このような全共闘運動に敵対した当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察するのが本投稿のテーマである。ちょうど民青同の論理は、全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけをという具合に何から何まで対置関係にあったことが分かる。実際には全共闘運動の方が空前の盛り上がりを見せ、民青同がこれに対抗していったことになるので、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼・民青・機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。元々大学民主化闘争は学生運動自体のテーマであり、全共闘運動とてここから始まったように思うが、全共闘運動はいつのまにか担おうとしなくなり、民青同の一手専売となった。私が入学した頃には、「政治的自由と民主的諸権利の拡大を目指す闘争」、「教育権・機会均等の擁護、学費値上げ反対、奨学金の拡充、寮の完備、勉学条件の改善」という当たり前の運動が民青同以外では見られなくなっていた。もっとも民青同は、抱き合わせで「トロッキスト、修正主義者らを各大学において、全国的な学生運動の戦列に於いて一掃することが不可欠」という指針を掲げていたので、これにもなじめなくなった私の居り場がとうとう無くなってしまった。
ここでは民主連合政府の呼びかけに対する共感について考察する。いわゆる全共闘運動が左翼イデオロギーを満開させつつ「まず解体から、しかる後建設が始まる」という展望無き展望しか持ち合わせていなかったのに対して、この当時日本共産党が指針させていた「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」運動は目前の手応えのある実体であったということもあって、民青同にとって全共闘的運動に対置しうる理論的根拠となっていた。
こうして見ると、民主連合政府樹立運動の提唱と立ち消えていった経過が気になってくる。提唱については、「70年の第11回党大会で、民主連合政府の樹立についてあらためて具体的な展望をしめし、73年の第12回党大会では、民主連合政府の政府綱領についての提案まで討議決定しました」(1998年8月25日付「しんぶん赤旗」での不破哲三委員長緊急インタビュー「日本共産党の政権論について」)とある。少なくとも60年代後半には民主連合政府樹立運動が提唱されていたと思われるので、正式な党大会決定されたのがこの時期という意味であるように思われる。「70年代のおそくない時期の民主連合政府の樹立」の可能性については、73.4.13日初版の上田耕一郎著「先進国革命の理論261P」では、「1970年に開かれた第11回党大会では、70年代の遅くない時期に民主連合政府をつくろうという方針を決めました。当時は『まさか』と思っていた人が大部分だったでしょう。ところが、昨年末の総選挙で共産党が大躍進したため、『まさか』どころか、民主連合政府が現実味をもって受け取られるようになってきました。今度はある週刊誌は、民主連合政府の『予想閣僚名簿』まで発表するという気の早さです」とある。が、いざ70年代のその時期を迎えて実際になしたことは、「三木内閣のもとで、ロッキード事件が暴露され、また小選挙区制の問題で日本の民主主義がおびやかされるという情勢がすすんだとき(76年4月)、私たちは、小選挙区制粉砕、ロッキード疑獄の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で『よりまし政権』をつくろうではないか、という暫定政権構想を、当時の宮本委員長の提唱で提起しました」(「日本共産党の政権論について」)という代物になってしまっていた。この経過と執行部の責任について党がどのように総括しているのか私は知らないが、「私たちが、こういう提唱をした70年代、80年代という時代は、政界の状況からいって、私たちのよびかけが現実に政界に影響をおよぼすという条件は、実際的にはまだありませんでした。マスコミからも、いまのような積極的な関心は向けられませんでした。私たちの党に近い部分でも、はっきりいって、こういうよびかけを理論的な提唱としてはうけとめても、政権問題を現実の政治問題として身近にとらえるという問題意識は弱かったと思います。そういう時代的な背景だったんですね」(同)という総括ならざる総括で事なきを得ているようである。私は、「ソ連社会主義論」から「崩壊して良かった論」までの変遷もしかり、状況に合わせていかようにも言いなしうる現執行部の厚顔と口舌の才能に感心させられている。
してみると、このスローガンは元々党としての責任ある提案だったのではなく、全共闘運動に対置すべく、青年層の全共闘運動に向かうエネルギーを押しとどめるために巧妙に使われていたのではないのかとさえ思えてくる。マサカァと疑うよりはそのマサカァの可能性を思い浮かべてみた方が事態を的確に把握しうる。あの頃本気で民主連合政府樹立を夢見ていた者は幻影を見させられていたということになる。その一人であった私は、今では結局私が単に田舎者だったということだろうと自己了解している。今私があの頃に戻り得たとしたら、どう動くのだろう。民主連合政府樹立スローガンの虚妄を知っている私は党-民青同の系列には加わらないだろう。かといって飛び込めそうな党派も見えてこない。新左翼運動は観念性を強めており、プロパガンダが不足している。所詮エリート的な身内的な自閉的な自己陶酔型の自己満足運動でしかないようにも思える。こうして考えてみると、日本左翼の深刻なというべきか馬鹿馬鹿しいというべきか不毛性が見えてくる。そもそも数十派に分岐している左翼系諸派のお互いの一致点と不一致点さえはっきりしない。運動を担っている当の本人さえよく分かっていないままに党派運動が続けられている面もあるのではなかろうか。してみれば、田舎者の成長過程を上手に引き出すような左翼諸派合同のオリエンテーリングのようなものが欲しい。あるいはまたスーパーマーケットのように各党派の理論と実績をパッケージ陳列させておき、顧客が任意にセルフサービス方式で気に入ったものをバケットに入れるプレゼンテーション手法で党派と関わってみたい。量が質を決定するというのであれば、日本左翼はこうして裾野を拡げていくような努力をなぜしないのだろう。本当に自派の主張に正しさを確信し左翼的民衆運動を担おうとする強い意志があるのなら、党派側はせめてこの辺りまではプロパガンダえしえていないとおかしいのではないかと思ったりする。もっとも、市場経済下のマーケティング革命の進行なぞとんと眼中にない連中が党派運動をやっているので、こうした流通革命的手法の革新的意義なぞ分かりようもなく、昔取った杵柄よろしく旧来手法のままのオルグ活動に拘り続けているのだろうと思われる。この点今から思えば池田氏率いる創価学会活動の先進性が見えてくる。確かあの頃(30年前にもなる)既にビデオを使って布教活動をしていたように記憶している。腹蔵無く語り合う座談会方式といい、釈伏という戦闘的理論闘争といい、機関紙紙上における理論と実践の結合ぶりといい、全国各地に創価会館を敷設していったことといい、やるべきことをやれば政権与党化はそう難事ではないということの例証でもあるかと感心させられている。社会運動は指導者の能力によって随分左右されることが知らされる。
そのことはともかく、民主連合政府樹立のスローガンにおいて考察されねばならないことは、このスローガンが「70年代の遅くない時期」という時期の明示をしていたことについてである。何らかの根拠があったのか、元々根拠がなかったのかということが詮索されねばならない、と思う。もし、根拠が薄弱な単なる呼びかけでしかなかった時期の明示であったとすれば、党の呼びかけに対するダメージが深刻で、もはや二度と大衆は党の笛吹きには踊らされないと云うことになるであろう。と思うのだけども、党の現執行部は、またぞろ「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とか呼び掛けているようである。「民主的政権への道をどうやって開くか。『国民が主人公』の日本への改革です。それを実現する民主的政権を、21世紀の早い時期に樹立するというのが、私たちの大目標であります」(日本共産党創立77周年記念講演会「国政の焦点と21世紀の展望」.書記局長志位和夫. 1999年7月24日「しんぶん赤旗」)とか云われているようである。公然平然たるリバイバルであるが、私は、同じ執行部の下でこうした呼びかけが通用している党員の皆様のおおらかさに万歳させられている。
このスローガンにおいて考察されねばならないもう一つのことは、民主連合政府という統一戦線政府の内実に対する考察である。当初は社・共政権を核とした政府で最低限綱領を持ったものであったと思われるが、この綱領の移り変わりも興味があるところである。一度調べて見ようとも思うが、党外の私がせねばならないことでもないと思い未調査である。補足すれば、この当時、統一戦線とは、単なる政党間の野合を戒め、「複数の階級、階層が階級的利害や政治的見解・世界観などの違いを持ちながらも、共通の目標のため、共通の敵に対して闘うために創る共同の戦線(共同の闘争の形態・組織)のこと。統一戦線の掲げる政治的課題と目標及び、その階級的構成は、それぞれの国における革命の性格と段階によって、又階級闘争のそれぞれの時期と条件によって決まる。例えば、反ファシズム統一戦線、祖国戦線、人民戦線、民族民主統一戦線などと呼ばれる様々な統一戦線があるのはその為である」(社会科学事典、新日本社刊行)という概念規定の下にかなり厳格に運用されようとしていたという記憶がある。
この統一戦線論の欺瞞性は、次のことにある。日本共産党のいう統一戦線とは、運動の最大成果を得るために、一時的に綱領路線の逐条に付き方針を凍結してでも右派系諸潮流との共闘を優先させようとする運動論・組織論と思われるが、この場合「一国一前衛党論」が自明にされていることに問題が潜んでいるように思われる。つまり、現実には既に党以外にも公然と左派的立場を自認する諸党派が存在する訳であるから、文字通りの意味で統一戦線というならばこれらの諸党派との統一戦線もまた組み込まれる必要があるにも関わらず、現在の党執行部の統一戦線論にはこの部分がスッポリ抜け落ちている。左派でもない党を最左派とする右派系諸潮流との統一戦線論であり、党より左派系潮流が排除されているという統一戦線論である。急進主義者・トロッキスト・挑発者・反党主義者・分裂主義者・左翼日和見主義者・暴力集団等々ありとあらゆる面罵とレッテル貼りで、これらの諸潮流を無条件に排除した上での統一戦線論であることに留意が必要である。これでは片手落ちというより、本来の意味での統一戦線になりえておらず、自らに都合の良い理論でしか無く、右へ傾いて行くしか出来ない統一戦線という訳である。この点如何であろうか。私の捉え方変調でしょうか。補足すれば、万が一民主連合政府的なものが出来たして、党より左派系諸派の政治的活動が認められる幅が現自・自・公政府下のそれより狭まるという危惧は杞憂なのだろうか。私は、より左派系党派の政治的自由についてきちんと説明したものにお目にかかっていない。赤旗記者が茶髪・金髪OKで党本部を出入りしている自由さとかいう本来
何の意味も持たない例で説明しているのを聞いたことがあるばかりである。
民主連合政府の呼びかけは、歴史的には、社会党がむしろ社・公合意の方向にむかっていったことによって流産したように記憶している。共産党が右へ寄れば寄るほど社会党も右へ動き、今日共産党はかっての民社党辺りのところまで寄って来ているようにも思われる。でどうなったのかというと社会党がいなくなってしまった。民社党はリベラル系保守諸派の中に潜り込んでしまった。この先一体どうなることやら。やはり瑞穂の国は大政翼賛会方式が似合うのかも知れない。こうした流れに結果したことについて、社会党批判とは別途に党の主体的力量の反省もされねばならないのではなかろうか。スローガンに仮に正しさがあったということとその道筋を作りだせれなかったということとは不可分の責任関係にあると思われるが、免責されるのであろうか。つまり、民主連合政府の呼びかけ問題に付きまとっていることは責任体系の問題である。政治的スローガンの提唱は執行部の権限であるが、その指針が流産した場合まっとうな政治的解明と責任処理がなされるべきであるという緊張関係がなければ、全ては饒舌の世界になってしまうのではなかろうか。この峻別がなされているのが自民党であり、与党として信頼が託されている所以なのではなかろうか。しかし、このたびの党の現執行部の呼びかけには反省と工夫がなされているようである。「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とあるように、この度は「70年代の遅くない時期」に比して「21世紀の初頭」という漠然とした長期レンジのスローガンになっていることに気づかされる。この時には不破氏も志位氏も政治活動の一線からリタイアしている頃であろうから、執行部の責任体系をあらかじめ放棄した批評的願望的スローガンであることが見て取れる。極く最近では組閣参入にも色気を見せてもいるようであるが、どっちへ転ぼうともフリーハンドの執行部というのは党ならではの羨ましい限りの話のように思えたりする。それにしても党員の皆さんのご納得ぶりにはただただ頭が下がるばかりというしかない。