第8期(69年)【全国全共闘結成と内部溶解の兆し現出】
この時期は、「70年安保闘争」のクライマックスとなる。つまり、実際の70年はこの69年に及ばなかったということになるが、この経過の昂揚と衰退の陰りの要点を見ておくことにする。年明けの1.18日東大で「安田砦攻防戦」が闘われた。この闘いは、東大闘争の決戦としてのみならず、全国学園闘争の頂点として注視の中で戦い抜かれた。全共闘運動はこれ以降封鎖解除と再封鎖を交錯させつつ全国全共闘結成により「60年安保闘争」を上回る闘争を指針させようとしていくことになる。この間4つ目の全学連として誕生していた反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、3月社学同側が単独で大会を開催し、社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派も解放派全学連として独立させた。この年は国立大学75校中68校が、公立大学34校中18校が、私立大学270校中79校という実に全大学の半数(紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校)でストライキ-バリケード闘争が頻出した。当時の全国の大学総数の37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。
全共闘運動は、ノンセクト・ラジカルと多岐多流のセクト潮流を結合させて9.5日全国全共闘連合の結成に成功した。ここまでが「70年安保闘争」の「正」の面であったと思われる。ところが、私論ではあるが、全国全共闘連合は結成の瞬間より70年を待つことなく自壊していくことになった。その理由として三要因が考えられる。後述するが一つは、結集した各派セクトが自派の勢力の拡張と指導権をとることを優先させ、金の卵全共闘運動を自らついばんで行くことになった。全共闘運動はあまりに大きく結成されたこともあってか統一的な運動を御していくことが出来なかった。個々の自立的な運動から始まったノンセクト・ラジカルが組織活動を担わねばならなくなった自己矛盾であったかもしれない。一つは直前に誕生した 「共産主義者同盟赤軍派」による更なる突出化闘争の否定的影響である。もう一つは、この頃から革マル派と社青同解放派、中核派間に公然ゲバルトが始まり、70年を目前に控えた最も肝心な69年後半期という不自然な時期にオカシナことが起こったことである。これらが否定現象となりつつ、長期化する闘争にノンセクト・ラジカルが脱落し始め、一般学生のサイレント・マジョリティーが民青同の動きを支持し始める流動局面が生まれていった。「70年安保闘争」はこうして本番の70年を向かえるまでもなく急速に大衆闘争から「浮き」始めていた。私は、どこまで意図・誘導したのかどうかまでは分からないが公安側の頭脳戦の勝利とみる。同時に日本左翼は本当のところ「自己満足的な革命ごっこ劇場」を単に欲しているのではないかと見る。併せて、いわゆる内ゲバ=党派間ゲバルトについて、それを起こさせない能力を左翼が初心から獲得しない限り、不毛な抗争により常に攪乱されるとみる。
(学園闘争の流れ)
1.4日加藤総長代行による非常事態宣言が発表され、東大闘争が決戦化の流れに入った。1.9日「7学部集会」を翌日に控えたこの日、東大全共闘が、民青同の根拠地化していた教育学部奪還闘争の挙に出て民青同と激突。これを見て大学当局の判断によって機動隊が導入された。この時の機動隊導入は、学生運動内部のゲバルト抗争に対してなされたものであり、それまでの対大学当局と学生間の抗争に関連しての導入ではないという内容の違いが注目される。「東大では、学生、教職員自ら暴力集団の襲撃を阻止し、校舎封鎖を解消する闘いを進め、1.9日には、7学部代表団と大学当局との交渉を妨害する為に各地から2千人をかき集めて経済学部、教育学部を襲った暴力集団の襲撃を正当防衛権を行使して机やいすのバリケードなどで跳ね返した」、「党は、これらの闘争が正しく進むよう積極的に援助した」(「日本共産党の65年」257P)とある。
1.10日秩父宮ラグビー場で約8000名の学生を集めて東大「7学部集会」が開かれた。医・文・薬学部を除いた7学部、2学科、5院生の学生・院生の代表団と東大当局の間で確認書が取り交わされた。民青同がこれを指導し、泥沼化する東大紛争の自主解決の気運を急速に盛り上げていくことになった。予想以上に多くの学生が結集したと言われている。紛争疲れと展望無き引き回しを呼号し続ける全共闘運動に対する厭戦気分が反映されていたものと思われる。「7学部集会」では、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が誤りであることを認め、学生・院生・職員も、それぞれ固有の権利を持って大学の自治を形成していることを確認する」などが確認された。この確認書の内容は、当初全共闘側が目指していたものであるが、全共闘運動はいつの間にかこうした制度改革闘争を放棄し始め、この頃においては「オール・オア・ナッシング」的な政治闘争方針に移行させていた。全共闘は、民青同ペースの「7学部集会」に反発するばかりで、制度改革闘争を含めた今後の東大闘争に対する戦略-戦術的な位置づけでの大衆的討議を放棄していた観がある。なぜかは分からないが、運動の困難に際したときに、決して大衆的討議の経験を持とうとしないというのが新旧左翼の共通項と私は思っている。この頃より一般学生の遊離が始まったと私はみる。それと、全共闘運動がなぜ制度改革闘争を軽視する論理に至ったのかが私には分からない。果たして、我々は戦後人民的闘争で獲得した制度上の獲得物の一つでもあるのだろうか。反対とか粉砕とかは常に聞かされているが、逆攻勢で獲得する闘争になぜ向かわないのだろう。
1.12日東大、民青同と右翼系の手により6学部でスト解除。この頃より安田講堂の封鎖解除を促すために大学当局より機動隊導入が予告された。1.15日東大全共闘が安田講堂封鎖を強化し、各派から500名が籠城した。こうして全共闘運動は東大安田講堂決戦(東大時計台闘争)でクライマックスを迎えることになった。この時の民青同の動きが次のように伝えられている。機動隊の安田講堂突入の事前情報をつかんだ宮本氏は、再び川上氏に直接指令を出し、“ゲバ民”側の鉄パイプ、ゲバ棒1万本を一夜の内に隠匿、処分させた。この時の革マル派の動きが次のように伝えられている。同派はこの時他セクトとともに全共闘守備隊に入っていたが、機動隊導入の前夜に担当していた法文2号館から退去、そこに機動隊が陣取ることで封鎖されていた隣の法研・安田講堂の封鎖解除を容易にさせるという不自然な動きを示した。
1.18日東大闘争の決戦として安田砦攻防戦が闘われた。機動隊8500名出動。二日間にわたって激闘後落城。「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」という東大全学学生解放戦線の今井澄氏が午後5時50分メッセージした。この間の様子は全国にテレビ放送され釘付けになった。全共闘の闘いぶりと機動隊の粛々とした解除と学生に対する生命安全配慮ぶりが共感を呼んだ。神田で各派が東大闘争支援決起集会を開き、集会後解放区闘争を展開した。
革マル派は肝心なところで「利敵行為」と「敵前逃亡」という二つの挙動不審(安田決戦敵前逃亡事件)を為したことにより、これ以後全国の大学で同派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられた。革マル派は、この事件以降今まで批判していた武闘的闘争を少数の決死隊によって行なうようになったが、アリバイ闘争と非難される始末となった。但し、革マル派の本領はこれから発揮されることになった。以降、いわゆる新左翼内で、革マル派と反革マル派との間にゲバルトが公然と発生する事態となった。いざゲバルトになると革マル派は強かった。街頭での穏健な行動とのアンバランスはかえって他党派の怒りを買うことになった。
1.20日東大・文部省と会談。入試中止最終決定。これ以降広島大、早稲田大、京都大などでも全国学園砦死守闘争が展開された。この経過で「60年安保闘争」を上回る「70年安保闘争」が課題となり、ノンセクト・ラジカルと反代々木系各派(革マル派を除く)は運動の統一機運を盛り上げようと連携していくことになった。「60年安保闘争」を上回る闘争を目指して多岐多流の潮流がうねりとなって9.5日の全国全共闘連合になだれ込んでいった。これが69年における「70年安保闘争」の「正」の面であった。京大にも機動隊導入。1.29日全国各地の大学で闘争激化。東工大無期限スト突入。横国大全学部無期限スト。1.30日京大教養学部スト突入。1.31日阪大教養無期限スト。2.11日日大闘争勝利5万名集会。2.14日京大、京大全共闘と民青同激闘。時計台一階を奪還。2.19日中央大、全学封鎖2ヶ月ぶりに解除される。2.21日「東大闘争勝利。労学市民連帯集会」に5000名参加。2.28日広島大本館封鎖。3.3日京大・九大・広大・岡大で入試中止闘争。3.22日東大校内で総決起集会。東大全共闘・日大全共闘3000名結集。3.31日東大で機動隊が封鎖解除。4.1日早大で反戦連合が第二学生会館突入。以降騒動化する。4~12月にかけて広島大、早稲田大、京都大など全国学園砦死守闘争が展開された。5.10-19日東大闘争分離公判粉砕・破防法粉砕闘争。5.14-15日京大全共闘、医学部校内を全面封鎖。学生部再封鎖。5.21日日大闘争1周年全学総決起集会。4000名が理工へデモ。校舎内に突入。5.29日早大闘争勝利全国学生連帯集会。各派3000名と早大生2000名が合流デモ。6.2日専修大バリケード封鎖。6.4日同機動隊導入。解除。6.11日、日大全共闘、日大闘争バリスト1周年全学総決起集会、5000名がデモ。6.30日京大教養部民青同系代議員大会粉砕。3000名結集し、機動隊と民青同制圧、時計台前で大学治安立法粉砕集会。7.10日大学立法粉砕闘争。早大に8000名結集して国会へデモ。早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成、全学バリスト突入。
8.17日「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行された。各大学当局が、積極的に警察力によって事態を収拾しようとする姿勢に転じた。広大に封鎖解除のため機動隊導入。広大全共闘抵抗する(広島闘争)。京大・九大で連帯集会。9.3日早大闘争。機動隊導入。5000名学生が学生会館奪還集会。
9.5日、日比谷野音で「全国全共闘会議」が結成された。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大が副議長に選出されたことからも明らかなように、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の統一連合的共闘運動として結成されたことに特徴があった。革マル派を除く新左翼8派が参加して全国178大学、全国の学生約3万名が結集した。8派セクトは次の通りである。①中核派(上部団体-革共同全国委)、②社学同(々共産主義者同盟)、③学生解放戦線(々 日本ML主義者同盟)、④学生インター(々 第四インター日本支部)、⑤プロ学同(々共産主義労働者党)、⑥共学同(々社会主義労働者同盟)、⑦反帝学評(々社青同解放派・革労協)、⑧フロント(々統一社会主義同盟)。
ところが、私論ではあるが、「全国全共闘会議」は結成の瞬間から三方面より70年を待つことなく崩壊していくことになった。一つは、結集した各派セクトが自派の勢力の浸透と指導権をとることに夢中となり、全共闘運動の更なる組織化・全共闘的理念の発展化方向にも向かうことなく「野合」となった。つまり、ノンセクト・ラジカルとこれに連合した8派セクトによる統一体運動という未経験の重みに対応し得るものを運動主体側が持ち得なかったということである。ノンセクト・ラディカルが新左翼各派の草刈り場としてオルグられていく等の面が強まり、まったく不安定な代物へと転化し、翌年には山本議長が辞任し、全国全共闘はセクト中心の機関運営色が濃くなり、そうした傾向が強まると同時にノンセクト・ラディカルが脱落していくことになった。党派性を越えた自立的な運動主体としての個の関わりを重視するノンセクト・ラディカルとセクトの論理がうまく噛み合わなかったということになるかと思われる。あるいは単に、セクトの責任を問うよりは、寄り集うのも早いがさっと散り得ることを良しとするノンセクトの気まま随意性のせいであったかもしれない。
全共闘自壊要因のもう一つは、全国全共闘連合結成直前に誕生した 赤軍派による更なる突出化闘争の否定的影響があったと思われる。この「全国全共闘会議」結成大会に、この日はじめて武闘派の最極左として結成されていた約100名の赤軍派のメンバーが登場した。赤軍派の登場はマスコミの好餌となり注目されたが、その理論は学生運動の水準を大きく超えていたことにより、全共闘-ノンセクト・ラディカル-シンパ一般学生の結合に向かうのではなく却って分離化作用を促進したと私はみる。赤軍派は、この後さまざまな過激な事件を起こして物議を醸していったが、私は「気質的目立ちがりやの所業」であったとみる。
全共闘自壊要因のもう一つは、この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。これらが否定現象となりつつ、長期化する闘争にノンセクト・ラジカルが脱落し始め、一般学生のサイレント・マジョリティーが民青同の動きを支持し始める流動局面が生まれていった。早くも本番の70年を向かえるまでもなく自壊現象が見え始めることになった。
9.6日革マル派の拠点早大文学部に強制捜査、102名逮捕。9.10日東京外語大に機動隊導入。9.12日長崎大機動隊導入で封鎖解除。9.18日中核派の埼玉大経済学部生滝沢紀昭氏が芝浦工大の大宮校舎内でテロられ、二階の窓から転落死亡。9.20日京大時計台死守。街頭バリケード戦。9.30日日大団交1周年法経奪還闘争。日大全共闘中心に5000名集結。10.4日大阪市大機動隊導入封鎖解除。10.13日九大機動隊導入封鎖解除。10.16日早大機動隊導入、全学ロックアウト。10.20日立大・国際基督大・東京農大機動隊導入封鎖解除。11.8日北大機動隊導入封鎖解除。こうして大学立法に基づく封鎖解除で70年を待つまでもなく学園は平静に戻り始めた。70年には紛争校46校、うち封鎖・占拠されているものは10校と減じた。
(自治会執行部の争奪の動きとその関連)
3月社学同全国大会開催し、社学同派全学連を発足。先に4つ目の全学連として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、社学同もまた自派単独の全学連を結成したということである。この大会で軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」・「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立。
4.28日沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、赤軍派を生み出すことになる共産同派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として「敗北」の総括をした。この総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐる党内論争に発展し、党内急進派は「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである。」(前記「理論戦線」9号)と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張していくこととなった。この流れが赤軍派結成に向かうことになった。
6月の、治安当局の調べでは、全国に約490の反戦青年委員会の組織があり、構成人員は2万人以上だった。そのうち、社会党の指導下にあった組織は半分以下にまで落ち込んでおり、その他は新左翼系セクトの指導下になっていた。代表的党派は次の通り。社青同解放派系、共産同系、中核派系、第四インター系、革マル派系。この中にあって反戦青年委員会の組織作りの初期から参画していた社青同解放派がさすがに主流を保っていた。10県反戦連絡会議の中心勢力は、社会党青少年局を中心とする構革左派「主体と変革」グループ(倉持和朗、鈴木達夫ら)・「根拠地」グループ(三田岳、高見圭司ら)であった。
7.14日革マル派全学連大会。新委員長に大貫氏(早大)を選出。同日と思われるが、社青同解放派もまた単独大会を開き、解放派全学連として独立した。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。7.15日中核派全学連大会。173大学(前大会発表101)・211自治会(前大会発表157)・3400名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派が凄まじい勢いで全学連運動の主導権を握りつつあったということになる。
9月、塩見孝也、高原浩之らの共産同少数派は、新たに「共産主義者同盟赤軍派」を発足させた。7月明大和泉校舎で「内ゲバ」を演じ、ら致監禁された関西派活動家の一人が脱出に失敗して転落死亡するという事件を起こした(7.6日ブント内に内ゲバ発生、赤軍派とさらぎ派激突のことか)末9月共産同「赤軍派」を結成して戦旗派から分裂した。その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力に対する自らの武装を開始せよ!」と高らかに宣戦布告した。赤軍派は、「前段階武装蜂起」を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで武装蜂起的に「70年安保闘争」を闘おうという点でどのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。実際に機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。9月「大阪―東京戦争」事件を引き起こした。
赤軍派の結成に対して、新左翼最大勢力となっていた中核派と革マル派の対応の違いが興味深い。中核派はこれを他人事と思えないといい、革マル派は「誇大妄想患者の前段階崩壊」と揶揄した。既に「街頭実力闘争」についても、両派はその評価をめぐって対立を生みだしていた。これを評価する立場に立ったのが中核派・社学同・ML派であり、「組織された暴力=権力の武装という現実に対して闘いを切り開くためには自らも武装せざるをえない。これによって激動を勝利的に推進しうる」というのが論拠であった。これを否定する立場に立ったのが革マル派・構造改革諸派であり、「小ブル急進主義である。組織的力量を蓄えていくことこそが必要」と云うのが論拠であった。対権力武装闘争の位置づけをめぐってのこの論争は互いの機関紙でなされているようでもあるが、系統的にされていない。後の経過から見れば、「理論の革マル派」と言われるだけあって革マル派の言うことには一々もっともな点が多いと思われる。今後のためにももっとこの種の事に関しての論議を深めておくことが肝心のようにも思う。このころ、警察は中核派に対して本多・藤原・松尾氏などを破防法で逮捕し、破防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。こうした予防拘禁型の検挙に対し、中核派は、「革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメ」ということで、指導部を公然・非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に潜行した。
この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。両派は「70年安保闘争」に向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。こうして、後に満展開することになる「新左翼セクト間ゲバルト=党派ゲバルト」は、既に69年後半期より突入することになった。全共闘運動に対する民青同の敵対は既述した通りであり折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。社青同解放派、中核派は、68-69年闘争の経過で激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中核派は逮捕者が多く、11月闘争で多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたことになっていた。11月28日東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派がゲバルトを起こし革マル派が武力制圧した。中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになった。12月14日糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生した。翌12.15日中核派は革マル派を武装反革命集団=第二民青と規定し、せん滅宣言を出したことで対立が決定的になる。
私は、ゲバルトの正邪論議以前の問題として、「70年安保闘争」の最中のいよいよこれから本番に向かおうとする時点で党派ゲバルトが発生したことを疑惑している。この時のお互いの論拠が明らかにされていないので一応「仮定」とするが、革マル派が、独特の教義とも言える「他党派解体路線」に基づきこの時期に公然と敵対党派にゲバルトを仕掛けていったのであるとすれば、「安田決戦敵前逃亡事件」と言いこのことと言いあまり質が良くないと思うのが自然であろう。つまり、内ゲバ一般論はオカシイということになる。もっとも、これに安易に憎悪を掻き立てさせられ、社青同解放派、中核派両派が「70年安保闘争」そっちのけでゲバルト抗争に巻き込まれていったとするならば幾分能なしの対応と見る。やはり、こういう前例のない方向において運動路線上の転換を図る場合には、大衆を巻き込んだ「下から討議」を徹底して積み上げねばならないのでは無かろうか。その際には事実に基づいた正確な経過の広報が前提にされる。なぜこのように思うかというと、この後検討する予定にしている新日和見主義事件の考察の際にも関係してくるからである。この「討議がない」ということが左翼の致命的な悪しき習慣的組織論に起因している、とみる。補足すれば、大衆討議は、正しさを確信し得る者達だけに可能な路線であると思う。下部構成員はそれを要求せねばならないとも思う。そういうことが出来ない組
織はどこかオカシイ。
(政治闘争の流れ)
3月束京で「救援連絡センター」発足。3.30日三里塚軍事空港粉砕集会。現地反対同盟・反戦青年委・全学連1万2000名が集会とデモ。4.18日 政府、米軍立川基地の拡張計画中止を決定。4.23日、日経連総会で桜田武常務理事、自主防衛力を強調。4.27日中核派書記長本田氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏破防法発動で逮捕される。4.28日沖縄反戦デー闘争。社共総評の統一集会、13万人参加。過激派学生1万名武装デモ。東京駅・銀座・新宿・渋谷などの都心部で、火炎瓶、投石闘争を展開したが、警察の徹底した取締りが功を奏し前年の新宿騒乱闘争を大きく下回る規模の行動に終わった。ベ平連も銀座・お茶の水・新橋で機動隊と衝突。中核派・ブントに破防法。全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。5.17日新宿西口フォーク集会に機動隊が初出動。群集2千人が集まる。以後毎土曜の西口広場でのフォーク集会が7月まで5000名規模で開催された。5.20日立命館大学内の「わだつみ像」が全共闘系学生によって破壊される。5.22日「6行委」と「6.15実行委」(新左翼党派、反戦青年委、全共闘なども参加)の合同世話人会で、中核派など8派政治組織と15大学全共闘とともに市民団体が6.15日に共同デモを行なうことで一致。5.28日229団体により「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15集会実行委員会」正式に発足。6.8日ASPAC粉砕闘争。1万2000名が伊藤駅前に結集。全学連は伊藤警察を攻撃。207名逮捕される。6.9日現地集結に向かう中核派全員逮捕される。6.15日統一行動。東京で362団体主催の反戦・反安保・沖縄闘争勝利統一集会。労農学7万人が日比谷から東京駅へデモ。 全国72カ所で十数万名が決起。6.27日大学治安立法粉砕闘争。各派1万5000名が国会デモ。6.28日新宿西口広場でフォークソング集会。機動隊導入され64名逮捕。7.11日、日本共産党は「べ平連は反共暴力集団」との無署名論文を発表。7.14日大学治安立法粉砕闘争。7.25日入管法粉砕闘争。反戦・学生7000名が集会と国会デモ。9.22日赤軍派、大阪、京都で交番を襲撃。10.4日宮本共産党書記長、10.21集会には両原水禁組織とべ平連は入れるべきではないと発言。10.8日全国全共闘5000名、日比谷野音で羽田闘争2周年の集会。10.10日安保粉砕・佐藤訪米阻止大統一集会に10万人結集。べ平連など市民団体、全共闘、反戦青年委、革マル系全学連など結集。全国各地でもデモ。10.21日国際反戦デー。社共総評、全国600ヵ所で86万人参加。東京では、都公安委員会による一切の集会・デモの不許可に関わらず新左翼系のデモ、各地で警察と衝突各所でゲリラ闘争展開。中核派が新宿・高田馬場を中心に都市ゲリラ型闘争を展開。群衆を交えて市街戦を展開。社学同-全共闘グループは両国・東日本橋で、反帝学評-旧構造改革派グループは東京駅八重洲周辺で、革マル派は戸塚2丁目で。襲われた警察署4,派出所17、一種戦場と化した。逮捕者全国で1508名。そのうち東京1121名。11.5日大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53人が逮捕された「大菩薩峠事件」。11.16日佐藤訪米阻止闘争。蒲田駅付近で機動隊と激突。全国で2156名逮捕される。この日の闘いを機として運動はやがて一方で武装闘争-ゲリラ戦へと上り詰めていく。蒲田周辺に「自警団」誕生。