第9期(70年以降)【層としての学生運動の衰退とその後】
いよいよ70年を向かえて「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えていた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入まで見せた「60年安保闘争」のような意味での「70年安保闘争」は存在せず、表面の動員数のみ誇る平穏な儀式で終わった。「60年安保闘争」は「壮大なゼロ」と評されたが、「70年安保闘争」は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応しい。
70年以前-以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノンポリと言われる一般学生が主流となった。従来の一般学生は時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はもはや政治に関心を示さないノンポリとなっていた。学生運動活動家が一部特定化させられ、この両者の交流が認められなくなった。その原因は色々考えられるが、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってアメリカン民主主義イデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は「一触即発的全般的危機に陥っている」と言われ続けながらも、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになった。私は、この辺りについて左翼の理論が現実に追いついていないという感じを覚えている。一つは、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて、一部特定化された学生運動活動家と武装蜂起-武装闘争型の武闘路線が結合しつつより過激化していくという流れが生み出されていくことになった。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。この延長上に69年の共産同赤軍派、70年の日共左派による京浜安保共闘の結成、ノンセクト・ラジカル過激派黒ヘル・アナーキスト系の登場も見られるようになった。一つは、革マル派を仕掛け人とする党派間ゲバルト-テロの発生である。この問題は余程重要であると考えているので、いずれ別立てで投稿しようと思う。
3.14日 大阪万国博(EXP0'70)開会式。この頃カンボジアで内戦が起こり、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナム反戦闘争も混迷を深めることとなった。3.31日、日米安保条約自動継続の政府声明発表。この日赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャック)発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。4.8日革マル派が4.28統一デモに参加したいと申入れ。4.9日カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。4.15日米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。4.23日、日本政府はカンボジアの現状は内戦ではなく、北ベトナム軍の侵略に対する戦いであるとの公式見解を発表。米国政府、カンボジアに武器を援助していたことを認める。4.28日沖縄デー。各地でデモ。10余万名参加。反代々木系1万6600名(うちべ平連など市民団体8000名)結集。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。5.8日全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。5.29日カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。
6月「反安保毎日デモ」が展開される。6.14日社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。6.22日米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集。逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。この時ML同盟は「国立劇場前爆弾事件」をひき起こして幹部活動家が大量に検挙され、その総括をめぐって紛糾し、組織は壊滅状態に陥った。6月のブント第七回拡大中央委員会を契機に内紛発生。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する右派グループの「情況派」「叛旗派」が分裂した。7.1日 共産党第11回党大会(初公開)。7.7日ろ溝橋事件33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会。席上、華青闘が新左翼批判。4000名(うちべ平連550名)結集。7.17日 家永教科書裁判、東京地裁で勝訴。7.23日新潟地裁で反戦自衛官小西三曹の裁判第1回公判はじまる。
8.4日厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏の死体発見、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明。この事件は、従来のゲバルトの一線を越したリンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。私は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。この事件後革マル派は直ちに中核派に報復を宣言し、8.6日中核派殲滅戦宣言、8.14日中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人にテロを加えた。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。9.30-10.2日三里塚第一次強制測量、反対同盟・支援学生、公団側と激闘。10.8日羽田闘争3周年。入管闘争。10.9日ロン・ノル政権のカンボジア、クメール共和国へ移行を宣言。10.20日政府、初の防衛白書を発表。10.21日国際反戦デー。全国で集会、総計37万名が参加、デモ。219名逮捕。11.7日べ平連第62回定例デモ(マクリーン裁判支援として)、680名参加。逮捕11名。デモに革マル派100名が参加。デモ参加者に暴行、混乱。10.22日、日米共同声明1周年抗議で、べ平連・入管闘・全共闘など共催「日米共同声明路線粉砕・入管法再上程阻止・入管体制粉砕、11.22労学市民総決起大会」。1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。
11.25日作家三島由紀夫氏らが市ヶ谷自衛隊内でクーデター扇動、割腹自殺。この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。私論であるが、こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのでは無かろうか。決起文には「革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた」、「日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」、「日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた」等々と記されていた。この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ左派的に対話する習慣を持つべきでは無かろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきでは無かろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろう、と思う。
12.13日、日米繊維交渉、行き詰まり、中断。12.18日京浜安保共闘、赤塚交番襲撃銃奪取闘争。警官に撃たれて3人が死傷、柴野晴彦射殺さる。12.20日沖縄コザ市で暴動(コザ大暴動)。騒乱罪適用される。この頃軍事路線をめぐって「RエルGゲー」(共産主義突撃隊)の強化とゲリラ闘争を主張するブント左派グループが、それに難色を示す中間派の「荒派」に対して訣別を宣言した。
71年以降においても追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。他方で、第二次世界大戦の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と「お上」の能力の方が左翼より格段と勝れている神話化された現実があると思われる。問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の統一戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄氏を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。