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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

ためにする批判

2000/1/6 扁桃腺、20代、学生

 先日れんだいじ氏の「査問事件論」を一括ダウンロードして拝読させて頂きましたが、読んでいる途中で何故これが討論欄に特別に分類されて掲載されているのか不思議に感じました。
 『「査問事件」の考察は本来党外の私がせねばならない必然性はないのですが、宮本ご神体無条件護持派と興ざめ派と罵詈雑言派とが感性一つ頼りに混在しているだけという状況が今日まで続いており、いずれにも共通するのは没実証性です。これは不真面目な精神と考えています(私が真面目だという意味で言っているのではなく、とかく人のことは批判しやすいというただそれだけのことですが)。日本左翼の再生があるとしたら、こういう不毛な対立手法を終焉させることであり、少なくともその役割の一つを私のレポートで果たすことが出来たらという思いを込めて発信しています』という氏の文章を読んで更に疑問を持ち、二三感じたことを書き送ります。

 「こういうことを書くと熱心なタフガイ宮本神話の崇拝者の憤慨を招きそうであるが、であるとすれば逆に真実を教えて欲しい」というような書き方は一見これら「崇拝者」を皮肉っているように読めるが、結局れんだいじ氏本人も真実を書いていないと告白しているに過ぎない。無論真実はいまだ明らかではなく、宮本本人が全てを告白して死ぬという事もあり得ないだろう。しかし、何一つ新事実を持ち出さないまま調書や人の著作等の断片を推測で張り合わせて出来上がったこれら文章は一体何なのだろうか? れんだいじ氏自身がおっしゃるように、むしろ党史がその時々の事実の記録のみに徹するようになることを私も望むが、氏の行なっていることは事実の記録とはかけ離れている。調書あるいは公判記録の証言内容における宮本個人に対する描写に、疑問が呈されている箇所が見受けられないのがそのひとつである。その他の証言内容にはまま「推測」が付け加えられてあるのに対して。個人的にどう思うと勝手ではあるが、諸事実の綜合(それを真実と呼ぶのか)を目指すのであれば、不明な点はそのまま留めておくべきであり、取捨選択あるいは推測を添えるべきではない。そのような手法はまさに氏がタイトルで使っている通り「再現ドラマ」に過ぎないし、その内容は昼間のワイドショーで流されるに相応しいものである。さらに、意見を述べたければ語尾をぼかすのを止めていただきたい。責任逃れにしか聞こえないですよ。
 あるいはもうひとつ。「全ての悪を、スターリンの個人的欠陥として告発することだけに事実上終わっているから、(批判が)個人崇拝という枠内に留まっているのである。以前は、あらゆる正しさは一人の男の超人的な才能に負っていた。そして今は、あらゆる誤りはその同じ男の、他に類を見ない恐るべき欠陥のせいなのである。どちらの場合をとっても、マルクス主義の本来の判断の基準からはずれているではないか」という、氏が序章で引用されたトリアッチの一節。氏のしていることはこの「今は」以下の文章に示されていることではないだろうか? 宮本の個人的性格・心理の描写に手を伸ばすことは、裏を返せば「あらゆる正しさ」の「超人的な才能を持った一人の男」を氏が(心の奥底で)求めているように見受けられる。近親憎悪でしょうか? 学会員ではない私が池田大作の「レイプ疑惑報道」になんの感心も持たなかったように、このような書き方は極度の反発あるいは無関心しか呼び起こしません。れんだいじ氏の文章から読みとれるのは「宮本顕治憎し」のみで、宮本に興味のない私には単純に読み物としても面白くありません。冒頭に引用した氏の文章は何なのだろうか? もし氏が本当にこの冒頭の文章のようなことを目指しているのであれば、もう少し工夫が必要ではないでしょうか。重要なのは理念だけではなく理念を現実化する「手法」であり、そしてそれは人に読ませるための文章を書く際の必要最低条件ではないでしょうか。人に話を聞いてもらいたければボソボソ喋らない!