応ここで本稿終了となります。補足的な論考もいくつか可能ですが、そろそろ幕引きと致します。お読みいただいた方にまことに感謝申し上げます。言いたいことは、たかが人生、されど人生、何事も事実から出発させた英知によるブリッジ的な運動の積み重ねをしたいという気持ちばかりです。