初めに。ここで考察しようとしている全共闘運動は、あくまで大学生運動であり、中卒・高卒者を含む青年労働者をも巻き込んだ広範な政治運動までには発展していかざる枠組み内の限定的エリート的な学生運動であったという階層性に注意を喚起しておきたい。この「青年左翼闘争に於けるエリート階層性」という特質は、日本共産党の結党以来宿阿の如くまといついている日本左翼運動の特徴であり、どういう訳かマルクス主義を標榜しながら労働者階級を巻き込んだ社会的闘争には一向に向かわないという傾向が見られる。全共闘運動は、全国規模の学園闘争として「60年安保闘争」に勝るとも劣らない運動を展開させていくことになったが、「かの戦闘的行為」に対して庶民一般大衆が抱いた心情は、「親のすねかじりでいい気なもんだ」という嫉視の面もちで受け流されていた風があった。このこと自体は発生期の事実的特徴として必要以上には批判的に問題にされることもないかもしれないが、運動の主体側の方もまた「ある種のエリート意識に囲い込んだまま」終始させていたということになると問題にされねばならないように思う。この観点からすれば、代々木系も反代々木系も同根の運動であり、これは日本の左翼運動の今に変わらぬ病弊のように思われる。つまり、「ブ・ナロード」の能力を持たない自閉的エリート系左翼運動が今日まで続いているという負の現象をまずは認めておこうと思う。
私論になるが、そうであるにせよ、この当時このような学生左翼青年を澎湃と排出せしめた要因は何であったのだろうか。当時の国際的なスチューデントパワーの流れ、国内外の社会情勢、社会主義イデオロギーが幅を利かせていた象牙の塔内の動き等々にも原因を求めることも出来ようが、私は少し観点を異にしている。恐らく、戦後自由を得た日本共産党の党的運動が急速に社会の隅々まで影響を及ぼしていった先行する事実の余波があり、当時の党運動の指導者徳田書記長時代の穏和路線から急進主義をも包摂した野放図な運動の成果が底バネになって、はるか20年後のこの頃の青年運動に結実していったのではないのか、という面も考察されるに値するのではなかろうか。徳田時代には、戦前-戦後を通じて我が身の苦労を厭わず社会的弱者の利益を擁護して闘った共産党員の「正」の遺産が継承されており、この遺産がとりわけ青年運動に対して大きな影響を与え続けていたのではないのかという評価をする必要があるのではなかろうか。ということは、徳田執行部の運動の成果を、「50年問題について」的に彼の没理論性の面や家父長的な指導による非機関主義的な党運営手法等の否定的面をのみ総括して済ますやり方は酷であり、そういう総括の仕方は非同志的な宮本式の処理法ではないのかということになる。何にせよ如何にして時の青年を取り込むのかは非常に大事なキーワードであり、この点においてむしろ徳田時代の党運動は成功していたのではなかろうか、と思う。徳田書記長の没し方を見ても分かるように彼の深紅の闘志は本物であったのであり、その懐刀伊藤律の場合も然りである。徳田時代は、戦後直後のわずか6年有余の実績の中でさえ、確実に明日の党建設につなげる種子を蒔いていたのではなかろうか。
ということは、今日の党運動における青年運動の肌寒さが逆に照射されねばならないことを意味する。宮本式党路線の真の犯罪性は、彼らが執行部に納まって以来50年にもならんとするのに、青年運動を全く逼塞させてしまったことに顕著に現れているように思われる。その長期にわたるいびつな党指導の結果、今日においては共産党の「正」の遺産は既に食いつぶされてしまったのではないのか。今日の党員像は、かっての周囲の者に支持されつつリーダー的能力を発揮していた時期から大きく脱輪しており、体制内「道理」化理屈による非マルクス主義的「科学的社会主義」運動方向へ足を引っ張るややこしい行動で周囲から「只の人」扱いされるそれへと移行しつつあるのではないのか。果たして、青年運動を牢とした枠組みで括って恥じない宮本-不破執行部は日本共産党の党運動の正統な継承者なのだろうか、疑問を強く呈してみたい。ちなみに、私は、宮本氏「個人」にとやかく言っているつもりはない。憎悪すべくもない見知らぬ人でしかない。党の最高指導者としての氏の政治的立場に対して批判を加えているつもりである。弱きを助け強きをくじく精神を最も誇り高く持ち合わせて出発した日本共産党の党是の精神を尊びたいがために、そのような精神とずれたところで党の頂点に君臨し続けた氏の政治的責任を追及しているつもりである。指導者の影響力はそれほどに強く、政治的責任というものはそれほどに重いと思うから。
もう一つの私的な観点からの考察を添えておく。非マルクス主義的な捉え方のようにも思うが、仮説として考えている。どなたのルポであったか忘れたが、韓国・中国・フイリッピン・ベトナムと旅をしてみてベトナムにやって来たとき一番ホットしたと言う。まるで故郷に先祖帰りしたような気持ちになったという。ルポ作家がこのように民族的同一性を文学的に表現しているのを読んだとき、私には思い当たったことがあった。わが国でひときわベトナム反戦闘争が沸き起こったことには民族的同一性からくる義憤という目には見えない根拠があったのではないのかと。最新の生物分子学におけるDNA研究の語るところに拠れば、遺伝子は過去の生物的進化情報を記憶しており、この情報は何らかの底流で「生きている」とも言う。つまり、わが国におけるベトナム反戦闘争は、血を分けた同胞がアメリカ軍によって苦しめられている様を見て先祖の血を騒がせたのではなかったのか、という仮説に辿り着く。その根拠を今現在の科学的水準で説明することは難しいが、そういうことはありうるという超常現象的考えを私は持っている。更に指を滑らせれば、この血の同盟による日本-ベトナム民族こそ、16世紀以降の欧米白色イズムに互して唯一といって良いほどによく闘い得た民族であるという歴史的事実があり、こうした認識の仕方はもっと注目されても良いとも思ったりしている。簡単に言えば、日本-ベトナム民族は、自治能力と民族的イデオロギー形成能力の高い民族ではないかということであり、このてんに関しては我々はもっと自信と関心を持てば良いのではないのか。ただし、これが「負」の面に立ち現れれば、欧米白色イズムに勝るとも劣らない隣接諸国に対する侵略者としても立ち現れることにもなる。大東亜戦争はその大義名分にも関わらずこの「負」の面の現われであり、解放後のベトナムのカンボジア・ラオス他侵略的な政策もまたそうであるように思われる。とはいえ、大和民族の優秀性とは言ってみても、第二次世界大戦における敗戦と今現在進行させられつつある国債大量発行自家中毒的経済的敗戦渦中は、その能力の二番手性をも証左しているとも思っている。アングロ・サクソン系の賢さには及ばないということである。ワンワールド化時代におけるこういう民族的自覚と認識は保持していて一向に差し支えないとも思っている。
話を本題に戻す。全共闘運動は、ノンセクト・ラディカルの澎湃な出現を前提とせずには成立しなかった。興味深いことは、ノンセクト・ラディカルと新左翼各派の統一連合的運動として全共闘が結成されたが、運動の初期においてはこの運動の主導性を行動的にも理論的にもノンセクト・ラジカルの方が握っていたことである。このパワーバランスが次第にセクトの方へ揺れていくのが全共闘運動の経過となった。ノンセクト・ラディカルが非党派を良しとしていた背景に理論的優位性があったためか、単に臆病な気随性のものであったのかは個々の活動家によっても異なるであろうが、全共闘運動が、ノンセクト運動の可能性と限界性を突きつけた史上未経験な実験的政治的左翼運動であったということは相違ない。この運動の実際は、歴史の不思議なところであるが、片や最エリート校東大と典型的なマスプロ私大日大という両校によって担われることになった。その要因として、たまたま両校に有能な活動家が出現したということと、両校に教育政策上の権力性がより強く淀んでいたことが考えられる。それにしても、この時期党派であれノンセクトであれかなり広範囲に左翼意識者が雨後の竹の子の如く出現し続けた訳であり、今日的水準からすればよく闘い得た素晴らしい青年運動であったと思われる。なぜこのように評価するかというと、あれは立派なコミニュケーションであったと思うから。コミニュケーションの通過性こそ人間存在の本質性だと思うから。現在このコミニュケーションが矮小化させられていると思うからである。
今日全共闘が懐かしく回顧されつつある理由として、「大学の自治」という美名の中に牢として秩序化されていた講座制という権威的封建主義と功利的近代主義の両面に対してよくぞ闘い得たという「正」の面の評価が挙げられる。全共闘運動の精髄は、既成の権威・価値・装置の全てと自己の存立基盤を疑い、アナーキーな問いかけで社会に問題を提起した姿勢にあった。彼らのこの当時の「訴え」は今なお有効であり、否ますます有効さを示しつつある。元々彼らの問いかけは、ベトナム戦争に対する義憤に発したと思われるが、これを極めて思弁的に語った。彼らの論理は、単にベトナム戦争に白黒の政治的立場を表明するに留まらず、米帝国主義に加担して太り続けようとするわが国の人格的(というのも変だが他に適当な言葉を知らないので)在り方を凝視し否定することで普遍性を獲得していた。それは、大量生産時代の物資的な豊かさに呑み込まれつつあった時代の「先進国的豊かさ」を享受しようとして競争している「体制」に対する反逆の狼煙となっていた。今この姿勢の真価が評価されようとしている。あの時代から今日まで世界の資本主義体制は、ますます経済的利益最優先論理の下に資本を爛熟させてきたが、現在我々はこのことによって失った代価もあまりに大きいという現実を突きつけられている。公害の発生、空気・河川・大地・食物等の環境複合汚染、当然我らが体内もまた同様の汚染が進行していることが考えられる。危険極まりない原子力発電化、生態系を無視した森林伐採、生物・動物の乱獲、政治も教育も医術も算術優先化させたことによる精神の荒廃・人々の相互疎外化等々は、「既存的な豊かさ享受の論理」と矛盾を深めつつある。今日のこうした情況は、もう一度「あの問いかけ」に戻ってみる必要があるのではないかということを訴えつつあるように思われる。「否定はまず自分自身に向けられた。徹底的な自己否定なくしてはいかなる肯定もあり得ない内なる個の否定」、「我利我利亡者的エゴイズムの徹底的破壊。我らの闘争の根元的な拠点」(進撃3号「砦の狂人たち」)は、こうした感性の表現であるように思われる。
こうした全共闘の「訴え」の歴史的背景には、丁度中国で毛沢東が紅衛兵に呼び掛けていた「造反有理精神」の発揚があったものと思われる。実際には紅衛兵運動は政治主義的に利用されたようではあるが、わが国ではその理論面が輸入された。前述したように儲け合理主義一辺倒がとめどなく進行しつつあったあの時代において、全共闘の「体制」に対する「違和感」がこの「造反有理精神」と結合したとき、ベトナム戦争を通じてヒルの如く戦争の血を吸って高度成長しつつ、帝国主義的に世界列強への仲間入り政策を進めつつあった国家体制に対する「叛乱」へと進むことを良しとさせたのではなかったか。自己の存在が否応が無くこうした帝国主義的な成長過程に組み込まれていることに対する反逆として「自己否定運動」というものを生み出しつつ決起せざるをえなかったのではないのか。こういう「体制」はまずもって「解体」されるべしと。「自らが日々従事している『平和』的な労働=生産こそ、日本の侵略加担の巨大な構造を支えている歯車であり、まさに血に汚れた『人殺し』労働なのではないのか」(共労党)という「訴え」はこの辺りのことを表現しているように思われる。
この論理は、東大闘争における医局員の次のような論理に見て取れる。「東大闘争は、医学部に於ける青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部に於ける研究教育体制の合理化=帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する国立大学協会自主規制路線の下に、この闘いを圧殺しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」ことから始まった。この叛乱は、曰く研究の自由に措定されている階級性の告発、曰く特権的身分の否定、曰くこれらの告発に何一つ答えることが出来なかった知性の府の腐敗の告発を通じて、やがて学問的営為全体に対してブルジョワ的という名を賦与してまず「否定」から始められねばならないという運動を創出していくことになった。この論理が共感を生みだしていくことになった。これを社会的関わりの中で見据えれば、概要「産学共同路線の実体は、大学の産業(資本)への従属であり、企業からの資本投入による安価な受託研究施設として機能し、安価な人材養成機関と化し、研究者の自立した研究を妨げる。研究内容そのものも帝国主義的価値との絡みに規定されており、大学の自治や学問の自由といっても偽善であり、現体制を美化するものでしかなく、大学に於ける帝国主義的な本質を隠蔽しているのではないのか」という認識を生みだした。こうした仕組みの中でノホホンと研究が進められていく事の「学者面した不義」に対して、全共闘は、当初の「研究者のあるべき姿勢の問いかけ」から次第に「破壊」的行動へ更に「解体」的運動へと理論を発展させていくことになった。つまり、「自己否定論理」から「世界の解体-再創造」に立ち向かっていかせることになった。こうした観点を究極化して「層としての学生運動」を生みだしていったのが東大ノンセクト・ラディカルであり、セクト的社会革命運動とは別個に創出された思弁的ラジカリズムによる学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。
ただし、東大ノンセクト・ラディカルに思弁性の高さは認められても、政治運動化の論理はおぼこかったように思われる。「自己否定論理」は、帝国主義的要員としてプロイダー教育・研究化させられている自身の存在の「自己否定論」となり、「造反有理精神」は、その産みだし機関の否定としての「帝大-大学解体論」となり、「世界の解体-再創造論理」は、「体制破壊-解体へ向けての革命運動論」へと発展することになった。「既成の大学の自治」とは、そうした根元的な問いかけ-運動の創出の前には全く無能なあるいはまた帝国主義的に組み込まれた擬制でしかなく、小手先の改良によりどうなるものでもないむしろ欺瞞的として否定の対象とされた。こうした認識は、実践的に「戦後民主主義体制のイデオロギー的否定」へと向かい、学内運動としては「ポツダム自治会粉砕」へと向かい、対置したものが「直接民主主義論」(一種の代行主義的な多数決原理に基づく間接民主主義のポツダム自治会のアンチ・テーゼとしての直接民主主義)、「コミューン的組織論」、「政治運動におけるラジカリズムの肯定」となった。対社会闘争としては青写真無きままのラジカリズムによる革命運動への志向となった。「否定は内から外へと向けられた。否定さるべきもの、現に存在する大学当局の管理権力機構、としてそれを可能にし背後から支えている国家権力そのもの。だが二つの否定は論理的な区別を有するのみであって、現実に闘争を担っている主体にとっては同時的であり不可分離である」(進撃3号「砦の狂人たち」)という語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。
こうした全共闘的論理の実際の政治的運動としての立ち現れ方は後述するとして、全共闘は組織論的にもユニークさを発揮していた。全共闘的組織は、当然既成の前衛意識的組織論とは異なる個々人の主体的決意をリンクさせたものとなっていた。これを代表的に表現していたものとして東大助手共闘の次のような了解事項がある。いわく①.個人の主体的決意のみによる参加、②.指導部は創らず、問題は全て全員討議にかける、③.組織の維持を自己目的化しない。つまり、前衛党的な「民主集中制」とか分派禁止にまつわる細かな規約を持たず、極力シンプルに個々人の「内なる思想的闘い」を重視させた非統制的組織論に依拠させようとしていたことになる。この三規約は、一切の党派的イデオロギーからの自立と、こうしてアトム化された個人の結集体としての自立的自主的運動体としての可能性を追求する運動を担おうとしていたものと思われる。ベ平連系にもこのような論理が見られることを思えば、こうした思考と行動様式はベビーブーマー的論理の特徴であったのかも知れない。「私は、ノンセクト・ラジカルということになっていますが、その内実はアナーキズム・ニヒリズム・プランキズム・マルキシズム・フーテニズム・ヤクザイズムのごった煮でありまして」(最首悟)というカオス派的語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。つまり、左翼運動史上前例のない相互の自主性を重んじた組織運動を目指していたことになる。「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する」という語りもまたこの辺りのことを表現しているように思われる。
こうした東大闘争とは別途の方法で共に戦い抜かれたのが日大闘争であった。共に有ったのは、ぶんぶく太りし続ける日本経済の発展の仕方に対する拒絶の姿勢、と私は観る。日大闘争ならではの特殊性としては、日大には過去学生運動の歴史が無く、それもその筈で建学理念の保守性とこれを護持しようとする強力な右翼系体育会・応援団運動こそが日大の学生自治運動となっていたという背景があった。ところが、世情騒々しさのおりがら古田理事会体制による不正入学金の使途不明問題が勃発した。学生の怒りが沸き起こり、「不正入学金の使途不明告発から学内民主化闘争へと発展。大学を学問探究の場から利潤追求の場とした古田理事会体制との闘争」が組織されていくことになった。この闘いは、大学当局の意を挺した暴力機関体育会・応援団の介入と血みどろになりつつ勝利的に切り開かれていくことになった。それはあたかも、「ベトナム人民が武器を持って立ち上がり、侵略者を追い出し、自らの解放を勝ち取ろうとしていた」ことになぞらえられる闘いであった。秋田明大を議長とした日大全共闘が結成され、「一.理事長総退陣、一.経理の全面公開、一.不当処分撤回、一.集会の自由、一.検閲制度の廃止」という5つのスローガンに集約された闘いを進めていく運動の中から次第に「古田体制の帝国主義政策の先兵、帝国主義者に反抗せず支配者の言いなりになる人間の養成の場とした体制を打倒し、ブルジョアジー教育に於ける砦を破壊し、学生の戦闘的拠点を建設する闘い」の創出へと向かうことになった。この日大ノンセクト・ラジカルもまたセクト的社会革命運動とは別個に創出された反封建向民主的ラジカリズム的な学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。
残念ながら、こうして盛り上がった東大-日大闘争は、次第にセクト理論の洗礼を受けていくことによりみずみずしさを失ってしまう。(もう少し時間をかけて各派ごとに対比させつつ研究してみたいが、この場合は何せ時間と資料がないのではしょります)セクト理論の影響を受けて闘争が深化発展する方向へ向かうのならよいとも思うが、トンデモの方へ行ってしまう。「民主主義は労働者階級の闘争を市民的秩序に押しとどめるもの」→「大学の自治は幻想であり守るべき自治は何もない」とする帝国主義の欺瞞的支配の図式化→「ブルジョア民主主義をプロレタリア民主主義と対立させ、打倒されるべきものとする」という論理による民主主義闘争の放棄→「一切の改良主義的妥協と自己欺瞞を峻拒した永続的闘争」→「権力を引き出すことを目的意識的に追求する闘争」→「先駆的集団の挑発によって国家の暴力支配を登場させる」→「国家の暴力支配の登場が大衆を闘争に駆り立てる」→「先駆的前衛的にこの闘争を担うというヒロイズム精神による特攻隊化」。このような論理は、完全な政治的引き回しでしかない。各派がこの段階のどれかに位置しつつ全共闘運動に揺さぶりを掛けていくことになった。その結果、全共闘運動は、さてどこに向かおうとするのか何処まで向かうのか分からなくされてしまったのではないのか、と思われる。
こうして、当初のアナーキーな問いは、大学制度改革運動から次第に離れてこの問い自身のデカダンスへと発散していくことになった。「自己否定の否定はやはり否定」と揶揄されている破滅的論理に沈んでいくことになった。残された方向は先鋭的暴力化の競い合いという構図となった。興味深いことは、大学制度改革運動から全共闘運動が生み出されたにも関わらず、全共闘運動がこうしたデカダンスの深みに入っていくことにより、大学制度改革運動を民青同系が担っていくことになったという経過がある。私は、これを全共闘運動の自己転落と観る。この自己転落の責任を民青同に転嫁させ「民青殺せ!」の道程へ踏み入って行くことになったのでは無かろうか。「誰のせいでもありゃしない。みんなおいらが悪いのさ」という歌の文句をはなむけとしたい。
さて、最後に付け加えておくことがある。全共闘運動が賞賛されるべき内容を保持していたにも関わらず、その運動の中に無条件に胚胎させていた暴力性の論理である。この暴力性は、彼らがどう政治的な言葉で言い繕ろおうとも、事は至って単純エゴイスチックなものでしかなかった。「トロが学生自治会の執行部に選ばれた場合、自分たちの支持が無くなると、何年間も改選しなかったり、不正選挙、不正投票をしたり、学生大会から反対派を暴力的に閉め出したりしてきた」(川上氏「学生運動」)と言わしめるような手法を日常化させていたのではないのか。なぜ、彼らは堂々と所見を述べ、学内外にプロパガンダしていかなかったのだろう。私に言わせれば、全共闘は値のある理論を持っていたように思われる。民青同は宮本論理の影響を受け、ほぼ自主性のない運動しか為しえない窮屈な姿を見せていた筈である。なぜ堂々と民青同と渡り合い、自治会執行部を取れればよいし、取れなければ取れるように根気強く運動を組織していくねばり強さを培えなかったのだろう。「民青殺せ!」と絶叫しつつデモしていた事実は一体何を語るのだろう。「悪魔も寄りつかぬ静寂の中でドン・キホーテは夢をみていた。しかし僕らは自己を主張するのに不可欠なハンマーを見ている。反革命分子よ気をつけるがいい。血と肉を持った存在が今や鉄槌無しには主張され得ないのだ」などとうそぶきつつ「自己の内なる東大を否定せよ」とは、一体何を洒落ているのだろう。
私が民青同を評価しているのは、次の一点にある。度々指摘しているように党中央指導によるゲバ民化の事実を隠そうとは思わない。しかし、民青同は学生運動内に曲がりなりにも民主的手続きと原則に対して踏まえる術を知っていたと思う。学生大会の運営も然り、逆にやられたらやり返せとばかりに「他党派のあれこれを殺せ!」と絶叫しつつデモったという事も知らない。こういうことは誰に教えられるのでもない、何かイデオロギー以前の人としてのたしなみではなかろうか。反代々木系運動にはこのたしなみに対して欠落したものがあるのではなかろうかという不信がある。残念ながら私には民青同の良さは他には見あたらないが、民青同が踏まえていたこの手続き民主主義の精神こそ最も大事なものなのでは無かろうか、と思う。民主主義は間接であろうが直接式であろうが手続き無しには成立しない。この手続きの野蛮化と権力化をチェックし民主化するということは、「人と人との群れ方」というコミュニティーの約束事としてイデオロギー的メガネを掛ける以前の話なのではなかろうか。受験から解放されてわずか数ヶ月か数年のうちにいっぱしの活動家が促成され、「日共解体、民青殺せ!」と呼号しながらデモることに不自然さを覚えない感性が分かりにくい。人の弁証法的成長過程として許容される部分も有るとは思われるが、その際手続き民主主義の精神と切磋琢磨精神の涵養は前提にされていなければならないのではなかろうか。
この精神が大事で無いというのなら、70年に入って以降学内に立ち現れた特定セクトによる暴力支配に対して手を焼いた経験がない者の物言いとしか考えられない。このキャンパス内に立ち現れた憲兵隊的存在こそ70年以降の学生運動の特徴であり、学生運動低迷の真の原因と私は思っている。元々少ない左翼意識の持ち主がパージされ続けた結果、キャンパス内に「白け」が蔓延してしまうことになった。いつの間にか「白け」が日常となってしまったのではないのだろうか。対話弁証法のないところには発展がないのであり、それは飛行機が摩擦抵抗を利用しつつ滑走路からフライングしていくという物理法則と同じ現象であり、その逆の例である。左翼運動自体が古くなったのではなく、もっと単純に古くさせられているのではなかろうか。これが二度と全共闘運動を創出させない主要因になっているのではなかろうか。これに対するのに、負けた者の遠吠え的にではなく、まず自ら左翼運動内にこうした現実を生み出させない強固な運動理論を構築する仕組みが必要とされているのではなかろうか。単純に言えば、「されて嫌なことはしない」という平明な原理を守れば良いだけの話である。万事ブルジョア的と言いなせば粉砕されたり、プロレタリア的だとか言いさえすれば免罪されるという作法は命名者側の権力の乱用的常套手段であり、この物言いに納得する側の「知」の頽廃を前提にして成立しているのではなかろうか。互いの活動を認め合うという原理は万古不易に墨守されねばならない大人の嗜みなのではなかろうか。こうした原点の確立から運動を模索することこそセンチメンタリズムを越しえて全共闘運動を総括しうるものとなるのではなかろうか。